第三章 留吉の仕事-1

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 第三章

 1、留吉の仕事

 一か月ほど家を離れた村長が帰村したのは、梅雨の季節に入った六月中旬のことで、村長は風采の上がらぬ小柄で地味な若者を連れて帰村した。その若者が留吉だった。
 留吉には、木こりが以前住んでいた山際のあばら家が与えられた。
加助の家に、留吉の身元引受人である十八代・松尾源兵衛と、駐在の杉山巡査(中宮巡査長の前任者)と、当の留吉の三人が、駐在の運転するマイカーで引越しの挨拶に現れたのは、冷たい小雨が止んだばかりの初夏の日の午後だった。

 その日は午前中から村長の指示だと言って、二台の軽トラックに荷を積んだ村の自警消防団の若者達四人が加助の家を拠点に、生活に必要な最低限の家具・台所用品・食料や夜具に加えて、釣具や四本刃のヤス、猟銃など留吉の私物などをそのあばら家に運び込んでいた。
 加助は、子供心にどんな人が引っ越して来るのか興味津々で待ち受けていた。
 村長ら三人が、加助の家に到着したときは、荷を運び終えた若者達が戻っていて、縁側で熱い餅入り汁粉を振舞われて、村長と留吉一行の到着を加助親子共々待ち望んでいるところだった。
 車から降りた村長が若者達に近づき、ジャンバーの内ポケットから用意した白封筒を出して、一人づつ労いの言葉を掛けながら封筒を渡すと四人の若者は嬉しそうに謝意を述べ、駐在と留吉にも挨拶をし、体の弱い加助の母にもきちんと挨拶をし、それぞれが加助の頭を撫でて去って行った。 
 引越しの挨拶だけだから「玄関先だけで」、という留吉を村長が説き伏せて、座敷に招いた加助の母親の好意に従うと、客間にはすでに膳が出ていて、小学生だった加助も同席させて簡単な酒肴の席が始まった。加助の母としては、新たに隣人となる留吉の引越し祝いと近所付き合いの意味もあっての会食だったが、今後の交流を考慮しての人柄定めでもあった。
 留吉は恐縮し、加助と母も大いに喜び、 村長と駐在は「一杯だけ」と言いつつ茶碗酒を数杯飲んだが、留吉は正座したまま、緑茶だけを口にして出された料理にも赤飯にも箸をつけなかった。その理由を村長が代弁した。
 留吉が所属した村では、一般の家屋に立ち入ることも食事を饗応されことも禁じられていて、こうして座敷に上がったことだけでも異例だという。だが、これからの留吉は村人の一員として普通の家庭生活に馴染んでもらわねばならぬので無理に座敷に上げたと、という。
そんな留吉を、加助の母が好意の目で見ていることは、まだ小学生だった加助にも感じられて嬉しかった。
 小学二年の幼児期に父を病いで失い、母と二人だけの生活が淋しかったこともあって、加助は、小柄で口数が少なく穏やかな留吉にすぐなつき、初めから好意をもって接した。
 その席での会話がどのようなものであったかは忘れたが、村長が留吉を母に紹介するときに「村の人達を救うために」と言った一言だけが加助の記憶の片隅に残っている。
 村長と駐在も留吉の家まで行って、若者達に「屋内に置くだけでいい」と指示した荷物の片づけを手伝うと聞き、加助も、母が用意した煮物や握り飯や香の物などに加えて、留吉が手をつけなかった料理もパックに入れ、まとめて包んで風呂敷をリュックに背負って同行することになり、自分ら子供仲間の遊び場で秘密基地でもあった山裾のあばら家に向かった。加助は、あばら屋の東側にある掘り井戸の使い方や、近隣の地理などは、子供とはいえ村長や駐在よりは自分のほうが詳しいような気がして、それらを留吉に教える喜びでわくわくしていた。
 その日から留吉は山裾のあばら家に住み、小学生の加助が留吉にとって唯一無二の友人となってゆく。

留吉は、口数も少なく遠慮がちな男で、新鮮な川魚持参で加助の家に立ち寄った時でも、加助の母が和菓子などを出しても、お茶だけで恐縮して絶対に家にも上がろうとせずに、深く礼を述べて帰るのを常としていた。
 加助は学校から帰ると、病弱な母に代わってひとしきり畑仕事をしてから、留吉の家に行くのを日課としていた。それは留吉が留守でも続いた。玄関と思しき引き戸にはカギもなく出入り自由で風通しもいいが冬は寒い。
 留吉は、猟に出ると何日かは帰らない。
 冬の間は猪を追って山に入った。
 留吉の出漁するときの身支度は、筒袖の山着物に股引き、脚絆(きゃはん)、手っ甲に黒足袋でわらじ、ブドウの蔓で編んだ背負い籠に手製の継ぎ竿や三本刃のモリ、飯盒(はんごう)、米、味噌、漬物などを数日分入れ、肩からカマス、遠出するときは獲物が傷まないように途中で川に浸しておくための一斗缶も籠の上に積む。
 夜は、仮作りの漁小屋や、崖下の岩穴で野宿し、ケモノ避けの焚き火をし、その周囲に竹串に刺した獲物を並べて焼くか、缶の中で蒸して燻製にする。その緊急非難用岩穴には、煎り米などの非常食を用意してあるという。
 帰るときは燻製にした良型のイワナやヤマメ、風通しのいいカマスに入れた獲りたての生きのいい獲物を、めいっぱい背負って帰宅する。
 そのため、川漁に出て帰らぬ日が多い留吉には、加助も周に数度しか会えなかったが、留吉に会えた日は、竹細工編みを教わったりする。帰宅時には、必ず獲物の源流育ちの身の締まった大イワナや、病弱な母のためにと薬草を貰ったりした。
 それにしても、留吉の獲物は群を抜いて素晴らしく、他の川漁師や、加助がモリで突いて得た川魚とは、色も艶も魚体もまるで違っていた。囲炉裏の炭火でじっくりと塩焼きにしたときの、味はまさに天下一品、食欲がないという母でもきれいに食べ尽くす。
 留吉が帰って来るのを見計らったように、松本や近辺の温泉宿の料亭に、川魚を卸す仲買人が、手土産持参で加助の家の庭に車を停め、山道をぶらぶらと散策しながら留吉の家に入り浸っている加助の知らせを待つのだった。その仲買業の人達は、加助の母が遠慮しても、必ず何らかの心づけや手土産を置いてゆくのがいつしか慣例になっていて、これは加助母子にとってはは箱に
 仲買人は、留吉から薬草なども買い上げ、生活用品や食料などと交換した。
 加助の母も、留吉が採取した薬草を煎じて飲み続けるうちに、寝たきりだったのがウソのように回復して、留吉が獲り立ての新鮮な川魚を届けに寄ると、起き上がって茶を入れたりした。留吉は、いつも一杯の茶ですっかり恐縮し、どんなにすすめられても、家には上がらず、食事や酒はもちろん、出された茶菓子などにも絶対に手をつけなかった。
 それは、他の村人の家に寄ったときでも同様だった。

2、仕事の結末

「留吉さんは、人付き合いの悪い変わり者だ」
 誰もが留吉のことをそう評価していたが、加助にはそうは思えなかった。
 加助が母が作った草餅持参で遊びに行った時などは、留吉は薬草づくり作業などの手を休め、相好を崩して喜んでくれた。その草餅を口にして「うめえなあ」と感嘆し、「おっ母さんによろしくな」と念を押すのだった。そんなときの留吉の表情は子供のように屈託がなく底抜けに明るい。
 初秋のある日曜日、留吉が村に住みついて数か月過ぎた頃、事件が起こった。
 その二十年以上前の事件について加助が孝平に語った。ある晴れた日曜に、朝早くからキノコ狩りで山に入った村の男衆五人が、異様な大男に襲われて、逃げ遅れた二人が殴られ、抵抗した一人が腕を折られる重傷を負い弁当を奪われただ」
 その事件の経緯は、その日の午後には村中に広まった。生憎と村長は私用で松本市に出かけていて不在で村役場も休み、統制のとれないまま、村の自警消防団が中心になって山狩りの機運が一気に盛り上がった。それに賛同する者全員がナタやスコップなど手ごろな武器を手に駐在所の前に集結、狩猟の鑑札を持つ猟友会のメンバーも猟銃持参で参加して、駐在の杉山巡査の指示を仰いだ。
 杉山巡査は「村長が戻ってから県警本部に応援を頼むかどうか決めるから少し待ってくれ」と村人を制しながらもすでに腰には拳銃を装備して戦闘態勢にあり、出陣の態勢は整っていた。そこに駆け付けたのが当時の村長・十八代松尾源兵衛だった。
 村長は助役からの緊急電話を受け、出先の途中から引き返して来たのだ。
 村長は、いきり立つ一同を宥め、広い山を我が家の庭の如く走り回る神出鬼没の山男を、この人数で捕捉するのは無理だ。ひとまず「わしに任せろ」といきり立つ一同を自宅待機という形にして山狩りを先送りした。
 村長はその場ですぐ、加助の家に駐車依頼の電話をし、杉山巡査の運転するパトカーで加助の家に向かった。留吉の家に行くには加助の家の敷地に車を駐めねばならない。
 この日は日曜日でもあり、体調を考えて野良仕事を朝のうちだけで済ませて帰宅していた加助の母の多紀は、村長からの「パトカーを駐車させてくれ」という電話だけで只ならぬ気配を察知し、頼まれもしないのに急いで飯を炊き、村長と駐在が到着した時は、すでに握り飯に香の物などを竹皮に包み終え、それを加助の小さなリュックに詰めていた。
 この日、友達と鎮守の森で遊んでいた加助も、異変を知った年長者から帰宅を促されて家に戻っていた。加助は子供ながらも直感的に、この件は何か留吉と関係があるように感じていて、母が作った弁当が留吉のためであるならば、それを届けるのは自分の役目と勝手に決めていたから、自分からリュックを持ち出していたのだ。
 やがてパトカーが到着し、庭先に降り立った村長と杉山巡査が現れ、玄関に廻ろうとして室内で立ち上がった加助の母を庭から制して縁側に寄り、手土産の菓子折りを居合わせた加助に手渡した。
 母と加助が礼を言うと、村長が加助の頭を軽く撫でた。
「お多紀さん。暫らく車を停めさせてもらうよ」
「上がってお茶でも」
「急ぐから今日は上がらん。お茶は帰りに頂く」
 村長が加助の母の申し出を辞退して、逆に問いかけた。
「ところで、留吉は在宅じゃろか? あそこには電話もないしな」
 加助の母がけげんな顔をした。
「留吉さんなら、村長を待ってますよ」
「なぜそれを?」
「先ほど、今朝獲ったイワナを届けてくれて、後で村長が来たら、暫く家を留守にする、と言ってました」
 加助も続けた。
「おいらにも、しばらく遊べないな、と言ってただ」
 村長と駐在が顔を見合わせた。留吉は、すでに山で起きた凶悪事件の発生を知っているのだ。
 加助の母が会話をしながら淹れた緑茶を、村長と駐在が立ったまま旨そうに飲み、礼を言って背を向けた。二人の背にも荷がある。
 加助は慌てて運動靴を履き、リュックを背負って二人を追うと、二人が気づいて振り向き立ち止まった。
「ぼうずも一緒に行くか?」
「いつもおらが案内役だよ」
「そうか、頼むぞ」
 加助を先導に三人が草を分けて留吉の家に向かうと、小鳥が飛び立ち小動物が叢を逃げた。
 三人があばら家に着いたとき、山刀を研いでいた留吉は作業を中止して、三人を出迎えた。
 村長が聞いた。
「留吉。わしの用件を知ってたのか?」持って
「察しはついてるだが詳しい説明を」
「いま、杉山巡査が説明するが、準備は?」
「いつでも」
「食料は?」
「炒り米や干物や味噌はわしらの携帯食だから、何の心配もないです」
 駐在の杉山巡査が手短に、山で起きた事件を話すと、留吉はすでに異変を感じていたのか素直に頷いて頭を下げた。
「引き受けました。もしも万が一の時は駐在さん、後を頼みます」
「本来は村と警察の仕事だが、過去の失敗に懲りて山のことは山の人、ここは留吉さんにお任せする」
 杉山巡査に続いて村長も頭を下げた。
「なにがあろうと、警察の私がが責任をとります」
 加助がリュックから母の用意した握り飯包みを取り出すと、嬉しそうに手に持って重さを量った。
「有難う。二日分はゆうにある、おっ母さんに宜しくな」
「さ、出陣祝いだ」
 村長が持参した四合瓶から茶碗酒が三つ注がれ、加助には水が出されて四人で乾杯、打ち合わせもすぐ終わった。
 駐在の話を聞いているうちに、加助にも留吉が請け負った危険な仕事の内容が朧げに理解でき、小さな胸は恐怖で震えた。
「職業柄、酒は舐めるだけで」と言う杉山巡査の茶碗が空になると村長が酒を注ぎ、巡査がそれを受けている。
「おじさん。一人で山に入るの?」
「何も心配ない、すぐに帰るさ」
 留吉は、加助の問いにきつい表情を見せたが、それも一瞬、またいつもの温厚な顔に戻って笑顔を見せた。
 留吉は、乾燥した何種類かの薬草を細かく刻んで混ぜ、紙に包んで加助に渡した。
「おっ母さんの心臓の薬だ。ジキトリスにほかの薬草を調合したから、今までのよりよっぽど効くからな。お茶代わりに煎じて飲むように言うだぞ」
 留吉の目がまっすぐ加助を見つめた。両肩に手を置き、珍しく真剣に言った。
「おっ母さんを大事にしろ。今日は送っていけないから村長と一緒に帰ってくれ」
 明るいうちにと夕焼け空の下、三人が帰路に就くと、背後から山刀を研ぐ砥石と刃物の摩擦音が鋭く恐ろしく加助の耳に響いた。

 翌日、加助は学校から帰るとすぐに留吉の家に寄ったが、雨戸は閉まっていて留吉の姿はない。
 それが一週間も続くと、加助は不安になった。それまでにも、川漁に出ると三日、四日と家を空けることが多かったが、なにか今までと違った雰囲気に加助の心はおののいた。
 母は、あの煎じ薬を服用して以来、狭心症特有の激痛を伴う発作もおさまり、顔色も健康そうになり、かなりの畑仕事さえできるようになった。奇跡的な出来事だと、親子は留吉に感謝していた。
 留吉が姿を消して十数日を経過した土曜日の夕暮れ、いつものように加助は留吉の家に走った。
 雨戸は閉まっていたが引き戸が少し開いていて、何となくいつもと様子が違う。そっと中をのぞくと、魚臭の生臭さとは違った不気味に生臭い血の匂いがした。
 家の中は静まり返って音もない。いい知れぬ恐怖が加助を襲い足がすくむ。加助は戸を閉めるのも忘れて夢中で逃げ帰った。 母にはなにも言えなかった。食事ものどを通らない。家の内部を見てないから母にも言えない。
「からだの調子がわるいから」と、いつもは母と一緒に寝る布団に先に潜ってはみたがとても寝つかれそうもない。
 母と子の二人暮らし、からだの弱い母に代わって所帯主同様の身でありながら「こんなことでどうする!」、天の声がおのれを叱咤する。加助は布団の中で唇を噛んだ。
 その恐怖に怯えた加助に気づいたらしく、布団の上から母が優しく声を掛けた。
「加助、先に寝ててな。母ちゃん、ちょっと用があるから」
 加助が布団の縁を捲って寝室を出て行く母の後ろ姿を見て驚いた。母は野良仕事支度と同じモンペ姿なのだ。
「母ちゃん!」
 思わず飛び起きた加助が母を追うと、三和土(たたき)に腰かけた母が地下足袋を履いているところで、脇に荷を詰めた籠がある。母が加助を見た。
「寝てないとダメじゃないか」
「母ちゃんは,、どこさ行くだよ」
「留吉さんのところを見てくるだけだから心配ないよ」
「なんで?」
「おまえ、何か見て怖かったんだろ?」
「おらも行く!」
 加助はすぐ普段着に着替えて運動靴を履き、懐中電灯を手に母と手をつないで家を出た。
 様々な小動物が出没する里山の夜は闇に包まれて不気味だが、気丈な母の手の温もりが加助の恐怖心を消していた。

 少し開いていた立て付けの悪い引き戸をさらに開けて、中に入ると、二人の懐中電灯の輪の中に留吉が倒れている姿があった。
 加助も気づいたのか「おう、来てくれたか……」と、頭だけを上げようとする。
 加助が部屋に駆け上がり声を掛けると、留吉は安心したのか、また血の匂いの中に倒れ込んだ。雨戸を開き、新鮮な朝の冷気を入れ
ると、部屋の臭気が薄まった。 病弱な母をもつ身で看病には慣れている。
 血に染まった留吉の漁衣の襟をはだけると、薬草がべったりと貼られていて、その上に血糊が浮いていた。周囲に薬草の葉や茎がも
みしだかれ散らばっている。
 留吉が「足を……」と、うめいた。
 見ると、右足を縛った布から血が滲んでいる。 留吉が動けないのは左の腰から大腿部にかけての裂傷が、かなり
の深手である上に、肩口と胸の傷もダメ?ジになっているようだった。この満身創痍の身で、ここまで辿りつけたのが奇跡だった。
「医者を呼んでくる」
「ダメだ。このことは誰にも言っちゃなんねえ!」
 その絶対という強い響きに押されて、加助は母にも学校の友達にも話せなかった。
 握り飯を渡すと、留吉は横になったまま貪るように口に押し込み、加助が運んだ水を飲み一息ついてから礼を言った。
 加助の母の献身的な看病と加助の協力で留吉の体も徐々に快復し、二か月で杖での歩行が可能になり、三か月で杖が不要になった。
 留吉は、この時の傷が元で片足が不自由になっていた。
 その後、粗暴で凶悪な大柄の山男の姿が消え、村は平和を取り戻した。
 事情を知らない村人は、山男が他郷へ去ったと喜んだが、留吉の保証人になっている村長と事件を握り潰した駐在、それに加助親子と当事者の留吉、この五人だけが真実を知っていた。
「あんときは怖かっただ……」
 加助は遠いところを見るような視線で昔話を締め、残り酒をあおった。
「凄まじい殺し合いだったんでしょうね?」
「だべな」
 孝平の脳裏に、雄大な北アルプスの山々をバックに、山刀を振るって争う精悍な小男と獰猛な大男の壮絶な死闘が浮かぶ。
 その事件以降の留吉は、幾度か、山の遭難者を救ったり、溺死寸前の子供を助けたり、急病人に薬草を届けたりと、人の難儀に役立
つ働きをして村人の信頼を得ていたが、かたくなに村人との交流を拒み孤独な生活を守っていた。そして、自分の役割は済んだとでもい
うようかのように村人の前には姿を現さなくなった。
 加助が、囲炉裏の残り火を見つめながら、あくびをした。
「明日の朝は、葬式で早くから人が来るべ、ちっと寝っか……」
 立ち上がって押し入れから、綿のはみ出した布団を何枚か引き出し、孝平にも寝るようにとうながす。雨音が小さくなってはいたが
、夜はすでに深更をすぎていた。
 それでも二人は眠りに落ちた。そして、孝平は夢を見た。悪い夢だった。夢の中で、妖しい女の潤んだ目が孝平を見つめている。
 その目は、ふり払ってもふり払ってもまとわりついて来る。孝平にとって縁もゆかりもないはずなのに……。

3、留吉の葬儀

 朝、騒がしい声で孝平は目覚めかけていた。
 朝早くから手伝いに来ている村の女衆の白い脛が、孝平の顔の上を遠慮なくまたいでいる。
「そろそろ、学生さん、起きるかね」
 女衆の一人が、孝平のくるまっている布団を剥ぎ、孝平はあわてた。
「あらま、たくましいねえ」
 その嬌声がなにを意味するのかが部屋中に伝わり、女衆の視線が孝平のジーンズの股間に注ぎ、たちまち淫靡な笑いとざわめきが起こった。孝平は、腰を引きながらすねた顔で身を起こし土間に下りた。
 二日酔いの頭が重い。こんなところは、さっさと逃げ出すに限る。
 裏木戸を開けて井戸端に立つと、少しばかりの雲はあるが快晴、風が冷たい。赤トンボが舞っている。空の甲斐まが冴え、木々の緑が目に沁みる。手押しポンプで水を出し、素早く顔を洗って手ぬぐいで拭いたとき、ふと妙な音に気付いた。音のした秋草の白い花が群生する下を覗き見ると、例の茶のブチ猫が丸まって何かを舐めている。
 よく見ると、その前足で押さえた部分から折れた竹と柄巻きの麻糸のほつれが見え、口の部分からヤスの三本刃が見えかくれしている。大猫はヤスに付着した肉片を舐めているのだ。
 悪夢のような昨夜の出来事は、夢ではなく現実だったのだ。
 孝平の視線に気づいたのか、ブチ猫は顔を上げて多くく口を開き、牙を剥きだして孝平を恫喝したが、それも一瞬、何事もなかったようにまたヤスにむしゃぶり付いていた。
 戸口からその光景を見た村の女衆の一人が孝平に忠告した。
「こいつは、気の荒い野良猫でな。人間にも歯向かう怖ええ奴だから、絶対に構うでねえよ」
 孝平は無言で頷き、すぐにでもここを去ろうと思った。留吉の葬儀にも参加する義理など何もない。
 孝平は部屋に戻り、ザックの整理をして帰り支度をしていると、背後に女の声がした。
「学生さん、お早う。差し入れ持って来たからね……」
 驚いて振り向いた孝平に、加助の妻の雅子が微笑んでいる。
「朝ごはんだよ」
「お早ようございます。加助さんは?」
「うちの亭主はとっくに畑だよ」
 加助の妻が腰を落として風呂敷を開き、弁当をとり出した。
 栗飯に山菜と鶏肉の煮物や香の物に焼き魚などがぎっしり詰まっていて、それを見ただけで空腹の腹が鳴る。
 村の女衆の一人が気を利かして熱い茶を運んできた。
「お雅さん、味噌汁代わりにお茶だけど」
「有り難う、お碕さん」
「だけど、学生さんの独り占めはダメだよ」
「分かってるよ」
。女が去ると加助の妻が言った。
「今夜はうちに泊まりな。きっとだよ」
 孝平がちょうど食事を終えたところに加助が戻った。
「いま朝飯か、おらはもう一仕事して来ただぞ」
 加助の妻が二人に缶ビールを手渡すと、加助が一気に飲み干した。よほど喉が乾いているらしい。孝平もこれで帰りそびれた。
 葬儀は午後になって始まった。
 昨夜の老僧のお供だった若い僧の読教が終わり、村長がとりし切った葬儀が終わると、棺を担ぐ男衆は、村役場の常備品だという白装束、額に三角布、わらじ履き、若い僧を先頭に旗をひるがえし、山裾の共同墓地に土葬すべく、草深い坂道を葬列が静かに下った。
 加助に誘われた孝平も、嫌々ながら白装束わらじ履きに着替えさせられて葬列に参加して、土掘りなども手伝い、留吉の野辺送りに一役買っていた。それでも特別な感情は何もなく、しいて言えば「田舎芝居」に参加した大根役者のような気分だった。

 埋葬が済んであばら家に戻り、塩を撒いて身を浄め、着替えが済むとまた酒が出る。村長の予言通り、また朝から続々と霊前への寄進の酒が集まっていたのだ。
 頃合いをみて、葬儀に顔を出さなかった村人まで図々しく集まって来て、二間だけの狭い部屋はまたいっぱいになり、天候がいいのを幸いに、外にむしろを敷いて飲めや歌えやの宴会になる。もはや、留吉のことなど誰も話題にしなかった。
 女衆も参加し、孝平もいつか調子づいて下手な歌など歌わされる羽目になり、「学生さんは音痴だね」などと拍手を浴びている。そのうち村長も詩吟をうなり、加助も演歌で続いた。村人にとっては葬儀もまた貴重なイベントだったのだ。
 それでも、酒の切れ目が宴の終わりであることは昨夜と同じで何も変りはない。
 それに、足場が悪いから夕闇が近づくまでのはお開きにしなければならない。
村長が立ち上がって葬儀が滞りなく終えたことへの謝意を述べ、参会者一同は満足げ気に語り合いながら帰路についた。
 早々と後片付けを終えた女衆も同伴の亭主や隣人と連れ立って帰ってゆく。
 加助と加助の妻も早々と帰っている。村人それぞれが駐車している我が家に立ち寄るため、その応対に忙しいのだ。
 加助が孝平に言った。
「一緒に帰るか?」 」
「いえ、眠いんでひと眠りしてから帰ります」
「バイクの酔っぱらい運転はダメだし、今夜はおらが家で夕飯と飲み直して泊ってけや」
「有り難いです。是非そうさせてください」
「囲炉裏の火の始末だけは頼むだよ」
 それを聞いた加助の妻も帰り際に、孝平の耳元でそっと囁いた。
「夜中に忍んでくからね」
 こうして孝平以外の姿が全て消え、山裾のあばら家に不気味な静寂が訪れた。
 孝平は睡魔に襲われたのか囲炉裏の脇で横になり、そのまま寝息を立て深い眠りに入っていた。
 
 孝平が目覚めたのは夜の寒さのせいらしく、囲炉裏をみると火が消えかかっていた。天井からつるされたランプはすでに脂が切れたらしく消えていて、壁掛けの獣油ランプの灯がゆらぎながらも部屋に淡い明かりを灯している。腕時計を見るとすでに9時過ぎ、約束だから加助の家には遅くなっても行くしかない。それに、加助の妻の囁きにも応えなければ男がすたる。
 囲炉裏に向かい、火箸で炭火をほじくり、細木をくべると徐々に炎がゆらぎ部屋が明るくなり寒さも和らいだ。
 見回すと、留吉が残した遺品の数々がみな孝平には物珍しい。
 村長が孝平に言った言葉が耳に残っている。
「あんたが発見者だ。形見分けに何でも持ってきな」
 その言葉を思い出した孝平は、家探しをして鹿皮の背当てを見つけた。
 両肩に紐があり、それを腰紐とみぞおち部分でクロスして縛ると背中にフィットして温かい。
 この背皮を身につけ猟銃を構えてみると、雪山を駆けて獲物を追う猟師としての留吉の雄姿に変身したような気になる。
 背皮を背にして一歩戸口から外に出てみると、夜の闇が四辺を包み、下弦の月に山々は黒い稜線を描いていて、初秋の夜風はすでに冷たく夜寒は肌を刺す。都会では晩夏でもここはすでに秋、冬の訪れも近いのだ。
 引戸を開けたまま部屋に戻った孝平は、ザックから肩紐付きの懐中電灯を出して点灯し壁掛けランプを消してから、囲炉裏の残り火に汲み置きのバケツの水を少しづつ掛けて火を消すと部屋中に灰が舞って視線が遮られた。だが、その時ふと、土間の隅の方角に妙な気配があり、おぼろげな視線の先に何かが動いたような気がした。
 懐中電灯を手に、上がりがまちに腰を下ろして暗い土間の奥を照らすと、光の輪に入ったのは、紛れもないあのブチ猫だった。

4、カメの中

 孝平は、そのブチ猫の視線の先に、ようやく気づく程度の細く青白い光が炎状になって見えかくれして揺らいるのを見た。この妖しい光には見覚えがある。
 孝平が栃木の片田舎での小学3年の頃、梅雨時の小雨降る学校帰りに、悪童仲間の一人が、「村の外れの墓地で幽霊が出るらしいぞ」と言い、孝平たち数人で、怖いものみたさに探検したことがある。森に囲まれた村の共同墓地は昼なお暗く、立ち入るだけでも怖いのに、木々の揺れる音も不気味で、孝平は体の震えが止まらなかったのを覚えている。雨は止んだが浮足立った一人が「もう帰ろう」と言ったとき、「あれは?」と他の一人がカン高い震え声で奥の暗闇を指差した。「どれ?」、全員が逃げ腰で近づくと、青白い炎が墓石の隙間を縫うように揺らいでいて、それが突然数個所から立ち上って孝平達を襲うように揺れたのだ。「出たア!」と恐怖のあまり我勝ちに逃げ帰ったが、ゲタや傘を置き忘れたものもいて大変な事件だった。
 孝平が夕飯時に幽霊を見たと話すと、父が笑った。
「それは燐光といってな、動物や人間の死体が腐敗した時に出るリンが、空気中で酸化して生じるただの発光体だよ」
 となると、ここに燐光があるということは、その下に動物か人間の死体の一部があるということになる。それは何だ? 
 孝平は立ち上がって再び壁側のランプにライターで点火すると、炎が音を立てて燃え、動物油の臭気と共に屋内に灯りが戻った。
 孝平はブルゾンを脱ぎ捨て、消した懐中電灯を肩に掛け、、そこにあった下駄を履いて土間に降り、壁に立て掛けてあるスコップを手に、光の揺らぐ土間の隅に近付くと、ブチ猫がうずくまったまま低く唸った。
 孝平は猫など気にせず、一気に湿った土を掘り起こした。
 そこだけ柔らかくなっていた土間の土は、たちまち穴をひろげ、やがてスコップに手応えがあった。
 手を休め、手ぬぐいで顔の汗をぬぐってから、肩から下げた懐中電灯を手に持って、穴の中を照らすと布らしきものが見えた。そこをこじって持ち上げると、スコップの先に、泥まみれの布と骨らしきものが絡んでいた。
 その瞬間、それを待っていたかのようにブチ猫が毛を逆立てて、孝平がまだ柄を握ったままのスコップの先に飛びつき、布に絡んだ骨を噛んだ。驚いた孝平は、思わずスコップを振るってブチ猫を離し、すかさずスコップを振り上げ、猫の頭を目がけて打ち下ろした。その一撃に手応えはあったものの急所を外したのか、ブチ猫は低い怒声を浴びせて素早く身をひるがえしてまた床下にもぐって消えた。
 孝平は、布と骨片を穴に落とし込み夢中で土をかぶせて穴を埋めた。これは何も見なかった、無かったことにするのだ。
 まさか、ここに死体があるなど考えたくもない。山で行方不明になった人の体の一部がここに埋められていたのか。
 ぐったりと、火の気のない囲炉裏端に座り、タバコに火を点けようとするが、ライターを持つ手が震えて点火するのに苦労した。
 それでも、一服して煙を吐くと、気持が少し落ちついた。
 孝平はもう加助の家に行く気も失せ、何もする気がなくなっていた。

 夜が更けると火の消えたあばら屋は冷える。孝平は付け木や薪を探し、濡れた灰だらけの囲炉裏に火を起こした。
 しばし、附木の硫黄の臭いが鼻についたが部屋の空気はたちまち暖かくなり、心も落ち着いて思考力も戻ってきた。
 もしかしたら、ここに埋めた死体の一部は、留吉が死闘で倒した大男の体の一部かも知れない。これならば納得がいく。
 孝平は、留吉の生きざまに興味津々で神経が高ぶり、もはや加助のことなど忘れ、留吉にのみ興味が湧いていた。
 留吉には何か秘密があるに違いない。
 そのミステリーを解く鍵はどこにあるのか。
 孝平は謎解きに挑戦すべく家探しを始めた。
 掘っ立て小屋同様だから天井裏はないし、押し入れには寝具や衣類に農良着の類や竹細工、土間に並んだ籠の中には竹細工や薬草、土間の壁には、猟銃二丁、釣り竿・玉網・四本刃のヤスなどの漁具、猟具の類が並び、台所側の土間には、漬けもの樽、食料、調味料や食器類、入口側の土間には作業足袋やわらじの束、雨具など、そして、部屋の中には、シナの木の皮を細く削いだツルで数匹ずつ腹の部分を編んだ燻製のイワナが囲炉裏を囲んで天井から吊るされている。これらが全てで怪しいものなど何もない。
 あとは一カ所、あのブチ猫が逃げ込んだ床下だけだ。
 孝平は土間に身を伏せて、懐中電灯で高さ四十センチほどの床下を照らすと木箱があり、意外に近い距離でブチ猫の目が光った。
 ブチ猫を無視して両手で蓋のない木箱を引き出すと、中には直径二十センチ程度の陶土カメが数個詰まっていた。その一つを取り出して蓋をとると、漁のための餌なのか、糠(ぬか)に草をまぶした小粒の肉片が詰まっていて、嗅ぎ慣れない異臭が鼻をつく。糠も草も臭気消しと腐敗を防ぐのに役立っのか? 少量の塩が混ぜてあるような気もする。
 ところで、この肉片は魚なのか獣なのか? それを確かめるべく孝平はカメの中に手を入れた。
 指に触れた肉片を無作為に十個ほど掴み出した時、床下で孝平の動きを凝視していたブチ猫が動いた。
 孝平が肉片の一つの中に、成人の男性らしき爪付きの指先を発見してたじろいだ瞬間、床下から這い出たブチ猫が跳んだ。一つをを手 孝平は、狂暴な野生の山猫の本性を知らなかった。奥信濃の山奥にはまだペット化しない猫も現存していたのだ。
 孝平がふと、猫の気配に気付いてふり向いた時はすでに遅かった。ブチ猫が跳んだ。
 ブチ猫は、疾風のように孝平を襲い、爪を肩先に食い込ませると、鋭い牙で首を噛もうとした。孝平は全身を振ってブチ猫の攻撃から逃れ、土間にあるスコップに手を伸ばすと、ブチ猫がそうはさせじと鋭い歯で孝平の右上腕部に噛みついた。孝平はとっさに左手でブチ猫の首を掴んで振り落とすと、ブチ猫は二間ほどの距離で牙を剥き毛を逆立てて孝平の隙をうかがっている。
 孝平は土間を走り、壁にかかった三本刃のヤスの柄を掴んでふり向いた。ブチ猫が跳躍するのと孝平がヤスを突き出すタイミングがピタ
ッと合い、手応えがあった。ブチ猫は背にヤスを突き刺されたまま孝平の腰にしがみつき爪を立て、孝平はヤスの柄を振るって腰から離し、そのままヤスごと持ち上げて、ブチ猫をを土間に叩きつけた。重い音がしてヤスが肉を千切って撥ね、ブチ猫は羽目板に当って落ち、血を吐いてもがいたが暫くして動かなくなった。
「ちくしょう!」
 孝平は猫にやられた不甲斐なさに口惜しさと痛みで自分自身に怒っていた。
 ジーンズが破れて大腿部から血が滲み、肩や右腕からも血が流れ、痛みも激しさを増すばかり、孝平は焦った。
 孝平もバイトの内容柄、緊急用の解毒剤や傷薬程度は持っているが、猫の爪と牙への対応は何もない。
 留吉が集めた薬草の中には止血や傷に効く薬草もあるはずだ。
 土間の籠や押入れから見つけた薬草炒り段ボールから、これと思える薬草を手で揉んだり噛んだりして傷口に貼った。

 オオバコ、エビス草、オケラ草、コレンギョウらしい葉がそれぞれ別々にビニール袋に入れられているが、何の草が何に効くかは孝
平には分からない。
は、とりあえず、緑が残っている菊科に似た葉を茎ごと口に入れて噛みほぐして傷口に貼り、手拭いを割いて繋げた包帯で応急処置を済ませると、どうやら気持ちは落ち着いて、酒の影響もあったのか、たちまち睡魔に襲われて深い眠りに落ちていた。
 遠ざかる意識の中で、いた。



5、出漁

 早い朝、孝平は目覚めた。
 まだ外は暗い。立て付けの悪い雨戸の隙間からは弱い外の明るみが洩れ入っているだけだった。
 目覚めの気分は、すっきりしていて快い。薬草の効き目もあってか、傷口の痛みも癒えている。
 頭の中だけは、まだ、夢見心地の靄がかかった部分があるが、ハイの気分にさせる脳内物質エンドルフィンでも浸出しているかのよ
うに、はしゃいだ気分になっている。まるで、遠足を前にした子供のようでもある。
 孝平は、土間に下りてカメを取り出した。
 奥信濃の大自然をそのまま活用した養魚場があるとしたら、獲物を飼育し、自由に、必要に応じて供給することが可能になる。
 全ての条件が整った天然の漁場、それこそ川漁師にとっての夢、留吉は、それを実現したのではないか。
 しかも、他の釣り人には釣果を上げることが困難なように、特殊な方法で餌付けをする。この仮説は孝平を興奮させた。
 この顛末を見届けてから帰ろう、と彼は思った。
 この餌で留吉は尺(三十センチ余)以上に成長した美味なる獲物を揃え続けることができたのではないか。
「天然魚を飼育する」
 彼等の争いは、あるいは漁場をめぐる争いだったのではなかろうか。孝平は、それを確認する気になっていた。
 川漁師などに、まったく興味をもたなかった孝平にとって、この心の動きはまさに狂気の沙汰としか思えない。
 彼が、一つの目標を見出したような気がして勇んでいるのも、妙な薬草のせいかも知れない。が、それでもいい。
 ランプに火を点そうとして油が切れているのに気付き、かれは懐中電灯をとり出した。
 知らず知らずに口笛を吹いている。
 孝平が釣ったことのある川魚といえば、せいぜいハヤ、オイカワ、タナゴ、ナマズ、ライギョ、フナ、コイの類いでしかない。それが今か、源流の獲物を追うことになる。
 漁具を探してみる。形見は分けで、いいものは村人が持ち帰っていたが、それでも使えそうな物もある。
 手製の継ぎ竿を二本、四本刃のヤスを三本、大きめの手網を一つ用意した。それに、使っていない仕掛け巻きにきちんと釣り糸と目印に鋭い鉤が結ばれている。釣った獲物を証拠に一、二尾は持ち帰るとして魚篭(びく)が必要になる。土間にあった留吉が使い古した、むしろを二つ折にして両側を細縄で編んだだけのカマスがあり背負い縄も付いている。これなら荷物入れとしても獲物入れとしても役立つ。
 食糧は、とりあえずは葬儀の残りものを集めれば間に合う。野宿を一度はするとして米、味噌、飯盒、山ナタ、火を燃やすのに便
利なツケ木、それらがあればいい。ライター、雨具、電灯、ナイフ、虫除けスプレー、携帯カイロなどは孝平が常備している。
 水質検査用のPHメーター、温度計、水を持ち帰るポリ瓶も荷物に入れる。携帯用非常食も日頃から用意してあるし地図も磁石もある。寝袋はないが焚火で暖をとれば一夜はしのげるし、雨の場合は、いつもの通り、岩陰がなければ大木下で雨具で身を包みホットカイロで暖をとる。雷が落ちたら仕方がない。
 服装は、猫との闘いで破れたシャツとジーンズは脱ぎ捨て、留吉の川漁用の仕事着を探した。
 寸づまりで窮屈だが、筒袖の山着に細身のズボン風猿っぱかまを履き、その上に紺の脚絆を巻くと、どうやらサマになった。手っ甲もあった。 足まわりは自分の山と渓流兼用シューズに、さらに滑り止めにわらじを巻く。
 こうして準備万端整ったが、小男の留吉の着衣を並みの孝平が身につけると、多分、人が見たらこっけいな姿にしか映らないはずだ。
 これでカマスを背負って土間を歩いてみると、重心のバランスが崩れて歩き辛いことが分かり、残念だが自分の背負い慣れたザックに全部荷物を入れ、竿もヤスもそこに立てて入れた。カマスを諦めた以上、獲物も持ち帰らないかも知れない。
 それに台所から手ごろなタッパーを探してカメの中の肉片を詰めて餌の準備も整った。
 あとは、バイクを預けてある加助にメモを残した。
「少し奥の沢で試料を集めて来ます。一泊ですから心配無用です」
 土間に倒れていた猫の姿が見えない。多分息を吹き返して床下にでも身をかくしたのだろう。孝平はホッとした。やはり殺生などは
したくない。
 孝平は懐中電灯を手に戸外に出て、夜明け寸前のおぼろげな朝霧の中を歩き出した。
 加助の家に預けたバイクで行けば、留吉の死体を発見した場所までは歩かないで済むが、それでは川漁師・留吉の気分にはなれない。ここは山道の最短距離を歩いて釜ケ沢の上流に入るのが最善と孝平は考えた。
 その懐中電灯の光の中で足元の虫が逃げて跳び、夜行性なのか早起きなのか鳥の羽音がする。
 山道をおおう梢を通して夜明けが近づいていた。
 かなり以前から同じ地域を歩きまわっている孝平は、なんとか地理が頭に入っていて、暗い道でも不安はない。
 夏休みももうすぐ終わる。アルバイトは今回で打ち切り、松本へ戻ったらすぐ栃木の親元へ帰って残り少ない夏休みの間だけでも親
孝行をしよう。
 殊勝なことを考えた孝平は、冷気の中を鼻唄まじりで歩く。山道を歩きながら、山ブドウの蔓をナイフで切り落とし、節から節までの間の茎を割ると二センチほどの白い虫がいた。触れると柔らかい。話には聞いていたが、なるほど、これが渓流釣りの餌として川虫に次ぐ最強の餌になるブドウ虫なのか。それを着衣の上に重ねたベストのポケットに幾つか入れる。肉片との優劣を試してみたいのだ。
 やがて、あたりが明るくなったので、懐中電灯をザックの横ポケットに押しこむ。幾重にも重なる山々の稜線が夜明けの空に緑濃く浮かび、杣道には早くも紅葉した枝葉に朝の陽がまぶしい。
 木樵り道なのか上流に向って山道が続いている。一度立ち止まり、位置を確かめてからは歩くピッチも早くなった。汗が滲み出る。歩き慣れないはずなのに足が軽い。 対岸には、この近くまで4WDであれば乗り入れることのできる林道があるが、孝平の歩いて来た側には車道はない。留吉の死体を発見した地点も、沢に下りず山道で通過した。
木の間洩れに穂高連峯、日本アルプスの景観が見えかくれする眺望に恵まれた山道だった。だが、晴れ間が雲で消されつつある。
 小休止も入れて六時間ほど歩いてから留吉は沢に降りた。
 崩れやすいゴロ岩と灌木の群生する難所だったが、ヤブ漕ぎをしながら慎重に降りた。道がないだけに眼下はるかな沢に降り立つの
は容易なことではない。
 やはり、中流地帯の降り口から沢に入り、ヘツリや高まきをしながら上流目ざして遡行するべきだったと孝平は思った。。
 留吉のあばら家の壁にあったロープの束は、山道で奥まで行って目的の谷への上下行に用いるもの、と、気付いたがすでに手遅れ。
それでも、一時間ほどで沢に降り立つことが出来た。
 見上げると両側共崖は直角に近く、雲が近くに迫っている。それだけ谷が深く視界が狭いのだ。
 雨が降ったら、とても逃げられそうにない。大雨が予測できたら上流へと逃げて隠れ場所を探す。下へ逃げて鉄砲水に追われたらひ
とたまりもない。
 胸までの徒渉を何度か繰りかえしながら、孝平は進んだ。大石の多い渓相で水は冷たい。紅葉を楽しむ余裕などもはやなかった。
 孝平はひたすら上流へ向った。谷はますます暗く深くなった。小滝があれば岩にしがみついて登攀し、徒渉不能な深淵は荷を背負ったまま泳いで遡行した。
 上流になるにしたがって岩壁は、滑りやすい逆層の粘板岩になり小滝ですら直登できず、滝横のブッシュを高巻きして上流に出なけ
ればならない。余分な時間が費やされた。
 それでも、何ヵ所か、傾斜からみて崖上へ逃出できそうなルートを見つけたので、少しテスト的に登りかけてみると、そのガレ場は、崩れやすい地質の洪積層砂礫土砂で、すぐ足元が崩れてとても上までは登れない。ましてや雨のときは土砂に叩かれてしまう。
 川石が大きくなった。源流が近い。谷がさらに深くなり、滝の音がした。
 しばらく進むと大きな淵の下に出た。沢が二方から流れ落ち、三米ほどの滝になっている。左は大明寺山、右は金松寺山側から落ちている。右側の沢は川幅の割に極端に水量が少ない。
 孝平は今たどって来た谷筋をふり返った。
 淵から流れ出る水は、音を立てて瀬を走る。二つの沢から小滝に落ちる水の量の数倍もの水が淵から流出している。
 ここは、淵の底に湧き水がある、釜(かま)場だったのだ。
 多分、職漁師はここで獲物を得ていたのだろうか。留吉の漁場は、この淵だったのか。
 淵下の瀬を横切って岩に身をひそめ、じっと深い淵をのぞくと、型のいいイワナが白い泡の下で群泳している。水が澄んで白い背の
斑点がはっきりと見えている。
 ふと孝平は、実家のある栃木県西那須野の漁協で役員をしていた叔父の話を思い出した。その漁協の管轄内に蛇尾(さび)川という
川がある。その川は晴れると上流の水が地下を流れ、雨が降ると川になる。カレ沢のときはまるで魚のいない川のようだが、山奥に入
るととんでもない深い淵があり、沢の魚は全部そこに潜む。 ただし、そのかなり下流にちょっとした滝つぼがあって、そこの
魚影に騙されて釣り人はそこで竿を出し、上まで登らないという話を聞いた。
 大物の釣れる場所に辿りつくには、水がなくても騙されないように、そこから難所を越え、登りつめなければならない。
 孝平は気持をひき締めて、小滝の横をまいて、チョロチョロ流れの右側の沢に向って登った。
 大イワナは、高い滝でも、滝壷の深さが同じくらいあれば水量が増えたときに、水の中で勢いをつけ助走して一気に跳ね上がる。
 しかも、魚体が大きいほど跳躍力は高くなるから、大物は自由自在に上下流を走るという。
 孝平は、ほとんど水のない沢を二時間ほど歩き続け、不安になっていた。この上には水はないのかもしれない。と、すれば伝説の魔
の淵は、やはり先刻通過したあの小さな滝ツボだったのか。頭上で小枝のきしむ音がした。見上げると、ムササビらしい小動
物が滑空して対岸の茂みに姿を消した。
 ミヤマ柳やトチの木の枝が沢を包んでいる。加助の昔話だと、淵の上に高くそびえる崖があり、そこから役人に追われた村人が身を
投げたという。そうすると先刻の淵では情景が違ってくる。孝平は歩みを早めた。
 濡れた着衣も乾き、汗が流れ、腹の虫が鳴いた。小休止して食事をし沢の水を飲む。
 冷たい水がのどに沁みる。再び歩き始める。
 右側の断崖の岩がえぐれている地点で孝平は足を止めた。水面から二米ほどの岩場に焚き火の跡がある。雨露が凌げる広さがあり、
よく見ると雑木で組んだ小さな棚がある。多分、魚を焼いて干すのに用いたのであろうか。
 これで、雨のとき逃げ込める小屋を得た。耳を澄ますと川音にまじって滝の音がする。
 岩角を二ヵ所ほど曲がると水が見えた。対岸に渉ると膝までの深さだった沢の水が、たちまち腰下にまで深い沢になっていた。
 流水はこの下で、小石の間を縫って地下に吸いこまれている。
 流れは意外にきつく足元がとられそうになる。
 孝平の脛になにか当る気配がした。
 足元をすかして見ると、まむし除けに巻いた紺脚絆のまわりに、良型のイワナがまとわりついて泳いでいる。魚影が濃い。
 胸ビレの前縁に白い線、背に黄味を帯びた斑点、まさしくゼミの教授が図解してこわした天然イワナだった。
 よく見ると、背ビレを水面に出して遊泳し、斜行したり、跳躍したりして孝平を歓迎するかのように、周辺に群れている。
 それにしても、人影を恐れないイワナなどいるのだろうか。渓流魚の中でもとくにイワナは警戒心が強く、人の気配を察しただけで
も岩蔭にす早く身をひそめ、数時間はそのまま姿をあらわさない習性をもつ。
 孝平は、あることに気付いて愕然とした。
 魚群が、孝平を包んでいる。孝平はあせって、水際の岩場を歩ける場所まで急いだ。