第57回三軌展(2005) カタカムナの音がする 松岡隆一画伯(秋田県鹿角市)
31、眠れぬ夜
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夜、友美は一人で定宿にしている上の湯の千羽館に戻った。
勝川と達也は、あれから毛馬内の石脇宅に向かったが、どうせ明け方まで飲み続けて石脇夫人に迷惑をかけるに決まっている。
それにしても、達也との同棲という蜜月時代を経験している友美としては、やはり独り寝の日々は肌寂しい。
一人娘の友美とバツ一男の達也との結婚に両親は、「夫婦心中する」とまで言われて反対され、泣く泣く別れた。そして、元恋人としての交際は変わりなく続いてはいるが、なにか虚しい。
寝つかれない夜を、缶チュ-ハイの酔いで紛らわしてはみたが、思考はまた事件に迫ってゆく。
あれからのことも気になる。
小夜というバイトの女性が帰ると、四人は木場と改めて飲み直してから帰路に着いた。
友美の愛車のアウディに乗り込むとすぐ、達也が五十メ-トルほど先で車を寄せて停車させ、ポケットから小型の受信機を取り出し、音声を最大限にしてフロント台の上に置いた。勝川が驚く。
「盗聴器ですか?」
「佐賀さんが、素早くテ-ブルの下にテ-プで止めたからな」
「さすが、石脇警部! 気づいてたのかね」
早くもガサガサと慌ただしい音がして、電話のプッシュ音がピ、ポ、パ、ピと聞こえ、断続的な呼び出し音の後に、相手が出た気配がある。ただ、相手の声までは聞こえないのが残念だった。
「木場だが、ツヤキさんか?」
会話が始まると、木場が相手に情報を流しながらも脅しを入れている。その内容を摘むとこうなる。
「オレが昔世話になった佐賀という警視庁出のモサが、タヌキの石脇と来てな。砂金を見破りやがった。客に騙されて偽金を掴まされたことになってるだけだからな」
「…… ……」
「まだ、飯場までは手がまわらんと思うが、用心に越したことはないぞ。ただ、あのタヌキが十和田署を動かして本気でガサ入れをするとなると中途半端じゃ済まなくなるぞ」
「…… ……」
「一緒に来た女記者なんか蚊トンボだが、その元刑事とタヌキだけには手を打たないとな。あの二人さえ手を引かせれば河田なんて女は、すぐにでも奪還して身代金は頂きだぞ」
「…… ……」
「なるほど、買収か? どうせ、相手は貧乏人だからな」
「…… ……」
「金額? 身代金の一割ってとこか? それでも九割の二億七千万円は残るからだろ? 金包みに見せかけて元刑事を爆破? それもイイアイディアだな。その近くにタヌキもいたら最高だな」
「…… ……」
「それから山狩りだ。縄文村のヤツラをまた皆殺しにして、女を奪い返してくれば、すぐ身代金が手に入る」
「…… ……」
この後、ヤマは一時休業だとかの会話があって電話が切れた。
爆破される達也も怒ったが、石脇が腹をふくらませて怒った。
「恩義も忘れてタヌキとは何だ、もう許せん!」
友美が頷く。石脇に同調したのではない、タヌキという表現に納得したのだ。しかし、蚊トンボと言われた友美も面白くない。
「こうなれば、なにもかも暴いてやる!」
ひとまず、これで偽造砂金を計画しているグル-プがいて、その連中が砂金堀りの飯場に人を集めているらしいことも分かった。
その中の小頭的存在のクマ兄イと呼ばれる小指のない男が、志穂と呼ばれる女の指示で河田美香を拉致して、こがね屋敷に運ぼうとした。ところが、その運び込む先を山奥の辺鄙なところに変更して指示した女がいる。それは誰か? 何のために偽の指示を出したのか? あるいは、その指示などなくて、クマ兄イという男がレイプを目的に、自作自演の芝居を打って山に運んだ可能性もある。
山奥に運ばれたその美香も、縄文人に浚われたらしい。
身代金の三億円のために、元暴力団員が武装して縄文村を襲い、縄文人に保護されている美香を奪うという。
今度は自分たちが美香を好き勝手に弄んでから、身代金と交換する腹なのだ。しかも、その前に石脇と達也を買収しようというのだから腹が立つ。しかも、場合によっては札束の代わりに爆薬を仕掛け、目の上のコブの石脇警部まで消すという。虫のいい話だ。
だが、情けないことに、達也と石脇の二人は札束攻勢に目が眩んだのかコソコソと買収に応じる気配を示している。
それにしても、山狩りだの、皆殺しだの、物騒な言葉が飛び交わされている。これでは、平和な縄文村などひとたまりもない。
友美は、拉致問題から始まった一連のこの騒ぎを、もう一度整理し直さないと、何かを見落としているような気がしていた。
石脇警部の話では、暴力団員が出入りしているこがね屋敷とは、旧ヘライ村の紫門屋敷をおいては考えられないという。
その紫門が、自分たちが拉致して奪われた美香の奪還に、山狩りまでして縄文の人達を、また皆殺しに……これでは遠く数百年前の紫門一族と栗栖一族の戦いの再現ではないか。
しかし、美香を拉致した真の理由は何だろうか?
身代金の話は、美香が奪われてから出た話で、美香が紫門屋敷に運び込まれていたら、どうなっていたのだろうか?
そこに、この事件の重大なカギが隠されているのではないか?
真相はどうなのか?
ここで、ふと友美は縄文村が滅びた理由も気になった。
「石脇さん。ヘブライ村の人達が食中毒で死滅したというのは本当のことですか?」
「真相は誰も知らんが、そんな噂だった。それが何か?」
「たしか三年ぐらい前の話ですね?」
「そうなるかな?」
「創世界の残党達は?」
「これも、その頃から鹿角にも現れたが、しのぎにならなくて十和田湖の観光事業に食い込んでったようだな」
「縄文村の全員が食中毒で死滅したというのは変ですね?」
「しかし、なにも証拠はないんだ」
「一度に、村人全員が死滅するなんて、なにか変ですよね?」
確かに妙な事件だった。この矛盾やどこかで企てられ組み込まれた図式が解明できれば、現代世界と隔離された東北の山中に潜む、闇の部分も明るみに出ることになる。
焼酎効果が出てきたらしく友美の大脳が頭がゆっくりと眠りの世界に引き込まれてゆく。
夢うつつの友美の脳裏に、人里離れた十和田山中の原生林で密かに行われる大量殺戮のシ-ンが鮮明に映し出されている。茅葺きの縄文住居が紅蓮の炎に包まれ、逃げまどう縄文の子女が、情け容赦なく男たちに凌辱され殴り殺されて倒れ、炎と血潮で赤一色になった画面の中で「やめてえ!」と、友美が叫んでいる。
友美は、浅い眠りのまま夜明けを迎えた。
32、縄文フィギア
この朝、友美は午前十時にスト-ンサ-クル館で達也や石脇たちと落ち合う約束になっていた。
紫門家の家宅捜査を前に、紫門・栗栖両家の確執に詳しいスト-ンサ-クル館顧問の中里健蔵の意見を聞くことになっていた。
千羽ホテルの食堂で、まばらな泊まり客が友美を見た。
「大太鼓大会の舞台で話してるのを見ましたよ」
適当に返事を返し、食後のブラックコ-ヒ-で徐々に眠気を醒まして、戦闘モ-ドを高めてゆく。
食堂に設置されたテレビの画面は朝のニュ-スになっていたが、男性アナウンサ-の声が、また拉致事件の発生を知らせている。
画面に岩手山サ-ビスエリアの風景と字幕が出た。
「昨日午後八時三十分過ぎ。東北縦貫道の岩手山サ-ビスエリアで駐車中のワゴン車内にいた、日東テレビ番組制作部第二部長の島野泰造さん・三十二歳が、同行の社員を残して社のワゴン車で失踪して行方不明になっていた事件に、新たな目撃者が現れました。
昨日のニュ-スでは、日東テレビ社員・田代正弘さんの談話により、一度、トイレから戻った田代さんが買い物を頼まれて売店に行ったわずかの時間に、島野さんが車で消えたということでしたが、本日、警察の木聞き込みから、同SAで仮眠していた長距離トラックの運転手の目撃による新たな証言が得られました。
それによりますと、若い女性の運転するグレ-の車・三菱パジェロが、日東テレビと社名の入ったワゴン車の横で停車し、ワゴン車から降りた男性と、パジェロから降りた男性がそれぞれ入れ代わって、二台で続いて駐車場を出たとのことです。
これによりますと、日東テレビの島野泰造さんは、何者かに誘拐された可能性もあることになります」
ニュ-スは、さらに続いた。
「なお、島野泰造さんは、一昨日失踪した日東テレビ・アナウンサ-の河田美香さん、加納二郎さんらと同行して鹿角市十和田大湯で行われた縄文フェスティバルの取材を行っての帰路で、日東テレビでは、この三人の失踪事件に混迷の色を深めています。
なお、島野泰造さんは身長約百七十五センチ、当時の服装は、茶のブルゾンにベ-ジュのスポ-ツシャツ、薄茶のズボン、半長革靴ということです。なお、身代金の請求はまだない、と、日東テレビ広報室では話しています」
画面が変わったところで友美は立ち上がった。
フロントの女性に、「お気をつけて」などと励まされて、いざ出陣となると身が引き締まる思いがする。
多分、今日の石脇警部は、黄金の利権を求めて東北の僻地に潜入した暴力団が、身代金の三億円目当てで美香を奪取すべく山狩りに向かう前に、その壊滅を図って動くだろう。
友美はさっそうとホテルを出た。
愛車を縄文広場の駐車場に入れ、待ち合わせ場所であるスト-ンサ-クル館の事務所に行くと、花井主任が友美を迎えた。
「佐賀さんと石脇警部は、出土品展示室にいます」
「渡部館長にご挨拶したいんですが……」
館長が午前中は出張だと聞いた友美は、花井と連れ立って出土品展示室の事務室に向かった。
すでに石脇警部と達也は事務所の応接に座っていて、コ-ヒ-カップを手に、中里顧問と見たことのある老人が議論しているのを傍観している。
友美は遠慮しがちに小声で挨拶し、事務の松沢千加子が運んで来た折り畳み椅子に座った。
それに気づいた中里が、会話を中断して、老人と友美を引き合わせた。
「こちらはエル社の看板ライタ-の戸田友美さん……こちらは、東京で縄文土器研究会を主催されている森元先生です」
「以前、日光でお会いしました。縄文焼きの先生ですね?」
「わしの記憶にはないが、どなたさんだね?」
以前、暴力団の創世界を追って取材中に中禅寺湖の湖畔で、盛大なかがり火を焚いて縄文土器を焼いていた数十人を指導していたのがこの森元翁だった。ただ、残念ながら相手は友美のことを全く覚えていないらしい。
中里顧問が友美に訴える。
「そりゃあ、愛弟子が誘拐されたんだ。心配で東京から駆けつけて気が立っているのは分かりますよ。しかしですね。いきなり、展示台のミニチュアの縄文人が増えたとか言われてもね」
「縄文人形は、時々は入れ換えるんですか?」
友美の質問に松沢千加子が口を挟んだ。
「中里先生。確認してみますか?」
中里顧問が立ち上がった。
「みなさんもご一緒にどうぞ」
出土品展示室には、類人猿以来の人類の歩みのパネル、棚やガラスケ-スの中には縄文土器や石器類、土偶、狩猟具などが展示されていて、定期的に入れ換えるための陳列品は、一万点近い倉庫の中の膨大な出土品から不定期に入れ換えているという。
一同は中里顧問に続いてスト-ンサ-クル館の出土品展示室に入り、すぐ左手の高さ一メ-トルほどの台上に、縦横二メ-トルほどの展示台を囲んで中里の説明を待った。
そこには、縄文時代の集落のミニチュア模型が実物の三十分の一程度に縮小されて展示されている。
その縄文村では、土ナベで料理をする女、ヒエ畑で農作業する男たち、落とし穴に鹿を追いこむ狩猟風景などの集団生活、埋葬風景などが巧妙な粘土模型で生き生きと再現されていた。
「ニュ-スで美香の失踪を聞いた時は驚きました」
年に数回は、スト-ンサ-クルにも立ち寄る縄文研究家の森元翁は、七十五歳をとうに過ぎてはいたが、いつも乗用車で全国の古代遺跡巡りを楽しんでいるという。
この館に立ち寄ると、中里顧問や渡部館長との雑談後、撮影禁止の館内でライトは使用しないからと断って、熱心に高感度フィルム使用の小型カメラで写真を撮ったりして、月毎に入れ代わる縄文土器や土偶などの展示品を鑑賞していた。
そんな時の森元翁のスケジュ-ルは、クロマンタ山に登って本宮神社に参拝したり、昔からホテル大湯本館を定宿に、十和田湖めぐり、今回の旅も青森の三内丸山遺跡に立ち寄って帰京するということだった。ともあれ、縄文研究家の間で森元翁を知らなければ、それはモグリか初心者で、この鹿角市十和田にも森元翁の教え子は数えきれないほどいるらしい。
その森元翁が、皮カバンから取り出したB五版の写真を広げ、平台の上にあるミニチュア模型の縄文村と照らし合わせた。
その縄文村では、土ナベで料理をする女、ヒエ畑で農作業する男たち、落とし穴に鹿を追いこむ狩猟風景などの集団生活、埋葬風景などが細かく再現されていた。
「ワシも長い間、ここにお邪魔していますが、人数や配置が違ったということは一度もありません。でも、今日は違いますな」
全員が、森元翁の持つ写真と展示台交互に視線を移す。
「ほら、これを見てください。この昨年の写真では、模型全体で四十七人、狩りをして猪を追い詰めてる男たちが見えますね。
さらに、平土器の上に料理を並べている女たち、木の実を拾っている子供たち、埋葬に関係して、台に乗せた女の死体を囲んで泣き崩れている遺族、膝を抱えてうずくまっている女性もいます。
ここに、背の高い男が膝を折って祈りを捧げ、その傍に新顔の女性が寄り添うように座っていますね。これが問題なんです。この女性の縄文フィギアだけが増えたんですよ」
「信じられんですね? いや、しかし、これは変です」
花井主任の驚きに、森元翁が応じた。
「これが河田美香だとは考えられませんか?」
森元翁の言う通りかも知れない。だとしたら、男は?
中里の視線は、芝生に膝を折って祈る長身の縄文人形の顔に注がれた。顔つきが明らかに従来のフィギアとは違っている。
「まさか?」
その男の人形の目が青いのを見た瞬間、中里の瞳孔は恐怖と驚愕で見開いたままになった。
「こんな青い目のフィギアはなかったはずだが?」
森元翁が言った。
「もしも、縄文村でイエス・キリストが甦ったとしたら?」
「そんな……」
中里が絶句し、展示台を囲んで重苦しい沈黙が続いた。
33、三千万円
森元翁が年齢を感じさせない元気さで立ち去った後、全員が事務所に戻って、縄文フィギアについての謎を語り合った。
事務所では事務員の松沢千加子が、電話に応じている。
「佐賀さんは、いらっしゃいますが、どちらさんですか?」
相手が何か言っている。
「じゃ、変わります……佐賀さんにお電話です」
出土品展示室から戻っていた達也が受話器を受けとると、男が話し出した。全員が受話器から洩れる声を拾おうと耳を傾ける。
「あんたが佐賀さんか?」
「そうだが……そっちは?」
「ツヤキというが、河田美香の件で取引きしたい。どうかね?」
「どういうことだ?」
「日東テレビとは三億で話がついとるが、警備会社メガロガが安い料金で救出を引受け、佐賀さんが担当で派遣された。ですな?」
「よく調べたな。その通りだが?」
「そこで相談だ。ここで、あんたが手を引けば日東テレビはわれわれに三億を払うしかない。だから、あんたと交渉するんだ」
「おれのことはいい。それより河田美香はどこにいる?」
「生きてるさ。心配するな」
「そこで声をきかせてみろ、そしたら話に乗ってやる」
「テレビ屋なんて世間の評判には弱いんだ。これが長引いたら三億どころか、四億でも五億でも取引に応じるしかなくなるんだぞ」
「だが、それより先にオレが救出するとどうなるかな?」
「どこにいるか知ってるのか?」
「山の中で救出を待ってるさ」
「ほう。知ってるのか? だがな。素人に東北の山は無理だ。あんたが手を引けば、われわれが美香を間違いなく返してやる」
「今日のニュ-スを見たか?」
「なんのことだ?」
「島野まで拉致したな? その島野と加納はどうする?」
「知らん。女子アナよりは役に立つがな」
「役に? 力仕事か?」
「本当に知らん。知らんものは知らん」
「それで、どうしたいんだ? オレを爆破か?」
「そんな案は破棄だ。メガロガに二千万、佐賀さん個人に一千万払うと言ってるんだ。どうだね?」
「払うと言ってる? これは誰が指示を出してるんだ?」
「それは言えん。この話がダメだと困ったことになるぞ」
「オレが手を引いても、秋田県警が追って貴様らを捕まえるぞ」
「その前に、日東テレビと手打ちして、山分けで解散だ」
「そうか、地元民じゃないから解散で高飛びってことか」
「どう解釈してもいい。早く、結論を出せ」
「分かった。条件は飲む。河田美香から手を引くぞ」
「それでいい……三千万はすぐ届けるからな」
「どこへ?」
「いま、スト-ンサ-クル館にいるから電話したんじゃないか」
「なんで、ここにいることが分かった? 内通者がいるのか?」
「それは言えん。ともかく現金は届けるからな。裏切るなよ」
電話を切った達也に石脇が心配する。
「いよいよ時限爆弾が来るのかね?」
「いや。その案が消えて、オレにお小遣いを呉れるそうだ」
今度は石脇が咎める。
「佐賀さん、依頼主を裏切って私腹を肥やすのかね?」
「いや、オレの分の一千万は、ここにいる頭数で山分けさ」
「じゃ、ワシもいいのか?」
中里が喜び、友美の目が達也を非難する。
「もちろん。会社の分の二千万には手を付けられんが」
「ワシと花井君、警部、東京の二人、五人で一千万を?」
「わたしもいます」
仕事中の松沢千加子が顔を上げずにブスっと言う。
「じゃ。え-と六人で、百六十六万六千六百六十六円づつだな」
石脇が提案する。
「金を届けに来たヤツの車を追跡させるかね?」
「気づかれたら島野と加納は殺される。相手を確かめてからだ」
「ここへ来たのを捕まえるかね?」
「それも、島野と加納を殺すことになるな」
石脇が、腰を浮かせた。
「百六十六万の手前、少しは手伝わんとな。ま、とりあえず、野中堂の前で待ち伏せしてみるべ。連絡は携帯で」
友美が心配する。
「山に入ったら携帯は通じませんよ」
「そん時は、無線で署に連絡すっからな」
結局、石脇が覆面パトカ-で一〇三号線の道路脇に待機することになった。
石脇が中里に頼む。
「敵がどっちの方角から来るか見張っててくれませんか」
「いいですよ。彼らが見えたら携帯に知らせます」
石脇の姿が消えてから暫くの時が過ぎて事務所の電話が鳴り、石脇の携帯から達也に連絡が入った。
「いま一台の小型トラックがそっちに向かっとるでな」
「電話を切らないで待機してくれ」
やがて、駐車場に車の音がした。達也が腰を浮かす。
「車のナンバ-を見とこうか」
達也が玄関先に出ると、地元の住所入り看板の宅配車が到着している。一見して宅配便の社員と分かる黒猫のロゴ入りのジャンバ-姿の若い男が立っていて、軽く頭を下げ、無造作に紙包みとボ-ルペンを出し、伝票へのサインを求めた。達也の気が抜けた。
見ると、差出人名は達也の勤務先のメガロガになっていて、あて先住所はス-ンサ-クル館気付で佐賀達也になっている。
石脇にすぐ戻るように言い、配達員に問いただす。
「どこの営業所からかね?」
「花輪営業所です。観光センタ-の並びの……」
「これは、どんな人が持ち込んだんだね?」
「わたすは配達専門だから、そんなの知んねえすよ」
「じゃあ、持ち込まれたのはいつだね?」
顔を伝票に近づけて若い男が数字を追う。
「この伝票だと、持ち込んだのは早朝ですだ」
「と、いうことは、オレがここに来る前だぞ。変じゃないか?」
「宛て名は、電話でついさっき指示されて書き込んだです」
「指示したのは誰だ!」
「だから、わすは配達員でなにも……」
迷惑そうな顔で配達員が達也を睨んだ。
「分かった、気をつけて帰ってくれ」
配達員を帰した達也が,ダンボ-ルを手にして耳に当てた。
「迂闊には開けられんな」
慌てて戻って来た石脇が頷く。
「新型のプラスチック爆弾かも知れんぞ。すぐ捨てるべ」
「いや。これは三千万の大金だ。そう簡単には捨てられん」
達也がそうっと小箱を事務机の上に置くのを、及び腰の全員が半信半疑の目で見守った。が、その時、事務所の隅の狭い水場でお湯が沸騰して笛吹きケトルの蓋が微かに鳴いたのを聞いた中里が、荷物の内部で電気的な仕掛けが作動したと早合点したらしい。
「タイマ-の音だ。これは高性能の時限爆弾ですぞ!」
元教員がもっともらしく叫ぶから、全員が思いっきり遠のく。
「こんな物、子供だましの玩具に決まってますよ」
中里に反発した花井主任が強がり、一歩だけ箱に近づいた。
34、似顔絵
達也が花井に言った。
「あんたに我々の分の一千万、全部やるから開けてみるか? ただし、遠くに持ち出してだぞ」
「もしも、爆弾だったら?」
「箱を開けると同時にピンが外れて、周囲五メ-トルは木っ端微塵に吹っ飛ぶから、あんたは即死だな」
「冗談じゃない。命があれば一千万ぐらい働いて……」
花井がそっと箱から遠のくと、達也が中里に聞いた。
「スコップはありますか? 林に穴を掘ります」
「雪かき用に何本でもあるが……」
「そんなもの一本でいいです。時間が来れば爆発しますからね」
「爆発しなかったら?」
「その時は、三千万の内の一千万を、宝探しのイベントにでも使って下さい。二千万だけは会社に入金しますから返してください」
達也が、時限爆弾をセットしたとみたダンボ-ル箱を埋めるために、雨上がりの濡れた土を掘りに広場に出て行った。
その間に石脇が、伝票を手に荷物を運び込んだ人物の割り出し作業を始めている。その荷物を受けた社員を探すのだ。
宅配便の花輪営業所に電話をして担当した社員を調べさせると、五島という青年がその荷物を受けていて、いまは外回りに出ていることが分かった。
電話がようやく五島という若い社員の携帯につながった。
路肩に車を停めて応答しているという。
こちらが刑事だと分かると、五島青年は緊張して喋る。荷物の持ち込みはまだ数時間前のことだから鮮明に記憶していた。
石脇がメモをとる。電波がいいのか周囲にも聞こえる。
「忘れないですよ。すごい美人でしたから」
「そうか、美人だから覚えてたか? よし、ええ心構えだ。言ってみろ」
「二十五歳前後で、少し細身には見えるが身長は百六十五センチ前後、色白だが健康そうなすべすべしたきめ細やかな肌で……」
「触ったのか?」
「触りはしませんが、見て分かりますよ」
「う-ん、たまらんな。それから何だ?」
「レモンエロ-のワンピ-スに細い赤皮のベルトで、ウエストの締まった抜群のプロポ-ションで、足首もキュッと締まった……」
「たまんねえな。何だって? 胸のボタンが外れて金の太いネックレスが、大きく開いた胸元に光って、形のいい? おい。想像でものを言うな。真実だけを言え。顔はどうだった?」
「目はサングラスで見えなかっただが……」
青年の気持ちがほぐれたのか、徐々に饒舌になる。
「彫りの深い美人顔に適度に厚みのある唇、艶やかで長い金茶系の長い髪、左手の中指に大きなダイヤきらめいていて……」
「おい! いい加減にしろ。そんな美人が、鹿角くんだりまで荷物を出しに来るか? つくり話だろ? なに、思い出すと気分が怪しくなる? バカ! あ、済まん。こっちまで怪しくなっちゃうじゃねえか……で、心当たりはねえかな?」
「オレは始めて会った人だから分からねえです」
「それもそうだな」
「でも、あの美人顔は、ドコノ森山の麓のマヨイ地区か、ウタルベあたり、あるいは迷ケ平から奥の新郷村あたりに住んでいるユダヤ顔でねえかと思うですが……」
「ウタルベは昔から神都と言われてるからな。ま、ユダヤ系ってことも考えられっぺな。乗ってた足はなんだった?」
「グレ-のパジェロでした」
「パジェロ?」
また、パジェロが絡むことに石脇が驚いている。
「でも、この地方はパジェロがやたらと多いですよ」
友美の言う通り、同じ車種が多い町だったのだ。
掘った穴に土を被せ終わった達也が、事務室に戻った。
若者と石脇とのやり取りを、友美から聞いた達也が勇み立つ。
「早く、その女の正体を暴こうじゃないか」
友美が渋い顔で達也を睨み、石脇が指の関節を鳴らした。
「よし、その女を拉致して押さえ込むべ……だけんど女房にバレたら半殺しだな」
警部にあるまじき失言を達也が叱責する。
「そんな、誰でも考えることを口に出していいのかね?」
「冗談だ。美人と聞いてファイトが沸いただけで」
中里顧問が達也に聞いた。
「あの小包、どこに埋めました?」
「広場裏の林の中です。多分、もうすぐ爆発します」
「これを送りこんだのが、どんな美人か拝みたいものですな」
友美が提案した。
「その女性の似顔絵で、手配できませんか?」
「なるほど」
頷いた石脇が、中里に向かって頭を下げた。
「顧問、女の特徴はここさ詳しく書いてあるで、色鉛筆かクレヨンで似顔絵を一つ書いてもらえんですか?」
「それは松山画伯がいいでしょう。本職ですからな」
「なら、すぐ画伯のアトリエに行くべ。これからだと、ここには戻らねえから、夕方、中里先生の誕生会で花井主任の千石屋ホテルで会うべ。主任は先に帰って鴨ナベの支度でもしててくれんか」
「一杯やって待ってますよ。松山先生には電話しときます」
花井主任と中里顧問が見送る中、達也を助手席に乗せて石脇の運転する覆面パトカ-と友美の運転するアウディが、花輪地区の寺の後にある松山画伯のアトリエに向かった。
松山デザイン事務所とある看板の下の広い駐車場に、二台の車を停めて三階建ての建物のらせん型の外階段を上って、画伯のアトリエに入ると、浴衣姿の画伯は、早くも晩酌を楽しんでいたらしく、赤ら顔で三人を迎えた。
「花井君から電話をもらったよ。美人画なら書いたのがあるが」
「売り残りの美人画なんか要りません。似顔絵を書いてください。
これから特徴を言いますから」
「ほう、美人の悪人の似顔絵かね。そりゃあいい」
酔っていた顔がシャキッとした。
「特徴をはっきり見せるために全身と顔と、二枚描いて後でコピ-しましよう」
作業台にB四サイズの画用紙を出して、鉛筆を手に持った。
「まず顔、美人の凶悪殺人犯でしたな? さて、どんな顔にしましょうか?」
「勝手に決めないで下さい。まだ犯人と決まってないんだから」
「まず、目つきは悪くしますか?」
「いや、目はサングラスで隠れていて見えなかったそうです」
「凶悪犯がサングラスで顔を隠すのは常識だな。年齢は?」
「二十五歳前後の少し細身の彫りの深い卵型の顔で、小麦色の健康な美人顔……」
「これじゃただの美人ですぞ。真面目に説明してください」
「じゃあ、メモを読み上げます」
石脇が、宅配便の青年からの情報を読み上げる。
「厚みのある唇、青みがかった瞳、金茶色の長い髪、スタイルは抜群の身長は百六十五センチ前後、左手中指にダイヤ……ほれぼれとする美人ですよ」
松山画伯の手が、画用紙の上で踊りはじめた。
「まだ結婚してないのかな?」
「そんなの知らんです。わざと独身に思わせる人妻だっていますから……つぎに、身長は百六十五センチ前後、レモンエロ-のワンピ-スに、赤皮のベルト、ウエストの締まった抜群のプロポ-ション……それに、胸のボタンが外れて胸が少し開いてたそうです」
「ちょっと見てくれ。こんな感じかな?」
「いいですねえ」
全員が酔いの覚めた顔で、顔だけと全身のと、見事に仕上がってゆく画伯の絵を見つめている。たちまち二枚の絵が出来上がる。
その絵をピンで壁に止めると、画伯が納得したのか頷いた。
「サングラスが邪魔だが、これじゃあ、まるであの娘じゃな?」
「なるほど……美人だと、どうしてもあの娘になりますね?」
「あの娘って、誰のことです?」
「戸田さんは知らんだろうが、紫門賀代子ですよ」
友美がけげんな顔をする。
「この紫門賀代子さんなら、大太鼓を打ってたでしょ?」
石脇が首を振った。
「画伯が好意を持ってるから似ちゃうんだ。わるいが、書き直してもらえんですか」
「失礼な、ワシはプロだぞ。これが真実の姿を描いたものだ」
石脇が画伯を睨んだ。
「あのおとなしい賀代子が、拉致なんて出来ると思いますか?」
画伯が描き上げた絵を見つめて悲しげに呟く。
「そうか、紫門家は、とうとう賀代子まで犯罪に巻き込んだか」
友美が悟ったように口をはさむ。
「人には裏表があってもおかしくないんです」
「戸田さんにも?」
「わたしなんか何度、達也さんを殺そうと……いや、冗談です」
「冗談には聞こえませんでしたよ。佐賀さんはどうです?」
「よく、ここまで生き延びたと思ってるさ」
画伯が眉をひそめた。
「あの賀代子が動き始めたってことは、紫門家の内部で何かが起こってるんだ」
これには、もっと深い事情がある……友美はそう思った。
35、美人画
松山画伯の似顔絵はさすがに抜群の出来ばえだったし、それなりの効果もあった。まず、その絵の評価が千石屋ホテルでの宴会の話題を独占した。
「さすがに、上野の美術展で連続入選する先生は違う……」
中央にも聞こえる高名な画伯が、好意で描いてくれた、額に入れて銀座の画廊に飾れば、数十万円は下らない作品を、石脇警部が「百円から入札するのはどうだね?」などと言って、ひんしゅくを買っている。
当主の花井をはじめ、全員が宿泊することにして浴衣に着替えて温泉から上がったばかりの中里、石脇、達也、友美の誰もが、何回見てもすばらしい画伯のプロの技に驚嘆したばかりなのに、石脇が不謹慎にも自分の財布の中身と見合わせたような安価な評価で周囲を驚かせた。すかさず中里顧問が咎めた。
「郷土の誇りである著名な画家に対してそれはないだろう。芸術年鑑で号(ハガキ一枚)四万円の先生の絵をその価格では失礼じゃ。
芸術は金銭じゃない。だから礼金は払わんのだ」
「そんな考えの方が失礼じゃないか」
そこで、意見が続出した。だからといって、無理にお願いした仕事に対してなにがしかの謝礼を、などという常識的な案は誰からも出る気配がない。結局、松山画伯の好意で絵は寄付となった。
酒宴が盛んになった頃、挨拶に出た花井の妻で女将の美代が、卓上の絵を見た。
「あら、すてき。賀代子さんね。額に入れて飾りましょうか?」
こうして二枚の美人画は、女将の手で儚くも持ち去られた。
それからは酒とビ-ル、縄文酒の「万座の舞」も交え、熊肉のスキ焼きなど山の幸がふんだんに出て座は盛り上がった。
酔いが適度にまわると雑談から遠慮が消えた。
それからは談論風発、国を憂い自らを鼓舞し、小遣いの多少を論じ、女房の品格を疑う下世話な小論になる。
中里がほろ酔いだが真顔で友美に言う。
「あんたに聞かせるんだが、学生時代に、あの娘本人は望まんのに村からミス日本に推薦されてな。決勝まで進んで審査員の得点はトップだった……日本人離れしてるプロポ-ションだと絶賛されてな。ところが、その日本人離れが問題になって、目の色の青味がミス日本向きじゃないと言う厭味な審査員が出たんだな。賛否両論の審議の結果、準ミスに落とされた。それ以来、この娘はあまり外にでなくなって、山のようにあった良縁も断ったって話だ。ワシは先年
、カ-ちゃんを無くしてるから、場合によっては……」
「そらあダメだ。誰と出来たって、亡くなった奥さんが化けて出ますよ」
花井が簡単に、中里のかすかな夢を粉砕して話を継いだ。
「たしか、ジイさんは元の戸来村の村長さんだったってな。紫門家も一時はキリストの弟子のシモンの子孫などと騒がれて、新聞社などに追い回されたが、ジイさんは否定しませんでしたね」
達也が疑問を投げた。
「そんな娘が、なんで島野ごときを拉致したのかね?」
「さあ?」
その謎解きには誰も首を捻るばかりで応じられないようだ。
「もしかして、男漁りじゃないだろうか?」
と、達也がなに気なく疑問を投げると即座に却下された。
「あの娘に限って」
「それだったら……」
「まさか……」
誰もが言外に「自分が」の意味合いを込めて力んでいる。
そんな男たちもまた可愛いと思って、友美は微笑んだ。
無粋だと思った石脇が、友美に向かって意外なことを言う。
「これは、この町のタブ-だが、賀代子は学生時代に須賀の太一と惚れあった仲だった」
「恋仲だったんですか?」
「だが、須賀家は栗栖の分家で、紫門の本家とは血で血を洗う争いをした間柄だから、双方の親が引き離して、口も利けないようにしたんだ」
「可哀相に」
「それ以来、太一はノイロ-ゼ気味で何かにとり憑かれたように縄文の世界に走り、賀代子は丁度、ミス日本の審査が終わった時期とぶつかって家にこもりっきりになっただ」
「お気の毒に」
「太一と賀代子……あの二人だけは、何としても添い遂げさせてやりたかったがなあ」
友美と達也以外の全員が、しんみりと頷いた。
ここでは、誰もが、この話を知っていて口にしないらしい。それだけに、栗栖と紫門一族の確執が深いことが分かる。
「この賀代子が、島野を拉致したのが百パ-セント間違いないとすると、全ての縺れた糸が一気にほぐれてくるな」
「加納と島野が、紫門に拉致されたとしたら、紫門のヤマで働かされてるんじゃないのか?」
「そういえば、あそこのヤマで季節労働者や不法入国者を雇ったって聞いたことがある。人集めだと、なにか企んでるな……」
石脇が一人で納得したように頷いた。
達也は無言で茶碗酒を煽りながら、静かに考えを纏めていた。
過去のすべての失踪事件に、新郷村の旧家で山持ちの大財閥でもある紫門家……強いては紫門一族の率いる旧ヘライ村保守勢力が何かを企んで人集めをしている。彼らの狙いは何なのか? あるいは彼らを操る闇のブロ-カ-が存在するのか? その紫門一族は、本気で弱小な放浪の縄文人のクリス一族を、山狩りで抹殺しようとするのか。それは河田美香奪取だけがが目的なのだろうか?
今後、麓と山に分かれた二つの旧ユダヤ系一族は、戦うのか和するのか、大きな岐路にいるようにも見える。ただ、クリス一族が縄文のル-ルに縛られて木と石だけで戦うならば、文明の利器を知り尽くしている紫門の銃器火砲に皆殺しに会うだけで勝ち目などはあり得ない。いずれにしても、勝敗の結果は誰の目にも明らかで、鉄で武装した弥生軍に対したの縄文、戦う軍隊に対したアイヌのアテルイ将軍の悲劇以上の惨劇になるだろう。多分、クリス以下全員が
戦う前に銃弾を浴びて壊滅し皆殺しになる。
達也には、その前に美香を救出させねばならない。
それにしても、遠いイスラエルの地から流れ流れて二千年、苦労を重ねてこの安住の地を得たというのに、なぜ戦うのか? なぜ今になって罪を重ねるのか? そのような代償を払ってまで、一体全体何をしようというのか? それはどんな利益を生むというのか?
誰がそれを望んでいるのか? そうまでして、誰のために……そこで達也は目を開いた。
ヤマの利権? 達也はふと、全体像が見えたように感じた。
これ以上は、相手の懐に入ってみないと分からない。
その時、石脇もまた同じことを考えていた。
多分、明日一日が勝負になる。
タイミングが遅れて、紫門の山狩りが始まってからでは遅い。
達也には、過去に幾度も修羅場を潜り抜けて、与えられた仕事は必ずやり遂げて来たという自負もある。
もちろん、自分一人の力ではない。だが、命を賭ける時だけは人を巻き込みたくない。達也は、戦うために鍛えてきた自分の肉体と戦闘能力に気合を入れ、再び酒を飲み始めた。
「お、元気になったようだね……」
達也の腹を読んだのか、石脇が声を潜めた。
「一人じゃ行かせんよ。二人で明朝六時出発で……」
これだけ呟くと徳利を抱えて、中里顧問に倒れかかる。とぼけたオヤジだ。これだからタヌキなどと陰口を叩かれる。しかし、心強い相棒を得て達也は嬉しかった。達也はまた酒を飲んだ。
36、悪路
早朝から激しい雨だった。
まだ暗いうちに佐田刑事が部屋まで入って来て、なにやら石脇警部と密談していたが、布団の上に起きた達也に「腹が痛い」と腹部を抑えてみせて、さっさと石脇と交代して布団に潜り込んだ。
「いいか。ワスから連絡があるまで宿を出るなよ。今日一日は、佐賀さんがお前の名前で動くんだからな」
佐田刑事の来訪で早起きした二人は、時間より早く宿を出た。
覆面パトカ-を運転する石脇と、助手席の達也が夜食用に握ってもらった握り飯を食べている。
「ここから八十キロ弱、山道を入れても十時前には到着ですな」
男だけのザコ寝の和室を抜け出して来た二人は、昨夜のうちに夜食用にと部屋に届けて貰っておいた握り飯四人分と、ペットボトルの冷茶を持参していた。すでに握り飯の一人前づつは腹の中に収まって今日の活力となっている。
「佐賀さんの武器も用意したがら、そこを開けてみて」
助手席の前の収納ボックスを開けると、現職時代に使い慣れたニュ-ナンブの黒光りした銃身と弾装が覗いていた。
「今日の佐賀さんは、鹿角署の佐田刑事ですからな」
これで佐田刑事の拳銃が達也の手に渡り、達也は佐田刑事に成り済まして銃を使える。タヌキ警部が考えそうな手だった。
「武器はこっちにもあるよ」
内ポケットの鞘から抜いたイリノックス社製の大型ナイフを出して見せる。これも結構使い慣れている。
「接近戦なら別だが、飛び道具がないと戦争にならんよ」
「ところで、これから行く紫門家は、離れの何棟かを昔から旅マタギの定宿にしてましてな……佐賀さんはマタギのことは知ってますかな?」
「阿仁マタギや秋田マタギぐらいは知ってるさ。冬でも山奥に小屋を建てて住み、熊やカモシカ、ウサギなどを獲り、それを里人に売って生活する、いわば銃を持った縄文人とでもいうのかな」
「マタギには二種類あって、自分の縄張り内の山々で猟をして暮らすのを里マタギ、遠い諸国の山々までも遠征して猟をして暮らすのを旅マタギ、あるいは渡りマタギというだ。秋田では大館の南の山地に暮らす阿仁マタギが有名ですが、日本中の旅マタギが十和田山地に来たときに立ち寄るのが新郷の紫門家で、近くの山に来た旅マタギは必ずここに顔をだすのが仁義になってるんです」
「そのマタギと、今回の件は関係あるのかね?」
「マタギの稼ぎは雪が降ってからで、今は禁猟期だから、彼らはマタギ宿や自分の小屋を中心に、籠を編んだり、金を掘ったり、岩魚を釣ったりして生計を立てているんだね。そのマタギはヤクザの世界同様に義理固く、マタギ宿に居る限りはそこに義理立てして命を張って外敵に向かいます。その彼らが悪いことに……」
「悪いことって?」
「旧日本軍愛用の単発式村田銃の口径三十か、二百メ-トル先の熊も倒せる五連発式ライフル銃を持ってますからな。そいつらがいっせいに歯向かって来たら命が十あっても足りんでしょう。その時は逃げてください。マタギ衆とは争いたくないですからな」
「いや、島野と加納は必ず奪回する。彼らに山狩りもさせん」
「じゃあ、仕方ない。接近戦で弾が尽きるまで殺し合いですな」
「それで、正当防衛になるのか?」
「佐賀さんの新宿署時代、ヤクザが反抗したら殴る蹴るで気絶させてたそうでじゃないですか?」
「あれは正当防衛だ」
「同じですよ。どうせ、警察内部で処理するんですから」
「なるほど……正当防衛か? 元気が出たぞ」
元警官とはいえ一般人の達也が拳銃を撃ちまくっていい訳はなのだが、本人はその矛盾に気が付かない。
「おれは今日一日、佐田刑事だからな」
「そうです。万が一に相手を撃ち殺した時に全部、佐田刑事の名で正当防衛で記録できるし、佐賀さんの名は出さん」
ヒメマス養魚場を右折すると神秘の大湖の十和田湖沿いの快適なドライブが続き、宇樽部の三叉路を右折すると、いよいよ見返り峠への狭いジグザグの上り坂になる。かなり強い雨が降っている。
「雨に濡れた太古の湖・十和田……いいですな。これが見納めかも知れませんぞ」
「そんな心細いこと言いなさんな」
小鳥の囀りもどことなくのどかだが、二人は徐々に戦闘モ-ドに入りつつあった。雨足がかなり強くなっている。
「この道は冬季閉鎖です。この狭い道で急勾配、この急カ-ブの連続、冬じゃなくてもスリップして対向車とガチャンですよ。さあ、ここからが大変ですからな」
「なんで?」
「この道から外れて山道に入ります」
車は、大国牧場と看板のあるT字路を右折して山道に入った。
「牧場に行くのかね?」
「紫門の屋敷は、牧場からもっと奥に入ったところにあって、ドコの森の東裾にある湯の沢部落の一角にあるんです」
「ドコの森? そこもクロマンタと同じように人を寄せつけないんだろ?」
「そこも、埋蔵された土器類を持ち帰ると祟るらしいですよ」
草の深い道が雨で滑って思うように車が進まない。そんなときに運悪く背後から車が迫って来るのが雨で曇ったミラ-に映り、慣れた道なのか小さく見えた車体がたちまち大きく迫って来る。
「どこか先に行かせるような場所はないかな」
ほんの少しだけ道幅の広がった場所を見つけて左いっぱいに寄ると、濡れた草が滑ったのか前輪の左側が大きくスリップして泥溜まりの凹みに落ちて動けなくなった。二人は外に出た。
「タイヤを持ち上げるにもジャッキを支える地面がぬかるんでて無理だし……後ろのヤツに頼んでみるか」
ところが、後方から来たグレ-のパジェロが車体を道脇の土手に擦り付けるようにしてタイヤを草むらいっぱいに寄せて難なく通り抜けて前方に出て、そのまま走り去ろうとした。
あわてて、クラクションを鳴らすと、四駆がバックして停まり、カウボ-イハットを被ったジ-ンズ姿の女性が降り立った。
達也が雨の中を降りて挨拶をし牽引を頼むと、帽子の庇に手を当てて達也と運転席の石脇を見たサングラスの女は、二人を無視するように視線も合わせず、無言のままロ-プを出して来てずぶ濡れになりながら、ロ-プの端をパジェロのフックに巻き付け、片方のフックを、黒パトのフロントバンバ-裏のパイプに掛けた。
その素早い仕種にも驚いたが、何よりもその優雅な物腰がまさしく、松山画伯の描いた通りの雅びな絵になっていて、二人は呆然と手伝いもせずに眺め、石脇などはよだれを垂らしている。
雨に濡れた色白の顔のきめの細かい肌もいいが、サングラスの横からかいま見える青く澄んだ憂いのある瞳、魂を吸い込まれたかのように、二人はただ見惚れていた。
「曳きますよ」
達也はその声で意識が戻って道脇に避けたが、石脇は慌てて運転席に走って草むらに足をとられて顔から前に倒れ、小石で鼻の頭をすり向き、血を滲ませながらハンドルを握った。
その横を、引き上げられた車が動いて道に戻った。
また、車から降りた女はびしょ濡れなのに気にする風もなく、気軽にロ-プを外している。石脇が再び降りてきて礼を言った。
「有り難う。おかげで助かった……」
「あら、石脇さん。どこまでいらっしゃるの?」
石脇が鼻の頭を押さえながら毅然として告げた。
「紫門賀代子さん。あなたと千蔵さんを刑法第二百二十五条の島野泰造拉致誘拐、二百二十条の監禁容疑、二百四十九条の身代金請求・恐喝容疑の参考人として鹿角署に任意出頭して頂きます」
「では、令状をお持ちください。いつでも同行します。ただし、そのどれもが該当しなかった場合は、石脇さんを告訴します……よろしいですか?」
「結構です」
「では、粗茶など差し上げたいと思いますので、そのまま、道なりに行きますと、紫門家の門の所に出ますので、そのまま玄関前の家族用駐車場までお進みください。よろしければ、そちらの初めてお見かけする刑事さん、わたしの車にいらっしゃいませんか?」
石脇が即座に返事をする。
「いやワシが行きます。佐賀さん、面パトの運転頼むよ」
賀代子が聞きとがめた。
「佐賀さん? 東京から来た佐賀達也さんですか?」
「そうだが?」
「でしたら、ぜひこちらに……石脇さんは後から来てください」
石脇が舌打ちして運転席に向かった。まだ鼻が痛むらしい。
達也がパジェロの助手席に移ると、車が動きだした。改めて女がまっすぐ達也を見た。濡れた帽子は脱ぎ捨ててある。
「佐賀さん。改めて紫門賀代子です」
バタバタと羽音がするので振り向くと、後部席で鳩が二羽、見慣れない男の進入に興奮したのか小刻みに動いていた。
「どうして、オレのことを? 木場からの情報かね?」
「いいえ。東京を出たときから滝沢村、盛岡のホテル、夕べ泊まった千石屋、すべて、手にとるように見えています」
「ほう、千里眼かね?」
「いえ。佐賀さんの見える日を、指折り数えてお待ちしました」
「冗談だろ?」
「冗談ではありません。我が一族の存亡盛衰が掛かっています」
雨に濡れたその横顔を見て達也は息を飲んだ。頬を伝って流れているのは、紛れもなく涙だった。
37、砂金堀り
雨はいよいよ本降りになり、道はますますぬかるんでゆく。
気丈に感情を押し殺した賀代子が達也に訴える。
「時間がありませんので手短に話しますね。フェスティバルで太鼓を叩いている時に、取材をしていたのが戸田友美さんなのは、ご本人の自己紹介で知りました。あの方が、過去の失踪事件を掘り返そうとしているのを知って、すぐ身辺調査をしたのです。
その結果、以前、同棲していた恋人がいて、ご両親の反対で結婚出来なかったことも知りました。そのお相手が佐賀さんだったのですね? この時、戸田さんと佐賀さんだけは敵にまわしたくないと思ったのです。でも、あなたは意外にもとんだ食わせ者でした」
「なんでだ?」
「紫門興業に入り込んでいる外部の愚か者が、お電話で手打ち金に三千万を約束しておきながら爆薬を送ろうとしたので、それに反対したわたしが、用意した三千万円をお届けしました。
それを受け取りながら、約束を反故にして、あなたはここに来ています。これは詐欺です。道義上許せませんよ」
「でも、あれは時限爆弾では……?」
「とんでもない。わたしが爪に火を灯して貯めた全財産の三千万です。佐賀さんは、あのダンボ-ルが爆発したのを見ましたか?」
「そうだったのか……」
「佐賀さんだけには、真実を見極めてほしかったのです」
「なぜだね?」
「わたしは、昔、ある人と深く愛し合っていました。それが、親の反対で引き裂かれ、会話もできない状態にされ、神経症で人と口も利けない状態にまで落ち込んだことがあるんです。その上、その愛した人は川に飛び込んで自殺してしまったのです」
「それが須賀太一だったんだね?」
「二人は、昔から伝書鳩を十羽ぐらいづつ飼っていて、鳩仲間からだと言って、鳩メ-ルの定期便を交互に往復させていました」
「なるほど」
「添えない仲の二人ながら、お互いの日々の出来事を手にとるように知ることが出来たのは、その鳩メ-ルのお蔭でした。でも、太一さんが亡くなって、行き場をうしなった鳩を全部、わたしが飼うことになったのです。鳩を飛ばす相手もいませんでしたから、鳩たちもストレスで羽が抜けたりしてたんですね」
「ほう?」
「そんなある日、弱っている鳩を見た阿仁マタギの老人から、鳩を育ててくれるという申し出がありましたので、太一さんの鳩を全部お預けしたんです。やがて、その鳩が山で暮らす木こりや炭焼きからの季節の便りの定期便になり、やがて、その中には山の人達のリ-ダ-的存在のクリスという男性とも鳩メ-ルを始めたのです。そのお便りの内容が十和田奥地の周辺の山々や縄文族にも詳しい様子なので、もしかしたら、一時、死に絶えたはずの栗栖家と何か因果
関係があるのかとも思ったのです」
「それで?」
「さり気なく、縄文やユダヤの神器、あるいは栗栖家の話題も振ってみたのですが当たり障りのない返事で、核心には触れようとしません。しかし、私は鳩メ-ルからの感触で、そのクリスやそれを取り巻く周囲の人々の動きから栗栖家再興の兆しがあることに気づいたのです。結局、その現代人グル-プ、と言語が全く違う本物の縄文族と呼ばれる種族が共存していることも分かったのです」
泥道にハンドルをとられるのを幸いに、ギヤ-をロ-に入れて極端に減速して賀代子は会話を続けた。多分、後続の石脇がけげんな思いでいたに違いない。賀代子が続けた。
「マタギ衆の話だと、そのクリスは栗栖家の遠縁らしく、何らかの理由で死に絶えた栗栖一族の再興を図って、何人かの縁者を連れて山に入った平地族らしいという噂ですが、真相は分かりません」
「栗栖一族の血筋は絶えたんじゃなかっのかね?」
「一時は、栗栖本家滅亡の暗いニュ-スは、山人の伝達でまたたく間に全国に散って一般の生活をしている栗栖一族の分家筋に伝わりましたから、そろそろ、その分家の中から、本家再興を図る意欲ある人が出てもおかしくないと思っていました」
「ところで、栗栖本家は、本当に食中毒で死に絶えたのかね?」
「わたしは、山の衆の仲間割れと見てるのですが、どうも、栗栖一
族とは別に本物の縄文族がいて、それに壊滅させられたとも思えるのです」
「ほう。それは初耳だな」
「紫門家が、病原菌のあるアライグマを山奥に放って疫病を発生させて栗栖一族を絶えさせたとの説も出ているのは事実です。でも、腐っても紫門です。そんな卑怯なことはしません。その噂が出てから祖父は引退したのです」
「祖父か? 両親は?」
「わたしの父母は交通事故で死亡してますが、これに栗栖の関係者が絡んでいるという噂が流れ、その直後にヘブライ村の惨事があったことから報復説も流れました。しかし、その事件があってから、それまでは栗栖一族のことも 口にしなかった祖父が、栗栖家の窮乏を救えなかったことを嘆いて、自分が栗栖一族を滅亡させたかのように落ち込んでいるのです。それからは、めっきり体力も気力も衰えて、家督と統率権を、私の兄に譲ったのです」
「なるほど。それが千蔵ってことだな?」
「兄は人間関係が苦手でしたので、ついヤクザに足元を見られて付け入られ、紫門興業の内部はガタガタにされています。紫門家も昔からのご縁で、栗栖一族同様にマタギ衆など山の人を大切にしますが、わたし達紫門一族の人間は、山を捨てて平地に居ついた時点から、もう山に戻ることはできなくなっていましたし、紫門が山に入ったら、紫門が栗栖を滅ぼしたと思われて、また報復から争いになるのは火を見るより明らかです。こんな時に、マタギ衆からも見放
されたらこの土地では生きてゆけないのに、兄はそれにも気づかずに得体の知れない人達ばかりと付き合っているのです」
「紫門一族は、これからはどうなるのかね?」
「わたしたち紫門は、これからは、ごく普通の社会人として世俗にまみれ、事業を大きく展開して生活の基盤を堅実にして一族の繁栄を図るしか生きる道はありません」
「栗栖一族のヘブライ村の再興は?」
「さあ、クリスを中心に新たな栗栖一族が、昔からの縄文人と仲良く暮らせればいいのですが……」
「聞いた話だと、縄文村の生活は原始生活そのまま自給自足で、獣を倒すのにも石斧、石矢尻の弓矢、石の刃の槍を用いて、鉄は一切使わないそうだが、本当かね?」
「本当です。人間社会の争いから離れた大自然との共存、それに加えて、文明社会の崩壊に備えたサバイバル生活の実践、その帰結が縄文文化の継承になるという思想で、わたしもこれには共感しているのです」
「ほう、あんたも縄文派なのかね?」
「人類同志の醜い争いのない原始生活を続けたからこそ、栗栖一族は全国のマタギ衆に尊敬され、全国のどの山にでも自由に移動してヘブライ村を開くことができたのです。羨ましいことですよ」
「紫門家は、真似しないのかね?」
「もう、これだけ平地の仕事に慣れたら山は無理です」
「でも、金鉱堀りなどしてるじゃないか?」
「あれは真似事ですから……用意した木工具を用いての火起こしなども教えますが、いざという時に役立つかどうかは疑問ですよ。ですから、実際にわたしも山に入りたいのでですが、過去のしがらみがそれを許さないでしょうね」
「ところで、紫門で姐さんと呼ばれるのは、兄の婚約者かね?」
「そうです。加賀志穂といって、マスコミの帝王と呼ばれるDAT社の岡島専務の秘書でしたが、兄が見初めたのと、彼女自身の紫門一族の経済的危機を救おうとする義侠心で、こんな東北の僻地に来てくれたのですが申し訳なくて」
「ほう? あんたに辛く当たるんじゃないのかね?」
「とんでもない。何もかもお世話になり感謝してますよ」
「そいつは意外だな。今日は?」
「兄は東京ですが、志穂さんは屋敷にいます」
「彼女は島野拉致の実行犯じゃないのかね?」
「あれは、佐々木熊五郎の単独行動と聞いていますが? よくは知りません。志穂さんにも何か考えがあるようですが……」
「それだけの女がなぜ、美穂を誘拐したのかね?」
「あれは、祖父が岡島に相談した上で佐々木に出した指示です」
「なぜ?」
「志穂さんは、子宮筋腫の手術で子供を生めない身体なのです。だから結婚しても兄の子は生めません。かといって、正式な申し入れでは、あの兄の嫁に来てくれる完璧な女性などいません。あらゆる条件から考えて紫門の血を継ぐ条件が揃ったのが、河田美香さんだったのです」
「そのための誘拐なんて、ひどい話だな……」
「ですから、佐々木らの乱暴な行為を防ぐために、志穂さんを同行させて最悪の事態だけは避けているのです」
「実際に河田美香を拉致したじゃないか?」
「でも、志穂さんと図って山に逃がしています」
「と、いうことは、鳩でクリスに連絡した?」
「ええ、いつも連絡は志穂さんが引き受けてくれました」
「ところで、男を拉致して、どうするんだ?」
「労働力です。一度、金と女にはまった男は絶対に逃げないようです。佐賀さんも同じですか?」
「知るもんか。いや、知ってても言えるか……それより、金塊なんて本当に出るのかね?」
「紫門家の所有する山奥の谷川でも少しだけ砂金が採れます。それと、役所には届けていませんが良質の金が掘れる本物の隠し金鉱があるのです。レクレ-ションとして週に一度だけ本物の金を掘らすんですが、これが紫門興業の利益になるんです」
「だったら、偽の砂金をわざわざ作る必要もないじゃないか?」
「あれは、オモチャ代わりですよ。毎日、谷川から砂金を掘ってきて事務所に上納させ、その金を夜中に川に蒔くんです。だから、いつまでも砂金がなくならないのです。それでも、本物も一割りほどは混じっていますが、あとで全部買い上げますから外部には絶対に出ません。ですから、本物でも偽物でも結果的には同じです」
「それが外で使われたら?」
「持ち出し禁止です。偽造金貨の使用は罪が重いですからね」
「しかし、クマという男たちは、あれで飲み食いしてるぞ」
「まさか?」
「木場という男の店で使ったぞ。ほら、これを見ろ」
達也がブルゾンのポケットから、噛み跡のある小さな金塊を取り出し、運転中の賀代子の鼻先に突き出し、それを確認させた。反応を見たかったのだ。
賀代子が悔しそうに首を振った。知らなかったらしい。
「知りませんでした……でも、この砂金を外で使ったら社内の規約違反だけでは済みませんね。刑法が適用されますから」
「金銭の代わりに使用したんだから当然、犯罪だな。でも、こんなのを換金してたら、男たちはみんな大金持ちだな?」
「食費や女性で清算しますから、男はいつも文無しです」
「女性は金持ちになるのかね?」
「いえ、女も男の身体を買いますから、お金は持ってません」
「と、いうことは誰かがそれで潤っているんだな? 例えば、地元十和田の有力者とか……?」
「どんな仕事でも地場産業には必ず地元の有力者が何人も絡むのは常識です。名前は言えませんが,多分、佐賀さんがご存じの方もいらっしゃると思いますよ」
「こんな仕事、面白いかね?」
「わたしは大嫌いです。だから佐賀さんに相談したかったのです。
佐賀さんなら、ほかの人と違って人間味のある解決法を考えてくださるぐらいのことはリサ-チ済みですのよ」
「買いかぶらないでくれ。オレには何もできんよ」
「わたしは、太一さんの死で何もかも失いましたから、もう、どうでもいいのです。ただ紫門家の没落だけは避けたいのです」
「太一なんて死んだ男のことなんかきっぱりと忘れて、もっといい男を捜したらどうだ。あんたなら選り取りみどりだろうが、それにだ……男だって多少は経験済みだろ?」
その一言が悪かった。みるみる賀代子の目が鋭くなった。
「なんて、失礼な言い方でしょう。わたしは、佐賀さんを見損ないました。わたしを、そんな女にしか見ていなかったんですか?」
「まあ、怒るな。悪気があって言ったんじゃないんだ」
「信じられないでしょうが、この年で、まだなんです」
賀代子が呟いたが、その語尾は消えて達也には聞こえない。
雨にけぶる重厚な武家門が目前に現れると、賀代子の口調が柔から剛にがらりと変わった。
38、命乞い
「さあ、決断してください。あの門内に入ったら最後、お二人は間違いなく元創世界の組員に拳銃で蜂の巣状態で殺されるか、重傷で監禁されるかどちらかです。今なら間に会います。わたしを倒して逃げるのも自由です。わたしには、どうにも出来ないのです」
「なんで、オレがそこまで狙われるんだ?」
「佐賀さんは恨みを買ってるんですよ。佐賀さんが、以前、栃木県警と警視庁を動かして、創世界を奥日光に追い詰めて壊滅させ、解散に追い込んだ元凶であることは、彼らの噂話からわたしの耳にも入っています。それに、あなたと石脇さんのお二人がいなければ、この十和田地方では表立って紫門家に歯向かう人はいなくなるのです。それと……」
「まだあるのか?」
「あなたは、わたしを侮辱しました。あの一言は、死んだ太一さんに対しても失礼です」
「じゃ。あの世の男にまで操を立てようって言うのかね?」
「そんなの、わたしの自由じゃないですか! これも、わたしの好意を無にした佐賀さんへの天罰ですよ。さあ、どうします?」
「行くも地獄、退くも地獄か……ならば、このまま行ってくれ」
「本当にいいんですか? わたしでは止められませんよ」
「心配するな。自分の身ぐらいは自分で守るさ」
「殺されても?」
「くどいぞ」
覚悟を決めたら気が軽くなった。まさか、あの電話に出た小生意気な男の口調から、本物の札束を届けるとは思わなかった……それに、木場の電話を盗聴した折りには確かに爆薬を仕込む案も出た、あの時は半信半疑だったが。なのに……いや、責任を転化する立場でもないか、包みを抱えて広場に走ったのは自分なのだから。
だが、門に入る寸前で、達也が頭を下げた。
「頼みがある……」
「この期に及んで命乞いですか?」
「その通りだ。後の車の石脇警部だけは助けてくれ」
「それは出来ません。あの人は十和田でも有名なタヌキ刑事で、今の紫門一族にとって目の上のタンコブですから、いつかは交通事故にでも会うと思いますよ」
「一族ではなく、あんたの個人的な考えは?」
「それは、争いごとなんて嫌です。一刻も早く、兄の汚れたビジネスを諦めさせて、栗栖一族が伝承する縄文村の世界とも手を携えたいのです」
「分かった。警部も無事で、オレも生きてたら必ず紫門家と栗栖一族の仲介をしよう」
「お願いします」
賀代子がブレ-キを踏むと、一瞬遅れて石脇も車を停めた。
「この道は行き止まりですが、門を越えたところにUタ-ン・スペ-スがあります。そこで戻るように伝えてください。警備の男は武器を隠し持っていますが、門内に入らない限り危害は加えません。
佐賀さんも戸田さんが大切なら、一緒に逃げてください」
「分かった。すぐ戻るから、待っててくれ」
ドア-を開けて雨の中を走り、石脇の車に乗り移る。
「どうした? 急に止まって。キスぐらいしたか?」
「たっぷりしたさ。オッパイも触ってな。それより……彼女がな、あんたは東北六県では最高の刑事だって言ってたぞ」
「そうか……ワシも少しは紫門一族に優しくするかな」
「個人感情はさておき、交渉はオレ一人ということになった」
「気に入らん、どういうことだね?」
「二人以上だと中からガンで撃ちまくってくるらしい。とにかく、オレの命を救けるつもりで、あの門の先でUタ-ンして、車が交差できるところで待っててくれ」
「そうか。あんたのためじゃ仕方ない。無理せんでくれよ」
達也はまた雨の中に出て、パジェロの助手席に戻る。
「あんたの言う通りにしたよ。オレだけ中に入れてくれ」
賀代子が納得したように頷いた。
会話はここまでだった。
門前にマタギ姿の男たちが十人ほど、旅装のまま濡れていて、運転席の賀代子をみていっせいに頭を下げた。猟期から外れていることもあって銃は担いでいないが、みな腰に山刀を下げている。
「みなさん旅支度で、どうしたの?」
賀代子が車から降りて挨拶をすると、一人が答えた。
「厄介事はご免ですので、一宿一飯の恩義を反故にして予定より早くおいとましますが、賀代子さんにご挨拶してから出立したいってこいつらが言うもんで、お帰りをお待ちしました」
「ありがとう。お気をつけてね。また、待ってますよ」
ハットを脱いで頭をた賀代子が運転席に戻り、車は樹林に囲まれた立派な門構えの紫門家の敷地内に入る。
屋敷の軒下から人相の悪い男たちが雨をついて歩み寄るが、誰もが無言で不気味だった。何らかの武器を携行しているらしい。
賀代子が車から降りて叫んだ。
「争いは止めて。この人は話し合いに来たのよ!」
だが、それに応える者はいなかった。
達也が賀代子に続いて車から降りた途端に、凶暴そうな暴力団員風の男たちが二十人ほど、陰湿な殺気を露にして近寄って来る。
「オレは、山狩りを防ぐために話し合いに来たんだぞ」
だが、反応は全くない。話し合うという雰囲気ではないのだ。
暴力団風の男達が、達也を囲むために動いた。
達也は素早く動いて竹藪を背にして三方の敵に備えた。達也が動きながら内ポケットから鞘を払ってナイフを手にしたことも、彼らの気持ちを逆撫でしたらしい。
賀代子は軒下で雨を避け、元創世会組員に囲まれて絶体絶命の達也を不安の目で見つめていた。達也がこのままなぶり殺しになるようなら、もはや紫門一族の命運は尽きるしかないからだ。
門はすでに閉められていて逃げ場はない。
達也は、彼らが銃を用いるのは最終手段と知っているから、撃たれる前にケリをつける作戦に出た。
一触即発の危険をはらんだ静寂は五秒ほどで、彼らが囲みを縮めて来るのを見て達也が怒鳴った。
「クマ、ここにいたら出て来い!」
声に反応して囲みを別け、金属バットを手に頑健そうな男が前に出てくるのが目に入った。バットを握る左手の小指がない。それを見た達也が自分から先にぶつかって行った。
身体にバットの衝撃は感じたが、それより早く、達也の得意技の突きで一本、クマという男の利き腕の上腕部をナイフで刺し、それを素早く抜くと、すぐ太股を裂いた。しかし、この男は逃げる気配も見せず、苦痛も感じないのか平然と立ち向かって来る。
達也は元刑事の本能で、このクマという男が殺人常習者であるのを感じた。こうなると自分も捨て身になるしかない。その達也の機先を制して、クマという男に加勢した三人の男が山刀や木刀を構えて襲いかかってきた。さらに、殺気だった殺し屋が迫る。
「きさまらが美香の拉致犯か!」
「うるせえ、殺っちまえ」
「ニセ砂金を使ったのもきさまらだな。もう容赦はしないぞ」
達也は、先に出た四人が木場の店に出入りしていたと見て、自分から動いて乱闘に出た。拳銃で狙い撃ちされないように自分から躍り込み、ハイエナ軍団の機先を完全に制して暴れまわった。
一人の脇腹を刺して木刀を取り上げると、ナイフを素早く内ポケットの鞘に収めて、躊躇なく木刀で一人を殴り倒したが、ハイエナの群れは容赦なく迫って来る。達也も返り血を浴びて凄まじい形相になり頭にも血が上るのが自分でも分かった。
ただ、どう暴れようと石脇警部の言質で、正当防衛での処理が決まっているから暴れるしても気が軽い。こうなると、凶悪なはずの暴力団員より、達也の方がはるかに凶暴なのがよく分かる。
39、負け戦さ
達也は木刀を振るって一気に群れに走り込み、男たちを狙って手当たり次第に殴りまくった。次々に男たちが倒され、血が噴いて雨で濡れる地面が赤黒く染まってゆく。すでに、彼らの包囲網は崩れていた。しかし、次々に新手が現れては襲いかかってくる。
剣道では関東選手権の覇者まで行った達也だが、使い慣れた木刀が武器とはいえ限界はある。誰かが大声をだすと、あちこちからまた新手の敵が現れた。
達也が叫んだ。
「島野、加納、いたら出て来い。連れて帰ってやるぞ!」
達也を囲んだ男達が怒鳴り返した。
「あの二人は谷が気に入って、ここには戻らんぞ」
「救出だと笑わせるな。ヤツらは飼い殺しだ!」
「われらの桃源郷を荒らそうとするのか!」
「人の喜びを奪う権利がどこにある」
竹藪を背に大きく肩で息をつく達也を中心に、半径五メ-トル程の半円形が戦いの再開の機を伺っている。達也に打ちのめされた十人ほどが、濡れた地面に身体を擦りつけてあがいている。ようやく立ち上がった男も、戦いの輪から外れて庭石に腰を落としたり、芝生に横たわったりして呻いていた。
囲いを破って人相の悪い男がドスを突いて来た。迷わずに飛び込んで、木刀で肩を殴り腹部に強烈な突きを入れる。これでまた一人が倒れ、泥土にまみれてもがいている。
拳銃を構えた男が数人、達也を狙うが、乱闘の中にいるから射止めることが出来ない。その時、石脇が塀を乗り越えて飛び込んで来た。冷たい雨の中で、内部の様子をうかがっていたらしい。
「佐賀さん。佐田が応援を連れて来るでな」
石脇は、達也に向かって引き金を引こうとした男の横手に出て、体当たりしながら拳銃の銃身で横顔を殴った。男は悲鳴をあげて卒倒し、七転八倒の苦しみを味わっている。さらに石脇は、横から短刀で突いて来た男をいなして腕を取ると、腰に乗せてすぐ脇の池の中に投げ飛ばす。大きな水音と悲鳴が雨中に響いた。
達也一人だと思って甘く見ていた男達が、石脇の乱入をきっかけに結束を固め、いよいよ本気で拳銃で二人を射殺する気になったらしく、まず数人が石脇の背後に迫って銃を構えた。もはや、絶体絶命、達也の命はここまで……一瞬、豪雨が視界を奪った。
その時、達也は幻覚を見た。その豪雨を待っていたかのように、天から降ったか地から湧いたか、ボロをまとった長身の男と、上半身裸の山男が太い棍棒を片手に握って視界のきかない駿雨の中に躍り込み、またたく間に拳銃を構えた男達数人と、達也に迫っていた手負いのクマらの頭を痛打して瞬時にして消えた……ように見えたのだ。だが、一寸先も見えないような豪雨の中で、そんなものが見えるわけがない。これは幻覚だ……と、達也は思った。
達也が見たように感じた二人の姿は、助かりたいという達也の一念が都合のいい幻覚となって疲れた脳に現れたとも思える。
雨足が衰えた。石脇が疲れて勢いが失せた時に手痛い反撃に会っていた。多勢に無勢では勝敗は見えていた。石脇は顔や頭を血だらけにして、呻きながら地面に押さえつけられて暴れた。
達也が怒鳴った。
「その男は刑事だ、傷つけると罪になるぞ」
民間人だって同じなのに、警察出身の達也は気付かない。
それでも多少は効果があったらしく、敵がひるんだところに達也が踊り入って木刀を振るったから、石脇がよろけながら立ち上がった。その石脇に気を取られた達也の背後に、拳銃を構えた男が迫って至近距離から引き金を絞った。それを見た石垣がとっさに拳銃を引き出した。その時だった。練習用の薙刀を構えた賀代子が疾風の如く駆け寄り何の手加減もなく、疲労で隙だらけになっていた達也の面を打ち抜いた。その直後、二発の銃声が響き、一発はよろめい
た達也の頭上を掠め、石脇の放った銃弾は達也を狙った男の太股を撃ち抜いた。
命は救われたが、頭上に爆弾が落ちたような衝撃を頭に受けて昏倒した達也は声もなく崩れ落ちて気を失い、石脇に倒された男は血を噴いて悲鳴を上げている。
起き上がった石脇が、身近な敵を殴り倒してから、地面にへたり込んでいる男に飛び掛かり頬にパンチを食らわして抵抗力を削ぎ、蹴飛ばしてから後ろ手に手錠をかけて地面に転がす。
「黙秘権はあるだぞ」
小降りになった雨の中で、賀代子が両手を広げて叫んだ。
「もう、止めてください!」
この声で相互の戦意が消え、戦闘は終わった。
40、事情
達也が気づくと、優雅な物腰の賀代子に抱え起こされている。
「ご免なさい。痛かったですか?」
「冗談じゃない。頭から花火が散ったぞ」
石脇が達也に諭す。
「やられなかったら、背中から心臓に玉が抜けてたすよ」
地面に倒れているクマを機動隊員が引き起こそうとしている。
クマという男はすでに瀕死の状態だった。
やがて、青森県警機動隊の輸送車両が武装警官を乗せて到着し、降車した隊員が門を開けさせてなだれ込み、庭内にいた男らを追って、片っ端から逮捕をしたために、一度は納屋などに隠れた暴力団員らも、逃げられぬと観念して次々に姿を現した。
さらに、鹿角署のパトカ-も一台到着し、応援に駆けつけた佐田刑事があたふたと駆けつける。これで、達也が隠し持っていた拳銃は、発砲のないまま無事に佐田の手に戻ったから問題はない。
ただ、困ったことが起きていた。
通称クマこと佐々木熊五郎が息を引き取ったのだ。
しかも、頭に殴打されての陥没痕があるところから、熊五郎の死亡で駆けつけた検死官も首を捻り、達也が木刀で叩いたのではないかと疑ったが、石脇が正当防衛を主張し、過剰防衛での過失致死罪の適用で、青森県警の機動隊隊長と口論になった。
しかし、現場検証で、佐々木熊五郎が倒れた豪雨時での達也との距離は四メ-トルほどもあり、とても木刀の届く範囲ではないことが判明し、結局、日頃から何かと腕力にものを言わせて組内で横暴な態度をとって自分に逆らう者を痛めつけ搾取までしていた熊五郎が、対立するグル-プの恨みを買い、あの豪雨のときに闇討ちにあって殺されたと推測されるのは、熊五郎の舎弟分三人も頭蓋骨陥没などで瀕死の重傷を負っていることからも説明がつく。日頃から組
を牛耳って好き勝手をしていた四人だけに周囲の同情もない。
石脇に歯向かった上に四人の仲間を殺そうとした二十人近い暴力団員全員が、怪我の応急処置をした上で、公務執行妨害と凶器所持や殺人未遂容疑で逮捕され十和田署に護送される羽目になった。
拉致までして就労者を集め、ニセ砂金を給料がわりに渡して売春と買春をさせ不法な労働で莫大な収益を上げていた紫門興業代表の紫門千蔵も東京出張から帰り次第に、千蔵を補佐する加賀志穂が責任をもって付き添い、署に出頭することになった。
雨の中で、十和田署の主任刑事と石脇が口論になった。
賀代子に手錠を嵌めようとした十和田署の刑事を、石脇が突き飛ばして泥溜まりの中に転倒させたのだ。
達也に暴力行為を行った賀代子を殺人未遂で逮捕する、という青森県警側の意向に反対した石脇が、賀代子の行為は佐賀達也の一命を救った褒むべき行為で署長表彰に値する、と断言したからだ。
結局、致命的な内出血の発生で達也が死に至るか、病院の検査で頭蓋骨損傷による痴呆で生涯廃人同様で暮らさねばならない場合には改めて書類送検か逮捕かということで話が折り合って、賀代子は無罪放免、鹿角署から人命救助の申請を秋田県警察本部に警視総監賞を申請することになった。達也だけが痛い思いをしただけだ。
一方、達也を狙った男の大腿部を拳銃で撃ち抜いて出血多量で死亡寸前に追いやった石脇の過剰防衛も問題になったが、「正当防衛だぞ!」の屋敷の内外に響く石脇の怒鳴り声ですぐ収まったから声の効果もバカにはならないものだ。
拉致問題に関しては、河田美香拉致の実行犯と黙される四人のうちの一人が死亡、三人の回復を待って真相を究明することで、その背後関係も明らかになるだろう。
ただ、一方の拉致害者である加納と島野が、いくら連絡しても谷川沿いの飯場から帰らないという。それどころか、籍を飯場に移して永住すると言い張っているらしい。怒った石脇が佐田に命じて、加納と島野を強制連行するように手配した。
何としても、加納と島野、それに河田美香の三人だけは鹿角署で確保しないと面子が立たない、あとの逮捕者は一人残らず青森県警に任せともいい。
ともあれ、紫門側は志穂が立ち会い、ニセ砂金の製造は認めたが敷地内の流通に限定すれば玩具の一種でしかないと主張する。
こうなると、紫門家の規定に反してニセ砂金を外部に持ち出してして、わないという事件だけに、犯罪性の立証が難しく、ニセ砂金も限られたとなって違反ともいえなくなる。
スナック・華での砂金による支払いも、改めて現金と交換すれば示談という形で折り合いがついて詐欺罪は成立せず、あとは偽造貨幣行使の罪で元暴力団組員三名が裁かれるだけだ。
ともあれ、一つの事件は終わった。
女性陣の甲斐甲斐しい手当てを受ける達也と石脇は、図に乗って膝枕で鼻の下を長くしていた。
それを見た賀代子が女性達に指示する。
「このお二人は、水風呂でも入れて甚兵衛でも着せといて……」
賀代子が閉ざされた門を開けさせると、外にいた旅支度のマタギ衆が悠々とした足取りで入って来て、賀代子の前に並んで礼儀正しく腰を折って礼をし、代表が挨拶をした。
「一同、改めてお世話になりやすで、よろしゅうお頼みします」
そして、何事もなかったようにマタギ宿に戻って行った。
「どうぞ、こちらえ」
達也が歩きながら、内出血した頭を撫でた。
「あの女、顔に似合わず、ひでえことしやがる」
石脇が笑った。
「あれがなきゃ、あんたは地獄の三丁目だべ」
「じゃあ、命の恩人ってことか? 面白くもねえ」
やがて、水風呂どころかヒノキ作りの優雅ないい湯加減の温泉に浸かって、美女とは呼べないがごく普通の女性陣に全身の隅々までも洗われ、二人とも紫門家特有の過剰サ-ビスに陶然となって骨抜きにされる。
「警部、このまま居すわるかね?」
「いいすな。用心棒……椿三四郎って気分っす」
着心地のいい長袖の甚兵衛を着せられて、今度は準美女の案内で別館の離れに行く。
そこは、竹林に包まれた静かな日本庭園をもつ和風建築の一軒家で、庭木を眺めると、春は桜、秋は紅葉が映えるように樹木や草花が配置されていて客への配慮が行き届いている。
丁重な対応で二人を座敷に案内して上座に据えた準美女は、三つ指を添えて辞儀をして去った。二人は名僧の書らしき墨筆の掛け軸のかかった床の間を背に厚手の座布団に座り、輪島塗の大きな座卓の上に運ばれた薄茶を飲み、茶菓子を頬ばった。縁側の障子が開け放たれていて、外の緑が一段と目に優しい。
山奥の初秋の風が、湯上がりの身体をひんやりと撫でて快い。
つい先刻まで降っていた雨も止み、雲が流れると空が明るく開けてきて、晴れ間があちこちに見えてそれが広がって行く。
達也と石脇、二人の間に会話はない。
達也と石脇の間に会話がないのには理由がある。二人は職業柄、庭の片隅にひそむ人の気配を感じ取っていたのだ。
姿こそ隠しているが植え込みの裏に、二人の男が潜んでいる気配が、虫のすだく間のほんの一瞬だが、石になりきれていない人間の呼吸がかすかな殺気を伴って伝わって来る。この男たちは、凶器を隠し持って主人の警護のために、虫に刺されてもムカデに這われても、じっと動かずに耐えるのだ。同じ要人警護を職業とする達也だけに、その気配に労りの言葉を投げたくなるが、素知らぬ振りが彼らに対する最大の労りなのだ。
所在なげに外を眺めていると廊下側の障子が開いて、その家の当主なのか大柄な白髪の老人が現れ、紅葉模様の和服に着替えて一段と艶やかになった賀代子が、茶菓を載せた盆を持って続き、二人に相対して座った。
「祖父の紫門弥吉です」
お互いに自己紹介が済むと、老人がを口火を切った。
「佐賀さん、石脇さん、事情は聞きました。今までのご無礼をお詫びしますじゃ」
老人が詫びると、外の殺気が消えた。安全を見極めた影の男達が音もなく去ったのだ。
老人の口調が改まった。
「お二人に、お願いがあります」
「どういう意味か分かりませんが、お聞きしましょう」
「紫門一族と栗栖一族の遠祖は、はるばる大地を歩き、海を越えてこの縄文の里にたどり着き、いまの鹿角あたりに安住を求めて住み着いたですが、西から攻め上って来た鉄剣使用の弥生人に北東北の縄文人が皆殺しにされたたとき、山に逃げて生き残ったのじゃ」
「それで、縄文生活ですかな?」
「わしらは、日本中に網を張りめぐらせて調査しました。代々、一族の存続に必要なDNAの確保を紫門一族の大きな神事として続けてきましてな、今回は次代を担うこの賀代子が、まだ思う男と結ばれておらん。これの父母は交通事故で亡くなってましてな。この紫門家も、わしらの不徳と孫息子の千蔵への溺愛で、すっかり駄目になってしもうた。山も一つ二つと売って、昔は五日かかって歩いた土地を今ではもうたったの二日もあれば歩けるようになってしもう
た。このように我が家の財産を食いつぶしたのは、人のいい千蔵を頼って、東京からこの新郷村まで落ち延びて来た創世界という暴力団の残党から始まったことなのじゃ。聞くところによると、その創世界壊滅の張本人は佐賀さん……あんただそうですな」
「冗談じゃない。オレにそんな力はない。警察が倒したんだ」
警察の一言で石脇は胸を張ったが、達也は老人を睨んだ。
「ともあれ、今回の件で、元報力団組員は消えました。もう絶対にここには戻さない、その決意で地元の警察にも頼み、彼らと千蔵が二度と組まないように目を光らせてもらうことにしますだ」
「それは、結構なことですな」
「さて、ここからがお願いです」
「まだ、何かあるのかね?」
「河田美香というオナゴは、千蔵のが自分の惚れた志穂が子供を生むことができずに美穂がタネを仕込みたくて人を使って浚わせたそうじゃが、身代金欲しさにここえ運ぶ手筈なのをそれに気づいた賀代子が、千蔵の彼女の志穂と相談してニセの指示を出し、山に運ばせて山の衆に助けさせたそうじゃ。そう聞いとるのじゃが」
石脇が息巻いた。
「志穂って、加賀美穂ですかな?」
「そうじゃが?」
「加賀美穂が、佐々木熊五郎に指示して河田美香と加納を拉致したんじゃないのかね? それと島野もだ」
達也はまるで関心がないように、緑茶をすすり煎餅をかじる。
「そんな加賀志穂が、なんで自分が拉致した女を助けるんだ?」
「あんたは、タヌキという名の割りには頭が鈍いようですな」
「名前は石垣晋一だ。さっき名乗ったばかりだぞ」
「志穂は、千蔵には勿体ないほどの嫁です」
石脇が賀代子に聞く。
「どうなんだね? あんたのジイさんはああ言ってるが」
賀代子が微笑んだ。
「その通りですよ。わたしの唯一の相談相手ですから」
きっぱりと老人が言った。
「そこでじゃ。お二人にお願いというのは、賀代子からも頼んだと聞いとるが、この紫門一族と山に住む栗栖族の長年に渡る怨恨や恩讐を乗り越える和解の場を考えて頂きたいのじゃ。大昔といえば、わしらのご先祖のシモンは漁師で、栗栖の祖先がキリストではなくイスキリだったとしても家来筋にあたる仲だし……どうです?」
「どうですって言われてもなあ。佐賀さんはどうだね?」
煎餅がまだ口の中の達也が、お茶をすすって応じた。
「オレは、いや、私は河田美香さえ無事に戻ればいい……」
「聞いてないのか? 紫門と栗栖の仲立ちを頼まれてるんだ」
「と、いうことは、賀代子さんをクリスと結婚させるのかね」
その石脇の発言に一瞬、その場が凍りついた。
「いや悪かった。この賀代子さんを、山男に嫁がすなんてあり得ない話だ。これは取り消す、なかったことに」
「あり得ない話じゃない……」
老人がそこで口をつむぐ。
達也は沈黙した。幻覚とも思えたが、あの豪雨の中で杖を振るってクマという凶悪な男を倒した男……もしも、あれが噂に聞くクリスであるとしたら、周囲に殺気を感じさせず何の迷いもなく頭を打ち砕いた手練の早業と冷酷さは常人のものではない。あれなら、人食い熊を石斧で倒したというクリス伝説もそのまま信じることができる。あの男は恐ろしい。
だが……と、也は思った。あのぐらいの強さと厳しさがなければ大自然の中で、野蛮人と紙一重の集団は統率出来ない……と。
「これは、いい話かも知れんですぞ」
無意識に出た言葉に達也は自分でも驚いたが、それよりも驚いたのは、あの負けん気の強い賀代子が下うつむいて恥ずかしそうにはにかみ、怒るかと思った老人が意外にも優しい目で孫娘を見ていることだった。
その妙な雰囲気をぶち壊すように石脇が喚いた。
「ここの連中が山狩りをすると聞いたぞ。河田美香はワスらが行って取り戻して来るが、クリスなどとキリストの名をもじって名乗っているエセ縄文の化けの皮を剥いでやる。どうだ、佐賀さん。やってみるか?」
達也は珍しく即答をためらった。
あの必殺の一撃をかわすことができるのか?
あの熊五郎を細い杖一本で苦もなく撲殺した、あの人間離れした長身の男と相対したときに、果して平常心で戦えるのだろうか?
達也は言い知れぬ恐怖を感じて身震いし、同時に久しく感じなかった戦闘意欲がむくむくと沸き上がってくるのを感じて緊張した。
「どうする? 行ぐのかいがねえのか?」
「行くに決まってるさ。美香の救出がオレの仕事だからな」
腹がきまれば迷いは消えた。
老人が賀代子に向かって言った。
「賀代子は鳩で、山の誰かと通信しとったようじゃが、匿われた女の件でなにか知ってるなら言いなさい」
賀代子が暫く沈黙してから心を決めたように口を開いた。
「こちらで指示した山の祠から河田美香さんを救出して無事に扱っている、とだけ連絡がありました」
石脇がせわしなく聞いた。
「そんだら、まだ、そこにいるのは間違いねえだね?」
「ハイ」
その時、賀代子の青味がかった目がなぜか寂しげだった。
達也は賀代子の心が、縄文への思い入れでかクリスへの想いかは知らぬが、激しく揺れ動いているのを感じ、今後の展開がまったく予測がつかないことに苛立ちを感じていた。