いらっしゃいませ。
大通りと脇道の間、公道と私道の間にあるこのBARにわざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます。
ワタクシはBAR隙間のマスター、隙 間太郎と申します。
あなたがここに来たのも縁。
二日酔いと向かい酒の間のような、ビールと発泡酒の間のような、醸造酒と蒸留酒の間のような隙間をつくオリジナルカクテルをご用意しております。
「いや僕ね、噂に聞いていたけど、こんなにわかりづらい隙間にあるBARは初めてだよ。知る人ぞ知るって感じがして嬉しいなぁ。」
席に着くなり、おしぼりで顔をゴシゴシと拭き、脂ぎった顔をサッパリさせながら四谷四郎は話し出した。
「このおしぼりもいいね、フワッといい香りがする。これも何かと何かの間の香りなの?」
マスターはニッコリして答えた。
「左様でございます。リラックス効果のあるラベンダーとカモミールの間のちょうど良い香りを目指しております。」
ふぅん、と感心したようにおしぼりを嗅ぎながら、四谷は深いため息をついた。
「ねぇマスター、いきなりだけど、火事場の馬鹿学力ってあると思う?」
「馬鹿力ではなく、馬鹿学力でございますか。」
マスターはシェイカーの手を少し止めて聞き返した。
「そう、馬鹿学力。僕の娘がねぇ〜、たいそうおバカちゃんでね。受験も近いっていうのに夜まで遊び回ってんのよ。」
困ったように笑いながら、年頃の娘の写真をスマホから見せてくれる。
「髪なんか茶髪にしちゃってさあ〜、僕は黒い方がいいと思うんだけどまぁ、パパウザいとか言われちゃって〜。まぁ無視されるよりはマシかなぁ〜って思っちゃうよねぇ〜。服も派手でさ〜、この間買ってたバッグなんかそりゃもう派手派手で。そうそうこの写真。高校生なんだから高校生らしくしろって。」
「アラッ…。可愛らしい子じゃないですか。自慢の娘さんですね。」
マスターが写真を覗き込み、ふふふと含み笑いをして声をかける。
「それはそうなんだけどさ、親としては心配なわけよ。もう勉強なんかほんとにしてるのかなって思っちゃうよね。いっつも家にいないんだもん。」
四谷が続ける。
「火事場の馬鹿力ってこう、のっぴきならない状況に立たされた時に、普段以上の力が出るとかいうじゃない。それと同じでさ〜、受験の時だけ、こうアドレナリンがブワーッとでてさ。センター試験全問正解!なんつって。」
ガハハ、と四谷は笑った。
親としては、合格まで気が抜けない日が続く。家でこんな話なんかしたらまた娘に怒られちゃうよぉ〜とシーッと口に指を立てた。
カラカラカラン。
カクテルを丁寧にコップに注ぎ、マスターは四谷の前にスッとグラスを差し出した。
「安心なさってください。お嬢さんは火事場の馬鹿力の方は既に取得されていますよ。」
「えっ」
「ちなみに、学力の方に関しても問題ないかと。四谷さんのお嬢さんに関しては火事場の、というより普段の学力で問題ないかと思いますが。」
四谷は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてカクテルに口をつけた。
「なんでマスターにそんなことわかるの?僕、ここに来るの初めてだよ?」
四谷は矢継ぎ早に質問すると、クイッとカクテルを飲み干し、オカワリ!と元気良く手を挙げた。
「先程写真を見せて頂いた時はビックリしましたよ。まさか四谷さんの娘さんだったんですね。いやいや、この前たまたま見かけたんですが、印象的で覚えていたんですよ、この茶髪の派手なお嬢さんのことは。」
「えーっ!この子可愛いなって?マスター、困っちゃうよお〜。そういうことは、事務所、そう、僕を通してもらわないと!なんちゃって。」
四谷は既に何杯か水のようにカクテルを飲み干している。アルコールが入って更に陽気になってきた。この人は楽しくお酒が飲める人のようだ。
マスターが語り出す。
「ついこの間、店が休みでしたから私も敵情視察も兼ねて、気になっていたBARに飲みに行きました。帰り道、駅に着いてホームを気持ちよく歩いているところにちょうどホームに電車が来て、小柄で茶髪で派手な服の女性が降りて来られました。」
「アッ!それ僕の娘?」四谷が口を挟む。
フフと頷き、マスターは続ける。
「そう、四谷さんのお嬢さんです。お嬢さんと入れ違いに、ホームから電車に乗る高齢の女性の方がいらっしゃいました。ええ。それは、アッというまの出来事でした。」
四谷はグラスを片手に、マスターの話に耳を傾けている。
「まさに、アッ!という声がしたと思ったら、先ほどまで電車に乗ろうとしていた高齢の女性は私の視界から消えていました。」
マスターは振り返る。
驚いて目を凝らすと、なんと、ホームと電車の隙間に落ちてしまったようでした。
ここの駅は少しカーブがきつく、ホームと電車の隙間が広く開いていました。高齢の女性は、背負っていたリュックがホームに引っかかり、線路まで落ちることは免れていましたが、紙一重の状況です。また、突然のことで自分に起きたことが理解できず、パニックになるというよりは呆然としているようでした。
ワタクシはその状況に驚いて少し面くらい、数秒ほどフリーズしてしまいました。はっと気づいて急いで駆け寄って助けに行かなければ、と思った瞬間、既に動き出している方がいらっしゃいました。そう、四谷さんのお嬢さんです。
お嬢さんは肩にかけていた派手なバッグを放り投げ、すぐに駆け寄りました。
そして高齢の女性に優しく声をかけると、脇に両手を入れて、「おりゃっ」とホームと電車の隙間から引っ張り出しました。1人でです。
なんということでしょう。駅員さんが気づくより先に動き出し、ホームと電車の隙間に落っこちてしまったオバアチャンを、ヒョイっと持ち上げてしまったのです。
高齢の女性がようやく事態に気付き、慌てて振り向いてお嬢さんにお辞儀をしてお礼を言った瞬間、プシュー、とドアが閉まりました。
「ダイジョブっすよ〜」
キラキラした爪の手をヒラヒラと振って、ニカっと笑ったお嬢さんの姿は、まさにヒーローでした。
ホームに無惨に投げ捨てられた派手なバッグからは、どうやってこんなに入っていた?と思うほどのたくさんの荷物が散らばってしまっていました。
ワタクシは何もできないまま、呆然と立っていました。ふと我に帰り、自分の周りまで散らばった荷物を拾うことにしました。いやはや、それしか出来ず、お恥ずかしい限りです。
散らばっていたのは本やノートばかりでした。そして、やたら重たい本ばかり持っているなと思ったのもそのはずです。そこには、いろんなペンでびっしりと書き込まれた参考書やノートの数々。ひと目見ただけで、受験生の持ち物だと分かるような代物でした。
申し訳ないですが、パッと見た外見はただの派手なギャルと見受けられました。ただ外からではわからないような努力がお嬢さんには刻まれており、そしてお気に入りのバッグも厭わず、助けにいく姿に、ワタクシは大変感銘を受けました。
また、お嬢さんご自身も華奢な体なのにも関わらず火事場の馬鹿力だったんでしょうか、助け出せるパワーにも脱帽しました。重い参考書を持ち歩くほどの勉強に対する姿勢は二宮金次郎も顔負けでしょう。
出来事自体も印象的でしたが、派手な出でたちの受験生。そして人助けのヒーローでしたから、ワタクシの心の中にも深く残っておりました。
そんな聡明なお嬢さんのお父様がワタクシの隙間BARに来てくれるなんて!こんな奇跡的なことがあるでしょうか。
それこそ今のワタクシを見ただけでは、わからないでしょうが、ワタクシ、現在、大変興奮しております。
「アッ、ごめんなさい、私ばかり話してしまいましたね。」
マスターが気まずそうに四谷に話しかけた。
「いえ、、大丈夫です。」
四谷は目頭を強く抑えると、ふうっと息を吐き、静かにグラスの氷を見つめた。
「こんな話を聞かせていただいて、ありがとうございます。僕は、心が引き締まる思いです。外からの姿だけ見て判断して、娘を信じてやれていなかった。」
「いえいえ、素敵な出会いをありがとうございます。今日は、ワタクシの、驕りです。今日のお勘定分、まるっと娘さんに使ってあげてください。」
「参ったな。じゃああと一杯だけもらえる?すぐ帰るよ。顔が見たくなったからね。」
「喜んで。お嬢さんも成人したら是非うちに連れてきてくださいね。ご馳走しますから。」
「マスターには敵わないな。」
四谷は静かに笑った。
隙間BARは、今日も静かに人々を包んでいく。
優しく尊い時間は全ての人の隙間に、平等に注がれている。
振り返り、愛おしむ、そんな心の隙間を作る事がこのBARに与えられた宿命なのかもしれない。
おわり