第十一章 二年前の真相

Pocket

松岡隆一画伯(秋田県鹿角市)

jomon11.jpg SIZE:360x400(21.7KB)

62、記念写真

 美香の立場から回想するとこうなる。
 二年前のあの朝、縄文村に来て四日目を迎えた美香はクリスの家で目覚めた。美香は、この日のことを一生忘れない。この日はまだ縄文村に村人はいたが、美香にとっては驚きの連続で、この一日だけでも、心臓が停まるほどの感動や悲しみを知った。
 美香が求め続けたもの……自分の命を捨てても人の命を救いたいと願う究極の愛……美香はこの日、それも知った。
 ともあれ、波乱の一日が始まった。
 その朝も、悦びに満たされた眩しいほどの幸せな朝だった。
 だが、このクリスとの性の悦楽だけが美香の心に感動を呼んだものでもない。むしろ不安を招くほど深すぎる男と女の出来事は、その時、どれほど激しく燃えようとも過ぎてしまえば、また次の悦びを求め、さらに強く、さらに熱くと、欲望はいつまでもエンドレスで続いて苦しめるであろうことも知らないでもない。
 人は旅に出て一夜の宿を重ね、激しい嵐の一夜が過ぎるとまた新たな夜を求め、その瞬間、その刹那毎に燃えるものを体感し、さらに、燃え上がってゆく。その際限のない、底なし沼のような自分の欲望が恐ろしいのだ。
 だが、今日の出来事はそんなことだけでもない。
 美香が目覚めたのはクリスの腕の中で、髪を優しく撫でながらクリスが額に口づけをした。遠い日、どこかで感じたことのある一連の仕種が美香の記憶に蘇って来る。
 この至福の時を過ごしながら、唯一無二の人に抱かれたと信じようと思えば思うほど、初体験の十六から美香を通りすぎた五十をゆうに越える男達に、裏切られ続けた言葉や仕種が断片的な記憶の中に現れては消えてゆく。
 ただ、これらの記憶の中に、このような激しい喜悦を感じさせてくれた海外の男も何人かはいた。テニヤンの浜辺で知り合った現地のチャモロ族の青年、モンマルトルの丘で知り合ったスペイン人の画家の卵、ワイキキで過ごしたサ-ファ-の若者らだとか。だが、不思議なことに、それらは思い出しても懐かしくはない。むしろ、美香の心に一瞬の輝やきで消え去った線香花火のような男達の記憶は、波打ち際の砂に消える足跡よりも儚かなかった。
 しかし、ニュ-ヨ-クで、お互いに本名を名乗らずに一夜を過ごした、あの青年のひたむきさが伝わるあの黒い瞳が、鮮烈な印象で美香の脳裏に刻み込まれ、いまも夢に現れては美香を苦しめる。
 偽りの住所と名前、宿泊しているというホテルにもいなかった。
そんな男と一夜の情けを交わした美香には不要なのに、わざわざ宿泊先の宿の名や電話番号まで書いて去った男が憎い。
 騙し騙されるのはいい。しかし、遊びとは割り切っていても、そんな卑劣な手で女心に傷を残した男が憎かった。そんな男に、一瞬でも心を許した自分が悪いのは百も承知していながら、いつまでも、心の疵が疼く自分が辛かった。あの男の魂を吸い込むような黒く澄んだ瞳が恋しく懐かしい。
 この朝の幸せにも、あの時の嫌な予感がよぎっていた。
この朝……と、いっても夜明けまでクリスに激しく愛されて喜悦の叫びを上げ続けていた美香が目覚めたのは午後だっが、ふと嫌な予感が目覚めの意識を妨げていた。
 美香がまだ夢のようなまどろみの世界にいたとき、戸口が叩かれて、白鳩を抱えたトシの姿が、クリスが開けた半開きのドア-の向こう側に見えたのだ。多分、その足にはめ込まれた伝信筒から取り出したと思われる小さな紙片をトシがクリスに手渡しながら標準語で喋ったのを聞いた。それは夢の中とも思えたのだが。
「ふもとから四人上がって来ると書いてある」
 紙片に目を通したながらトシの声を聞いたとき、クリスの表情が急に険しくなったのを美香は見た。クリスが声をひそめた。
「誰ですか、この四人は?」
「石脇、佐賀、勝川、戸田友美……佐賀は話せば分かるが女はヤバい、記事に書かかれるからな。前にここに来た勝川は案内役だ」
「どうします?
「少し早いが、閉校にするか?」
「分かりました。トシさんに任せます」
 何か緊急の不測の事態が発生したらしい。その二人の小声を夢うつつに聞いた美香は、直観的に別れが来るのを感じていた。どうあがいても添えない恋もある。これが運命というものだ。
 素早く身支度を調えたクリスが、美香にはまだ寝ていてもいいというように、優しく額にキスをして表に出ていった。
 美香も立ち上がって裸のまま屋内の隅にある水瓶から木杓で水を汲み、口をゆすぎ顔を濡らし、粗布を濡らして体を拭くとすっきりとした。
 若鹿のなめし皮の腰布を巻き、カエデの葉模様入りの麻の袋衣を被って穴から頭と手を出し、蔓革のベルトを巻く。少し長めに延びた髪を上で丸めると、まさしく縄文の女になった。
 この時はまだ美香は、縄文人でいたかったのだ。
 表に出ると、エリが駆け寄って階段を駆け登り、美香に抱きついて頬擦りをして、手に持った手作りの木彫り花模様の髪飾りを美香の丸めた髪に刺し、手に持った手作りのポシェットを美香に手渡した。その目から涙がこぼれている。
 その腕をとって階段を降りながら、エリの涙の意味を考えた。
(縄文こそ永遠の世界だと信じたのに、もしかしたら、別れの時が来たのか?)と。
 ふと、エリから貰ったポシェットから、トシの家でエリが言いかけた「ポシェ……」の謎が解け、美香は愕然とした。
 ポシェットは外来語だから縄文時代にはあり得ない。だから、言いかけて止めたのだ。と、なるとエリは現代人なのか?
「エリさん。あなた、普通に喋れるんでしょ?」
「ハイ」
「あなた。これを編む前にポシェットって言いかけたわね?」
「ご免なさい」
 やはり美香は騙されていたのだ。
 後から来たやはり赤い目をしたキヨが、なにかを説明しようとした時、板が鳴った。
「エリさん、集合だから美香さんに別れを言うのは後にしよう」
 エリが美香の手を放さずに広場に向かった。
 すでに、広場には十五棟の全員、縄文姿の五十人ほどが集まっていて前方に数人の男が立ち、トシがおだやかに話し始めた。軽い訛りはあるがはっきりした標準語で全員に伝えた。
「みなさま、お早うございます」
 全員がいっせいに「お早うございます」と声を揃えて叫んだ。
「まず、ヘブライ村のクリス村長の訓示があります」
 美香は唖然としていた。こんなはずはない。これは夢だ。これでは小学校の朝礼ではないか。
 三十センチほどの高さの台に乗ると、長身のクリスがひときわ大きく見えて、広場にそそぐ初秋の朝の太陽にクリスの顔が金色に輝き、目が青い光を放って長い髭が風になびいた。それはまさしく一幅の絵だった。
 クリスが格調高い声で呼びかける。
「火のないところに火を起こし、家なき土地に家を建て、愛なき人が愛を知り、悦びを知らぬ人が悦びを知る。争うことなく力を合わせて生き、自然に学び、自然に悟り、自然の厳しさ過酷さの中から耐えることを知るのです。みなさまは、一人一人が問題を抱えて自分から望んでこの移動村に来ました。あるいは、無理に連れてこられた人もいますが、それも全て依頼人があってのことです。
 本日、急の事情で予定より一日早くこの小ヘライ岳の移動村を閉じ、つぎの地で新たな村づくりをします。八月から九月初旬にかけての夏休みをここで有意義に過ごされた学生さんは、これから学業に励み、親に孝行、家族仲良く、目上を敬い、人に親切の心を忘れず、友人を沢山つくって平和で豊かな人生を目指してください。
 みなさまは縄文村の永久村民ですから、また秋でも冬休みでも、遠慮なくお出掛けください。ここに集う全ての民に神のご加護とお恵みが有りますことをお祈りして、閉村の辞とします。みなさま、ご苦労さまでした」
 全員が「有り難うございました」と、声を揃えて叫ぶ。
 クリスが台から降りると、トシが台に上がって説明を加える。
「これから新郷村に移動してから帰宅し、それぞれのご家族と対面しますが、この縄文村の掟は、村であったことは口外しない、ということです。いま、縄文村普及会は隠れたブ-ムになって日本全国では、十五支部、会員は実際に村の暮らしを体験された正会員が約千五百人、食べ物や火起こし家作り教室など、疑似体験の準会員は一万人を越えております。
 縄文村普及会は世界規模ですが、日本全国での限定会員数には限度がありますのでPRは一切避けてください。これはあくまでも、ノアの方舟の乗員数に限りがあるからです。
 みなさまご存じの通り、この会の会費は無料ですが、これも、すべてクリスさまのお蔭であることを忘れないでください。
 これからは皆さんが中心になって、地域ごとに各地の山々でサバイバル生活の指導をして頂くようになりますが、日常生活でも決して文明の利器に頼り過ぎないこと。食べ物を無駄にしないこと。隣人への思いやりと愛情、これらを忘れないでください。
 では、これからの予定を申し上げます。十三棟裏の林の奥の崖からロ-プで牽引するケ-ブル船を六艘用意してありますが、一艘十人乗りですので、荷物用スペ-スと安全をみて一艘八人乗りで運航します。途中、急坂が三カ所ほどあるのと風の影響などで多少は揺れますが、人間は母親の胎内にいる時から羊水揺れを快く感じるようにできておりますので、一ノ倉ダム西詰め手前までの約三キロの滑り台を、のんびりと景色を眺めながらお楽しみください。
 到着地点にはすでに小型バスやワゴン、乗用車などが待機しておりますので、すぐ、新郷村の谷川村長の家に直行して温泉と朝食の後、それぞれ、お気をつけてお帰りください。
 鹿角市方面、または、JRでお帰りの方には花輪駅までお送りします。その他、ご希望があればそれぞれ、どこまででもお送りします。なお、東京方面にお帰りの方には小型バスも用意してありますのでご利用ください。
 なお、皆様が建てた住居は残念ですが後ほど燃やし、温泉も一度壊します。それは、あくまでも新たな村民が一から出直すために仕方ないことなのです、みなさまが頑張って作られた縄文土器や蔓で編んだバッグなどはすべてお持ち帰り頂き、これから谷川家に向かったら、そこに預けてある皆様の衣類と着替え、よろしければ、ご自分の縄文衣装も記念にお持ち帰りください。
 それでは、写真を撮りますが、なお、ここでは撮影は禁止ですので、この記念撮影が唯一の縄文姿の記録となります。
 後日ご自宅にお送りしますので、縄文仮装大会の風景と記入してアルバムに思い出を残しください」
 カメラを抱えた男が現れ、クリスと美香を中心に、縄文時代にはあり得ない記念写真の撮影が無事に終わった。
 キヨは、美香とエリを相手にいつまでも別れを惜しんでいた。

63 撤収

 美香はまだ夢の続きの中にいた。
 たった四日の体験だったが過去の汚れを全て洗い流してくれたのは間違いない。本物の縄文時代にタイムスリップしたかと思っていた戸惑いは、体験学習と知ったとたんにむしろ安堵したから不思議だった。
 それにしても、見事に統率のとれた集団だった。飛ぶ鳥後を濁ごさずというが、縄文村の後片付けは実に見事だった。
 各住居内をトシら幹部が見回って、忘れ物は会員に手渡し、燃えるゴミをまとめて火を点け、欠けた土器類などは地中に埋めた。
 穴を深く掘った囲い付きのトイレも壊されて埋められた。クリスの指示に従ってトシが率いる縄文の幹部のキビキビとした動きには全く無駄がない。
 ロ-プウエイ係は、麓まで降りて太いロ-プがどこにも亀裂がないことを確認し、船型の箱に木枠でカバ-を被せてあって、例え船が途中で転覆しても乗客は天井側に移るだけで、安全性には異常はないように設計されていると説明したが、揺れに弱い人は、縄バシゴで崖を降りて山を歩き、西側山麓の車止めまでの七キロほどを歩くことになる。
「着地する場所にはクッション材として沢山の芝木が積んでありますから安全ですが、素早く下船して頂きませんと、続く次の船からの途中停車が長くなります。また、次々に六艘の船が出ますので、その都度、途中停車になります」
 いよいよ始発船が出航する。ワイヤ-に八個のフックが掛けられていて、ブレ-キ用の大石が外された。ゆっくりと滑り出した平底の地上船は、会員のボランティアで地ならしされた傾斜地を軽やかに滑降してゆく。
「美香さんも一緒に帰りましょうよ」 
 エリが腕を絡むが、美香はどうすべきか迷っていた。
「仕事を終えて、十和田山で暮らす人達と合流するんですって」
 トシなど幹部五人がクリスと行動を共にするという。
「ごめんねエリちゃん。また、お山でお会いしましょう」
「山で暮らすの? 美香さんには東北の冬山は無理よ」
「でも……この自然の中で生きてみたいの」
「あたしは一度だけ、冬休み体験を受けたんだけど、雪嵐のお山は怖かった……でも、いつも誰かが抱きしめてくれてた。あたしも学校がなければ残るんだけどな」
「ダメよ。キヨさんが呼んでるわよ。あれ、お母さん?」
「あれは叔母、お母さんには毎年、ゼミのキャンプって言って出てくるの」
「トシさんは?」
「あの人は縄文村の人……クリスさんの先生なの。本当のお父さんみたいで大好き。クリスさん以外の本物の村人は四人、いい人ばかりよ。最終船が出ちゃうから行くわね」
「またいつか、お会いしましょうね」
 エリが手を振り、縄文衣装の裾をバタつかせて走り去った。
 ほら貝が鳴り、エリ達を乗せた最終船が樹間を縫って滑り降りてゆく。美香は木の間越しに滑降する箱船が見えなくなるまで手を振って別れを惜しんでいた。
 やがて、全船が無事着地との狼煙を受けて仕事が完了、美香を連れたクリスと、トシを筆頭とする村人ら数人が残った。
 どこから飛んで来たのか鳩が一羽、トシの肩に止まった。
 足管を外して文面を見たトシが、クリスに伝えた。
「四人は東の大畑側から登山中……と,あるが?」
「住居を焼却後、十和田山に転進,と、返信してください」
 トシが鳩を飛ばす間に、物見に出た一人がすぐ戻った。
「もう、すぐ下の崖まで来てます」
「小屋を燃やす時間がないな。合図するまで、諸君は南の斜面に隠れてください」
「あなたはどうなさる?」
「この人のことで誤解を解いておきます」
「万が一に備えて、投石の準備だけはしておきますぞ」
「合図をするまでは、絶対に投げないでください」
 トシと数人の縄文人幹部は、南側の原生林に消えた。
 クリスと美香は、四人が登ると思われる崖に向かって歩いた。
 やがて、ヘルメット姿の髭面の男が崖から顔を出した。
 男は、クリスと美香の姿が目の前にあるのに驚いたのか、凍りついたように動きを止めて睨んでいる。クリスに敵意があれば、岩にしがみついている男の手を蹴飛ばせばいい。それだけで簡単に転落死させることができる。だが、クリスは手を上げた。
「わたしはクリスです。どうぞ、早く上がってください」
 安心したのか、男は、もう一度足場を確認してからゆっくりと崖の上に立ち、両手の泥を払ってから自己紹介をした。
「オレは佐賀達也だ。その人は河田美香さんだな? 我々は河田さんの救出に来たんだ。反抗するなら力づくでも貰って行くぞ」
「わたしが、拉致された美香さんを救出しました」
「だから何だ! さ、美香さん、帰ろう」
「いえ。帰りません」
「加納も、島野も拉致されたんだ。あんたが、こんな野蛮人に捕らわれてると知ったらご両親も嘆きますぞ」
「わたしはクリスさんと結婚します」
「何だって? こんな野蛮人のこと何も知らんのに」
「でも、この人に一生ついてゆきます」 
 達也がクリスに告げた。
「きさまが、その女を説得しないと逮捕するぞ」
「逮捕? 佐賀さん。きさまは警備会社の一社員で、逮捕権なんてないはずですが」
「オレのことを知ってるのか?」
「当然です」
「そうか……やはり、鳩メ-ルはきさまらだったのか?」
「そうです。それで、美香さんを救出できたのです」
「しかし、その人を返さないとさらに重罪になるぞ」
 クリスが一瞬考えてから美香を見た。
「美香さん。あなたは山を降りますか? もう充分に縄文は体験したはずですよ」 
「でも、わたしはクリスさんと一緒に……」
「だめです。わたしにはまだ使命があるのです」
 達也が苛立ち声でわめいた。
「使命だと笑わせるな、きさまは誰なんだ?」
「イエズス・クリス……日本名は栗栖洋二です」
「栗栖洋二は疫病で死んだはずだぞ?」
 崖下から勝川の声が聞こえる。
「佐賀さん。早くロ-プを下ろしてくれ!」
 その声にかまわず、達也がクリスを責めた。
「青い目の男がブライの村を継ぐだと、笑わせるな! きさまは誰だ? 栗栖洋二に化けて、なにを企んでる?」
「化けてもないし、企んでもいない」
「そうか……じゃ、聞くが、きさまは昨日、豪雨に紛れて紫門屋敷に忍び込み人を殺した。殺人罪は知ってるな?」
「知りませんな」
 美香の表情が変わったが、クリスの表情に変化はない。
「お前に殴られた男、佐々木熊五郎が死んだぞ」
「そうですか? その男は死ぬ運命だったのです」
「悪党だからって、殺していい理由はないぞ」
「わたしは知りませんが、天罰が下ったのです」
 崖下の叫び声はほぼ罵声に変わっている。
「こらあ、佐賀さん.なにをしとるだあ!」
 無言の達也が、クリスの目をまっすぐ見つめている。
 美香がけげんな顔で二人を交互に見た。
「クリスとやら、オレは、どうしてもきさまが悪人には見えん。どんな事情があるかは知らんが、命に賭けても秘密は守ろう。その代わり、その人だけは返してくれ」
「では、一日だけ待ってください。明日で用は済みます」
「明日? それはどういう意味だ?」
「わたしの個人的な事情です」
「どんな?」
「それは言えません。でも美香さんは明日、お返しします」
「いいだろう、事情は聞かん。明日の夕方までに鹿角署の石脇警部に連絡がつくようにしてくれ」
 美香が低い声でキッパリと応じた。
「わたしは嫌です。この人について行きます」
 クリスが美香に告げた。
「それはできません。あなたは明日から元の生活に戻って、平和な家庭をつくるのです」
「イヤです。わたしはここに残ります」
 達也が哀れみの目で二人を見た。
「ここからはオレの推論だが、紫門と栗栖の両家で青い目の後継者がいる側が、統率権を握るという不文律が昔からあって、栗栖には青い目の洋二がいた。
 本来なら、洋二に従わなければならない紫門家だったが、当主の弥吉は孫娘の賀代子が、やや青みがかった目だったことから、紫門一族は栗栖に従うことを拒絶した」
「なるほど? そういう解釈もありますか……」
「そして、栗栖一族が何らかの理由で死に絶えると、それを再興するために遠縁の男が後を継いだ。しかし、問題はその遠縁の男がどこから来たかだな?」
「つまり、わたしのことですな」
 クリスという男は泰然としている。

64 闇取引き

 達也がクリスの目を覗き込むように続けた。
「これは仮説だが、縄文に理解がある栗栖の分家があったとする。
そこの当主が縄文研究の第一人者だったらどうだ? 一人息子は事業の跡継ぎにしなければならない。しかし、縄文の意思を継ぐヘブライ村も存続させたい……こう思ったら?」
「ありそうな話ですね」
「だが、一人息子を山に出して長年の歴史がある家業を閉じたら世間の笑い物になる。そこで一計を案じた。泣く泣く親子の縁を切ってその一人息子を、死体亡き自殺者に偽装して葬儀まで行い、山に放って縄文を継ぐ本家の再興を図った……どうだね?」
「さすがに元刑事、筋が通ったこじつけですな」
「ところで……」
 達也がクリスの目を覗き込んだ。
「右のコンタクトが大分ずれて、黒目が出てるぞ」
 クリスがあわてて右手で目を押さえ、目をしばたいた。 
「どうする? いつまで化け通すんだね?」
 達也の問い掛けに負けたのか、クリスが顔を伏せて目に手を当ててコンタクトを外すのを、美香が不審の目で瞬きもせずに見つめている。
「ご推察通り、須賀太一です」
 黒い瞳が爽やかな青年が悪びれずに微笑んだ。その顔を見た美香が驚きの表情で声もなく黒い瞳のその男を見つめた。ニュ-ヨ-クで一夜を過ごしたのは紛れもなくこの男だった。美香は頭が混乱して自分が制御できなくなり、太一にしがみついて泣いた。今まで、この男を想い続けていたのはこの日のためだったのか……。
「いい加減にしろ、女たらしめ! くさい芝居をしやがって」
 と、達也は舌打ちした。
 崖の下で「死んだのか-」などと、石脇が大声で喚いている。
「ちょっち待て。連れの連中をどうにか誤魔化しておく」
 達也は崖際に歩み寄り、すぐ近くに縄文村の住民が使うらしい立派な縄ばしごが見えているのを無視して、自分が担いできたロ-プをケヤキの幹に巻き付けて下に投げ、顔を覗かせて怒鳴った。
「木に縛ったから、勝川さんから登っていいぞ!」
 勝川なら時間が稼げる。
 達也はすぐ戻って、柄にもなく二人に諭す。
「それにしても須賀太一もそのオヤジもあきれたもんだ。没落した遠縁の栗栖家を再興させようと侠気を出して、自殺の狂言までしやがって。それにしても、この貧乏くさい縄文を気取って、よくも栗栖一族の再興なんて考えたもんだな。バカなヤツらだ」
「しかし、この後の世界の情勢を考えると……」
「なんだ? そんな天下国家を憂いて行動してたのか?」
 美香がクリスと達也を見た。
 その表情には決然とした意思が見えた。
「わたし、この人についてゆきます。これが運命なのです」
 今度は達也があわてた。
「こればっかりはダメだ……両親の悲しみを見ろ! 美香さんのご両親は拉致事件発生直後から病院通いをしてるんだぞ。娘のためには命も要らないという両親を裏切ってまでこんな男を選ぶのか?
しかも、この男には昔から未来を契った恋人がいるんだぞ」
「まさか? そんなのウソですよね?」
 美香に聞かれたクリスが苦渋の表情で告げた。
「本当だ。その女はいつか私を襲うだろう」
「なんで?」
「安全だと思って預けた女を、わたしが抱いたからだ」
「でも、あれは、わたしから望んだことです」
「そんなのは彼女との間では通じない。だから、あんたは彼女の元に行ってもらう。それがせめてものわたしの贖罪なのだ」
「でも、ここでは皆さんが自由に楽しく……」
「それとは違う。わたしは人を殺し女人を犯し、十戒を破った」
 達也が頷いた。
「きさまは一度死んだ身だ。生きていても仕方あるまい。仕事が済んだらオレが殺してやるが、どうだ?」
 クリスが達也の目を見つめてから頷いた。
「それで、私の罪業が消えるのであれば喜んで……」
「よし。それならば遠慮なくきさまを殺す手だてを考えてやる。それとな、彼女はまだ、きさまのことを想って生娘のままだぞ」
「なぜ、それを?」
「本人から聞いた。それにしても、なぜ、美香さんを彼女に渡したいんだ?」
「彼女が懸賞金を得れば、紫門家は倒産しないで済みます」
「いま、オレが助けたら?」
「無理です。今も林の中から佐賀さんは狙われてますよ」
 達也が鼻で笑った。
「甘く見るな! オレは、そう簡単には倒されんぞ」
「頭が潰れますよ。ヘルメットを持ち上げてみてください」
 達也がヘルメットを脱いで高く持ち上げると、クリスが「ホウッ!」と鋭く叫んだ。途端に、南側の森から風を切って飛来した石礫が連続して数個、達也の手から飛ばされて地上に落ちた硬質樹脂製のヘルメットが飛び跳ねた。
 拾って見ると、何箇所も深く凹んで割れて穴が開いていた。
 達也の顔色が変わった。
「これは凄い! オレも見えない敵に殺られるのは御免だ」
「では、お引き取りください」
「きさまは、何のためにこんな無敵の軍団を育てるんだ?」
「とんでもない。わたしが育てられたのです」
「誰に?」
「本物の縄文人にです」
「バカをいうな。二十一世紀に縄文人なんているものか」
「縄文人の定義は、石器を用いて原始生活をする古代人です」
「じゃ、平和主義の縄文人がなんで投石の練習だね?」
「狩りですよ。これで熊も倒します。でも、場合によっては戦いにも応用しますが……」
「誰と戦うんだね?」
「現代人です。石文化が鉄文化に破れたのは、武器の差より戦意の差でした」
「まだ、そんな数千年前の寝言を言ってるのか?」
「まだ数千年しか、と言ってください」
 美香が二人の話の腰を折って決然と言う。
「わたし、危険日でしたから、この人の子を身ごもったかも知れません。明日、この人と別れて山を降りて、立派に育てます」
 クリスが驚き、達也が頷いた。
「分かった。両親にはすぐ伝えよう……ところで、きさまの秘密を知っているのは誰だ?」
「山にいるのを知ってるのは中里先生……恩師にだけにはいつも連絡してます。ただ恩師は青い目の男がわたしだということは知りません。知ったら驚くでしょうね」
「どうやって、連絡してるんだ?」
「新郷村の彼女に鳩メ-ルで連絡し、彼女の協力者の事務員が展示台の人形に細工して、わたしを支持するすべての人にこの村の状況をリアルタイムで知らせます」
「誰にだ?」
「例えば、中里先生の他には、松山先生、市長、東京の森元先生などにです」
「じゃあ、あんたを自殺にして、この山に登らせたのは?」
「父と、中里、松山両先生の合作です」
「恋人となぜ添えなかった?」
「わたしの家が栗栖の分家で、彼女の家とは敵対する仲だから仕方がないのです」
「シェ-クスピアじゃあるまいし。洋二とはどういう関係だ?」
「殺された洋二とは無二の親友で、遠縁でもあるんです」
「殺された? 本当は食中毒だろ?」
「殺されたのです。いま石を投げた仲間らが潜んでる南側の斜面に土盛りの墓があります。この地に利権を求めて流れて来た暴力団が現れ、縄文村の住民に成り済まして縄文の原住民を怒らせてここを襲わせたのです。埋葬された白骨体には、叩き割られた頭蓋骨、首がはねられた女子供、無残な死体が五十体近く出るはずです。後からそれを知ったわたし達は野ざらしで獣に食い荒らされた白骨を泣きながら埋め直しました。ぜひ、調べてください」
「どうして警察に届けなかった?」
「警察? 彼らは仇討ちまではしてくれません」
「敵の元締めは誰だ? 岡島か?」
「岡島……それは誰です? 知りませんな」
 物音で三人が振り向くと、すぐ崖の下から声がする。
「おうい。手を貸してくれ!」
 最後が難所だからすぐには上れないはずだ。達也が言った。
「早くコンタクトを入れて隠れろ。われわれの調査が終わったら住居は燃して逃げるんだ。河田さんを明日戻せよ。いいな!」
「分かりました、南側に隠れますので探さないでください」
 クリスが、「さあ、早く!」と、美香の肩を軽く押した。
 先に急いだ美香の耳に、達也に告げるクリスの声が残った。
「もう鳩メ-ルで宣戦布告しました。復讐は堂々とやります」
 振り向くと、堂々と歩く太一を達也が呆然と見送っている。
 これが二年前の真相だった。

65 署名

 昨夜は、達也から二年前の話を聞き、興奮して眠れなかった。
「あれは縄文人だ」と、達也は断言したが、確かに縄文人が投げたという石つぶてで凹んだヘルメットの傷は凄かった。
 まさか? とは思うが縄文人は本当にいるのだろうか?
友美はこの朝、五時起きの朝食抜きで帰京する達也を鹿角八幡平から高速で盛岡まで飛ばして盛岡駅まで送り、そのまま鹿角まで戻ってから朝食をとり、クロマンタ山に向かった。
 あのストンサ-クルの窪地の壁面に仕込まれている出入口から、秘密のトンネルがこのクロマンタ山まで掘られていると聞いたが、この山にも縄文時代のままの原始生活があるのだろうか?
 麓に車を停めた友美は、思い切りよく神の山に歩を進めた。
 雑草の生い茂った参道を登りはじめた友美は、山腹ですぐに警備の若い警官に登山を阻止された。何となく見覚えがある顔だ。
「ここから先は、行かないでください!」
「なんでですか?」
「ここは神聖な山で、今日は特別な祈願があるのです」
「わたしも取材を兼ねて山頂の神社に参拝します」
「でも、ここは戸田さんでもダメです!」
「わたしを?」
 よく見ると、昨日の石脇警部と友美のスト-ンサ-クル入りを止めようとした警官だった。見覚えがあるはずだ。
「あなたに、一般市民の参詣を止める権利があるんですか?」
「私にはありませんが、署長からの伝達です」
「大義名分はあるの?」
「そんなの知りませんよ。私は指示通りにしてるだけですから」
「でしたら、すぐ、この無法な仕打ちをマスコミに暴露します。そう、菅野署長に伝えてください」
 押し問答で根負けした若い警官が、肩に担いでいたトランシ-バ-で連絡をとった末に、頂上神社の境内で佐田刑事が友美を待つことになり、そこからは樹木に埋もれた山道を一人で登ると、快い汗が吹き出てくる。
 やがて、頭上からの声で顔を上げると縄文衣装の佐田がいて、荒い息の友美に手を差し伸べながら困惑した表情で言った。
「申し訳ないが、詳しい話はできませんよ」
 神社前の広場に着いたところで、立ったまま友美が聞く。
「ほんの少しのヒントでいいんです。今、鹿角市では何が起こっているのか? それだけでも知りたいのです」
「戸田さんですから仕方なく、取材の趣旨と質問だけは受け付けますが……そんなことは回答できかねます」
「なぜですか?」
「なぜかって言われても困るんですが……戸田さんは、絶対に口外しないと、誓約書を書く意思がありますか?」
「とんでもない。そんな約束をしたら取材になりませんよ」
「では、ここからお帰りください」
「冗談でしょ? ここまで来たのに追い返すんですか?」
「だったら、約束してください」
 結局、友美が誓約書にはサインしないが口外はしない、ということで妥協した。
 そこで、佐田が案内したのは、やはり友美が以前、この山の東南の傾斜地で見つけた樹木の生い茂る洞窟の入り口だった。
「ちょっと、ここで待っててください」
 入り口には梱包された荷物が青いビニ-ルシ-トに覆われて積まれていて、それを数人で運んでいた。友美が待っていると、佐田がノ-トを持って現れた。
「戸田さん。ここに、住所氏名などを書いて……」
 表紙にNo・6とある大学ノ-トとボ-ルペンを手渡され、ペ-ジを開くとビッシリと記名が並んでいて、聞いたような政治家や芸能人、文化人やスポ-ツ選手などの名がある。
「サインはしないって約束したばかりでしょ?」
「これは、誓約書じゃありません。単なる激励署名です」
「なんの?」
「災害時の相互救助……いわば、ボランティア名簿です」
「わたしが誰かを救けるの?」
「いえ、救けられるのです」
「誰に?」
「誰にって、そんな個人的な問題じゃないですよ」
「じゃあ。団体なのね?」
「それは、これからの問題です」
「と、いうことは現在進行形ってことですね?」
 結局、友美は記入したが、自分の順番が四ケタの数字であることに驚いて顔を上げると、佐田が言った。
「すでに、この趣旨に賛同された方が数千人ということです」
「そんなに! 佐賀もですか?」
「佐賀さんはまだです。多分、戸田さんがサインしたと聞けば、無条件で入会するでしょうな」
 ふと、理由は何であれ数千人の記名は多すぎると、多少の疑念が頭をよぎったが好奇心には勝てない。友美は言われるままに必要事項を記入し、佐田の後に続いた。
「いいですか? これから見聞きすることは他言無用ですよ」
 仕方なく頷いて洞窟内に入った友美の目が、驚きで大きく見開かれるのに多くの時間は要しなかった。
 まず、洞窟に入ってすぐのところにヘリが二機あった。すぐ横にリモコン操作の小型無人ヘリがある。
「二機は救助用、リモコンは調査用ですよ。ふだんは観光用に貸し出す予定ですがね」
 どこかで見たような型だが思い出せない。
 洞窟内の幅は約三メ-トル、高さは約二メ-トル、かなり長身の男でも腰を曲げずに悠然と歩くことが出来る造りになっていて、暗いのは入り口だけで、内部には皓々と発電機から供給されるのか明るい照明がどこまでも続いていて、往来する人々の間を縫って電動車が動いていた。自然の空調が効いているのか、人為的に調整されているのか晩夏の蒸し暑さも湿気も感じないし息苦しさもない。
 よく見ると、洞窟内には、発電装置や地下水の汲み上げ装置、浄化槽、曲がりくねった洞窟の両側にはびっしりと保存食や飲料、衣類や夜具や生活用品などが積み込まれていて、まるで大型ス-パ-の倉庫にでも迷い込んだような錯覚を起こさせる。
「なんですか、これは?」
「ここは、緊急時用の避難所です」
 佐田が洞窟内の壁の一部を押すと鈍い音がして扉が開き、室内で会議机を囲んでいた数人の視線がいっせいに友美に向いた。全員が縄文衣装という異様な光景が友美の目に入った。
「ほう……戸田さんか?」
 菅野署長が驚くと、その隣にいた中田顧問がすぐに空いていた椅子をすすめた。軽く会釈して着席して周囲を見回すと、斉東市長をはじめ、見慣れた顔が親しげな視線を友美に向けている。
「戸田さんが来るとはなあ」
 中央に座った初老の男が声をかけた。
 見た顔であるのは確かだった。ふと、名前が口を突いた。
「もしかして、前市長の杉田さん?」
 中里がすぐ訂正した。
「議長は県会議員です。いずれは国会から総理狙いだが……」
 そのまま、中里が続けた。
「戸田さんが同志として参加したことは非常に心強いですな。これで、このプロジェクトも大きく前進することになります」
「同志だなんて、まだ何も……」
「いいんです。賛同者名簿に記名された以上は同志なのです」
「サバイバル計画の?」
「そうです。知ってますね?」
「いま、佐田さんからお聞きしたばかりです」
「さすがに戸田さん。呑み込みが早いですな」
「それで、どのような災害を予測されているのですか?」
「文字通りですよ。大地震、水害、テポドンなど核の脅威、細菌、化学兵器、あらゆる国家危機に対する民間の生き残り作戦……これが、この鹿角十和田の越境サバイバル計画なのです」
「でも、外国からの核の脅威や侵略、災害などへの備えは、国家規模で行うべきだと思いますが……」
「国が当てにならないから自衛の策を考えてるんですよ」
「皆さんの、この衣装は?」
 対面に着席した佐田が軽く笑った。
「ユニフォ-ムです。この衣装は簡単で合理的ですからな。麻の袋に穴を開け、腰を布で縛っただけですから。いわば、赤穂浪士や新撰組などの火消し装束……あれと同じに考えてください」
「冬になったら?」
「冬は毛皮ですから心配ありません。ここでは、あらゆる訓練が行われます。すでに、阿仁マタギ組合の協力で山中でのサバイバル訓練は、二期目が三年目に入ります。一期目のチ-ムは残念ながら冬を越せずにリタイヤしましたが、二期目は無事に縄文生活を乗り切りました。ここにいるメンバ-はいずれ山に入り、縄文生活で冬を越さねばならないのです」
「なんで、こんなことまでするんですか?」
「弱体化しつつある中央政府が、お題目のように三位一体とかで地方分権を唱え、地方自治体の自己責任による行政に依存する以上は……それぞが独自の工夫をしなければならないのは当然です」
「それを、鹿角市は他に先駆けて実行するのですか?」
「そうです。拉致問題や新潟地震などで見せた政府の弱腰でお座なりの対策など当てにせず、鹿角市は自力で生き残りますよ。隠し金山も……いや、いかん。これは冗談ですがな」
 冗談ではないことは口調で分かる。

66 縄文と弥生

 市民用の設備にしては本格的過ぎると友美は思った。
「ここまでの設備があれば、核の脅威からも守れますね?」
「当然です。東北の山地には古代から堀りめぐらされた廃坑になった金鉱跡の洞窟が縦横にあって、それを防空壕として利用し、地上戦になった場合は、臨時の住居にもゲリラ活動に応用できます」
「でも、外部の武装勢力には敵いませんでしょ?」
「そんなことはありませんよ。武器弾薬が尽きても山に籠もって、石ツブテと石斧や弓矢を用いてのゲリラ戦で勝つまで戦いますから最終的には生き残って勝利の美酒を味わいますよ」
 佐田の話によると、チ-ムは原始生活の十和田山中の縄文組と、近代化のクロマンタ山組の二手に分かれているという。
 トシこと前田警部らを中心とする縄文組は、すでに新たな縄文村の開設に向けて粛々と山に入ったという。
「なにしろ、我々には本物の縄文人が付いていますからな」
「トシさん達のことですね?」
「もっと本物の縄文人がいるんですよ」
 阿仁マタギの協力も得て、まずは鹿角市民から選んで徹底したサバイバル生活を行い、いざという時には山に籠もっての原始生活で生き抜けるだけの体力と知恵をつけるという。
 あまりにも突拍子もない話だから、にわかには信じがたいが、冷静に今までの経緯を振り返ってみると、見えなかった細い糸が徐々にはっきりと太くなって見えてくる。
 これは、かなり以前から緻密に計画されていたに違いない。
 さらに今後の計画について問いただすと、役所と紫門興業が組んで、市民優先の縄文生活を無料体験させた後は、外来の希望者にも有料での体験入村を受け入れるという。これで、多少は市の財源も潤うだろう。
ただ、佐田の案内で洞窟内を見学した折にかいま見た格納庫内のヘリが気になった。あれはたしか、ボ-イング社のAH-64Aで通称アパッチと呼ばれる高性能機に間違いない。とすると、なぜ、そんな最新鋭の軍用機が必要なのか? という疑問が残る。
 しかも、その格納庫の片隅には友美の推察通り、赤子を乗せて飛ばせそうな小型ヘリがあった。
(やはり、達也までが……?)
 悪い夢を打ち消すように友美が首を振った。
 佐田が念を押す。
「いいですね。絶対に他言無用ですよ!」
 斉東市長が胸を張った。
「日本は滅んでも鹿角市は生き残りますぞ」
 そんなエゴが許されていいものか。
 こうして、鹿角市の極秘計画を知った友美は、わずか一時間という短時間の滞在で追い返され、釈然としないままクロマンタ山を降りた。
 緑濃い景色の中をスト-ンサ-クル館に向かってハンドルを握りながら、友美は冷静に考えようと焦っていた。
 ここまでではまだ記事にするには甘すぎる。
 この一連の事件の鍵は明らかに山奥の縄文村にある。それを見てこそ世紀のスク-プになるのだ。
 こうなれば、縄文の山に入るしかない。しかし、それには誰か山に詳しい協力者が必要になる。だが、達也は帰京して不在だし、この計画から外れている者といえば、達也がカヤの外と言った石脇以外には考えられない。ただ、警察署長をも巻き込んだ大がかりなこれだけの計画を、いくら石脇が鈍感だからといっても果して本当に知らないのか? という疑問は残る。
 それでも、もしかして石脇だけが実情を知らないとしたら……半信半疑で電話を入れて山に誘うと、署長のいない署内の混乱を感じさせる煩雑な雰囲気の中で石脇の声が弾んだ。
「すぐ、ここさ寄ってくれっかね。山支度はしとくから……」
 いかにも、待っていたという口調だった。
 鹿角署の駐車場に入ると、「やあ!」と勝川の声がした。見ると勝川の四駆の助手席にはすでに石脇も乗っていて、友美に四駆に移るように手招きしている。
「この時間からだと帰りは夜になるか、村泊まりになるかだ」
 と、車内で石脇が言った。                
 石脇の話だと、署長失踪という珍事件をマスコミが煽ったのか問い合わせが殺到して署内では通常業務にならず、そうかといって朝から喫茶店に潜るのも考えものだし……思いあぐねていたところに友美からの電話だったから「渡りに舟だった」という。
「オレは迷惑だが仕方ねえ。戸田さんと晋一さんの頼みじゃな」
 友美は、別に勝川に頼んだ覚えはなかったが黙っていた。
 それでも、三人それぞれが、以前には知り損なった縄文村の秘密に興味を持っていたのが言葉の端々に窺えた。
「今度は、本物の縄文人に会えるぞ」
 勝川の声が弾んでいる。
 やがて、以前の行程とまったく同じ経路を経て、昼なお暗い樹林に覆われた山道を汗まみれで歩き、ようやく以前、達也が攀じ登ってロ-プを垂らした崖の下まで辿り着いて一息ついた。
 ただ、困ったことに、ロ-プなしで誰かが登らないと、ロ-プが垂らせないのだ。この三人では、達也のように崖は登れない。
 石脇が両手で口のまわりを囲み、手メガフォンで怒鳴った。
「お-い。誰かいたらロ-プを下ろしてくれ!」
 何度目かの叫びに、獣の咆哮のような応答があった。
 崖上に幾つかの顔が現れ、瘤付きのロ-プが下りて来た。
 友美が先に崖を登ると、上で元前田警部のマタギのトシが待っていて、友美が軽く会釈すると笑顔で応えた。
「みなさんが、ふもとに来たときに見張り台ののろしが上がりましたから、そろそろかなと思ってお待ちしていましたよ」
「それはすごいですね!」
「ま、村内を案内しますから、のんびりしてください」
 勝川と石脇が崖を登ると、挨拶もそこそこにトシが先に立って村内を案内した。格闘技や投石、弓などを真剣に訓練中の村人が広場のあちこちにいて活気がある。
 トシが三人を連れて村内を歩くと、出会った村人が例外なく「ヤア-」と挨拶する。三人もいつの間にか真似して「ヤ-」と手まで上げている。栗や柿の植林、芋や豆、野菜の畑もある。
 誰かが知らせたらしく、湖に沈んだはずの賀代子が姿を現し、嬉しそうに「ヤ-」といい挨拶をしていると、杖を持ったキリスト姿のクリスも現れ、その後から縄文の女王風に華やかに装った賀代子が続き、三人を見て嬉しそうに握手を求めた。
「わたしたち、結婚しました」
「おめでとう、賀代子さん」
 一応は祝いの挨拶はしたが、友美には、この二人がこれで幸せかどうかは分からない。
 寡黙なクリスに誘われて、縄文式縦穴住居の一つに案内され、トシも含めて六人がその住居の夫妻の接待で食事をした。果実酒から始まって粟めしと焼き魚、野菜と沢蟹の味噌煮、デザ-トに野イチゴを食して、土器やづくりを見せてもらってから屋外に出た。
 クリス夫妻とトシが幹部会議で去り、三人で勝手に行動させてもらうことにし、「森でも歩いてみるか?」との石脇の提案で鬱蒼とした樹林に分け入った。
 ぶなの枝の茂みが揺れたので見上げると、何者かが太い枝から枝が次々に飛ぶのが見えた。大きさからみてこれは猿ではない。
「すげえぞ!」と、勝川が叫んだとたんに動きが止まった彼らの気配がフッと消えた。その時、トシが走り込んで来た。
「すぐここから出てください! 石が飛んできます」
「どうしたんだね。血相変えて?」
「妙な声で挑発したから怪しまれたんです。普段はおとなしい連中だが下手すると襲って来ます。早く、ここを出てください」
 トシが梢を見上げて「ホ-、ホ-」と二声……両手を上げて敵意のないことを示すと、五メ-トルほどの高さの太い枝から男が降って地上に降り立った。走りかけた三人が足を止めて振り向くと、シナントロプスに似た原始人が一人、やや前かがみの状態でシの前に立った。その原始人は右手を出してトシの右手に触れ、手を上げると、樹上から薄皮の袋を持った仲間が次々に降り、三人に近寄ってそれぞれに革袋を手渡すと、たちまち樹上に消えた。
 広場に出ると、トシが安心したように三人に説明した。
「先住民をわれわれは、原生林に追いやってしまいました。
 彼らは地上の住居の他に、木の上に枝葉を集めて住居を作り、樹上と地上を暮らし分けています。もちろん、わたし達とは共存共栄で、食料なども持ちつ持たれつで分け合っていますし、いざという時は、敵にも味方にもなります」
 友美が疑問を挟んだ。
「あの人達、まさか縄文人じゃないですよね?」
「わたしらは歴史学者じゃないですから分かりません」
「縄文人なら、人を襲わないんでしょ?」
「いや。いつかこの村を襲った暴力団が、縄文村の住民に化けて彼らの何人かを殺したのです。怒った彼らは報復として縄文村を壊滅しました。彼らは怒ると異常に興奮して凶暴になって敵に襲いかかります。やはり、復讐心はあるのです。しかし、それが間違いだったと知った彼らは、われわれに地上を譲って、永遠の平和を求めて原生林での自浄生活を選んだのではないでしょうか?」
「わたし達は、あの人たちから友好的に見られたのですね?」
 友美が袋の中を見ると、ヒスイの首輪や木工細工の人形、埴輪、栗の実などが入っていたが、その中身よりも好意が嬉しかった。
 まさしく、今なお縄文人を彷彿とさせる原始人が東北の奥深い山地に生き抜いていたのだ。その上、イエス・キリストの末裔といわれる山岳族も生き残って代を継ぎ、十和田山中の奥深くに自給自足で生きている。これを現代の奇跡というべきなのか。
 現実に友美がこの目で見た奇妙な秋田県鹿角市と青森県新郷村のさまざまな生き残り計画は、まさしく全国各地の山村に残されている先人の生活の知恵から生まれたサバイバルの物語そのままなのだが、妙に人間臭いのが気にかかる。
 それにしても、鹿角十和田地方の言い伝えでは、この地の数々の伝説をみだりに流布する者には天罰が下るという。だとすると、それを記事にする友美の身には、どのような災難が待ち受けているのか……その災難が、天災なのか人災なのか? その謎を解くには記事を表沙汰にするまでは誰にも分からないのだ。
 それでも帰京した友美は、愛用のワ-プロに向かっていた。
 矢の催促で原稿の提出を迫る鬼の加川デスクの怒声も怖いが、昔からの言い伝えを破った結果、夜道を待ち伏せされて拉致され、神隠しと称して人里離れた山奥に幽閉されて生涯を閉じるのも恐ろしい。原稿は書き始めてはいたが友美にもまだ迷いもある。
 あの樹上生活者と見せ掛けたのも、観光企画の一端だったとしたら……いったい何を信じればいいというのだ。
 友美は、来年も八月の最終土曜と日曜日にはまた、鹿角市大湯の縄文フェスティバルに訪れることにしていた。あの縄文の夢舞台を共にした石脇、勝川、中田、松山ら鹿角市の人々に再会するのは嬉しいが、あるいは次の瞬間には暗転して拉致され人里から遠ざかる運命にならぬとも限らない。しかし、奥山に運ばれてキリスト一族の子孫になりきって暮らすクリス、賀代子との再会も悪くはない。
どっちに転んでも、人生は運任せ、サイコロの目が出たところで目をつぶるしかない。ここは半信半疑だが「縄文人の子孫は生きていた」と、信じてみるしかない。
 友美は、ようやく最終稿を書き上げる気になり冷蔵庫から冷えた缶ビ-ルを出し「乾杯!」と、一人で叫んで一気に飲み干した。
 脱稿したら達也とデ-ト、それを想うと友美の血が騒ぐ……。
                             終了