大久保利通、西郷隆盛にみる武士道

大久保利通、西郷隆盛にみる武士道

花見 正樹

新渡戸稲造の「武士道」の第三章では「義」について説いています。
「義は人の道なり、義は、武士にとって重要で厳格な徳目である。武士は卑劣な行為、不正な行いほど恥ずべきものはない」、と同時に、「この観念は狭すぎるかも知れない、との疑義もある、と述べています。
さらに、林子平の考え方にも触れ「義とは道理に従った自分の身の処し方、道理に従って決断し、死すべきときは死を恐れず、討つべきときは討つ」にも賛同し、維新のクーデターを待たずに旗揚げして死んだ真木和泉守の「武士の重んずるは節義である。武士は、才能や学問、社交の才などより節義を重んじるべきである」をも共感をもって並述しています。
それに、当てはめて幕末の人物をみていると、私には理解しづらい人物が何人かいます。
その一人が薩摩藩出身の大久保利通の生き様で、生き方のはっきりした西郷隆盛からみると複雑すぎるからです。
家格は御小姓与(おこしょうぐみ)琉球館附役の下級藩士の家に生まれた幼名・正袈裟(しょうけさ)は、西郷隆盛、税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学び育ったが武術は不得意でも読書力や弁論は抜きん出ていたと伝えられています。
十五歳で元服して通称を正助(しょうすけ)と改め、十七歳で記録所書役助として出仕し、嘉永3年(1850年)のお由羅(藩主島津斉興(なりおき)の正妻の子・斉彬(なりあきら)と側室お由羅の子・久光との後継藩主を巡るお家騒動では、西郷家同様に斉彬派の父・大久保利世と共に謹慎処分とされ、大久保家は貧しい生活で借金暮らしとなります。その後、お家騒動に幕閣を巻き込んで斉彬が藩主になると謹慎を解かれ、御蔵役から、西郷吉之助とともに徒目付となり、斉彬派の精忠組の頭領に担がれて活躍します。
ところが安政5年の斉彬の死後(毒殺説あり)は、失脚した西郷を横目に素早く新藩主・島津茂久の実父で実力者の国主・忠教(後の久光)に、趣味の囲碁と、朋友・税所篤の実兄(吉祥院住職・乗願)を利用して側近として重用されるまでになります。西郷が斉彬に殉じて生涯久光とは相容れなかったのに反して、大久保は手の平を返すように旧敵にすり寄ります。ここには、武士の義も誇りのかけらもありません。
大久保正助が島津忠教と初めて会ったのが万延元年(1860年)3月、それからは勘定方小頭格、御小納戸役に抜擢され、藩政にも加わり、家格も格上げで一代新番となり、一蔵の名も賜り、薩摩藩を牛耳るまでに出世します。
久光を擁立して京都の政局に関わるのが文久2年(1862年)、ここで公家の岩倉具視らと公武合体路線で一致し、一橋慶喜の将軍後見職推進、福井藩主の松平慶永の政事総裁職就任に尽力、同時に主君・島津久光の幕政参加への画策を進めた。この功労で御小納戸頭取、さらに御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進し、慶応元年(1865年)には名も利通と改め、我が世の春を謳歌します。
一方の盟友・西郷吉之助はことあるごとに久光に反発して死罪ぎりぎりの島送りで命をつなぎます。
ぐのが精いっぱいです。
慶応2年(1866年)、幕府の第二次長州征討に薩摩藩として出兵を拒否、紆余曲折の末に大久保は武力討幕を決意。その実行役に必要な西郷を、久光に進言して復帰させて参謀役に抜擢、幕府解体後の雄藩始動による公武合体を論じる四侯会議を徳川慶喜(よしのぶ)に潰された直後から大久保利通は、薩摩藩を武力倒幕路線に切り替えます。
この考えは、坂本龍馬や島津久光などの公武合体論を裏切りますが、偽の密勅、偽の御旗を用いても天敵を倒すという強い信念は、義より実益を大切にする大久保利通の武士道から考えれば、何の不思議もありません。
さらに、討幕後の新政権で、征韓論の行き違いで政権闘争に敗れた盟友の西郷が下野して薩摩の士族の反乱が起ると、自らも京都に入って政府軍を指揮します。それでいて、幼時からの盟友の死を知ると慟哭してその死を悼みます。この瞬間、少年時代から西郷の下で使いっパシリだった長い屈辱から解放され、ライバルを倒した勝利も味わったかもしれません。大久保利通が命がけで西郷を救うべく立ち上った歴史的事実は未だにどこからも発見されていません。これだけの矛盾を抱えた大久保利通は、武士道からは全く外れた卑怯者としか移りません。
それでも、私の長期に渉る個人的な歴史探求の人間観察では大久保利通の怜悧な現実主義的生き方を、責める気はありません。紀尾井坂で暗殺された死後の清算で、個人資産は殆ど無に等しく、個人の借金は8、000円、その借金の殆どが新しい国家の資金不足の穴埋めだった事実こそ、大久保利通の新しい国家構想への必死の思いが伝わって来るからです。
一方の西郷隆盛は、戊辰戦争で江戸城の無抵抗開城を成功させた後、天敵の会津討伐を目指しますが、戦線が奥羽全体に広がり、多くの人を死なせたことを悔い、さらに職を失った薩摩武士の行く末を案じて、自分を慕う同胞と共に悠揚と死に着きます。敬天愛人、天を敬い人を愛して死んだ西郷隆盛は、人情の人とし歴史上の偉人となっていて、会津人の立場さえ忘れれば、尊敬に値します。
片や大久保利通は、武力討幕で日本中を戦争に巻き込んで多くの人を殺し、西南戦争をも止めきれずに薩摩武士と盟友を死なせて故郷の薩摩では裏切者扱いにされながらも、全財産どころか借金してまでも新しい日本国を支えた・・・これも人には真似のできない凄いことです。
西郷隆盛の偉大さは、常に人の心に思いを寄せて、一度こうと思ったことに対して全くぶれない点で、まさしく大物です。
大久保利通の偉大さは、常に理性で客観的に大局を見極めて情を棄て、試行錯誤を繰り返しながらも最善の道を選ぼうとした点です。
この西郷、大久保それぞれの生き様は、新渡戸稲造先生の武士道とは全く別種の、それぞれの立場をせいいっぱい生きた別次元での武士道として認めざるを得ないのです。


世良修藏にみる武士道

世良修藏にみる武士道

新渡戸稲造「武士道」の「第二章・武士道の淵源」を眺めていると、英国を偉大にした石の話から、日本の要(かなめ)の大きさ、武士道の偉大さに触れています。
その上で、クエーカー教徒の言葉を借りて、戦闘が残虐で過ちだらけだとしています。しかし、それでもなお武士道には、その過ちの中からでも、美徳が生まれることを私達は知っている」と言っています。さらに、卑怯で臆病な者とされたら、健全な人間にとっては最悪の侮蔑だというのです。

武士道もそれと同じですが、年を経るにしたがって人間関係も広くなって、その正しいと信じた道に対する信念はそれ自身の正当化につながり、さらに高次元の道理に合った判断を求めるようになります。もしも、我が国の武士道を重要視する武士達の集団が次元の高い道徳的な心得なしに進められたとしたら、その武士達は、あまりにも武士道とかけ離れたレベルの低いものになったであろうと推察できます。
諸外国、とくにヨーロッパではキリスト教が騎士道に都合よく拡大解釈されて騎士道精神に迎合されています。
外国には「宗教と戦争と名誉とは、キリスト教騎士の魂がある」という説がありますが、日本においても武士道にもいくつかの起源があります。
武士道の淵源とは、その源を探ることですが、その源に仏教と神道があります。
まず仏教から考えますと、仏教は、武士道に人の運命や死に対する穏やかな安らぎの信頼の感覚、運命で定められた不可避なものへの諦め、危機を目前にしたときの覚悟と平静さ、生への執着への侮蔑と親近感などをもたらします。
つぎに、禅による悟りがあります。
剣術の達人・柳生宗野は、弟子に対して剣技の極意を得たら、つぎは禅に学べ」と教えました。
禅は、言葉による表現の範囲をこえた深い思考の世界に到達できる人間の精神的支柱となります。
神の世界は、それらを包括した森羅万象の領域を含む悟りの世界で、その先に武士道なるものが崇高な姿で正座しています。

というような意味を新渡戸稲造博士は語っているようです。

以前、私は戊辰戦争と武士道についてリンクして考えた頃もありました。しかし、世良修藏の悪行を見る限り、長州には武士道なしとなりますが、長州には吉田松陰、桂小五郎などがいますから、世良修藏は全くの例外としてみなければなりません。それでもなお、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代わって新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となって奥州入りしたのですから、今更、漁師の倅で武士ではないとはいい訳にもなりません。
生まれたのは土方歳三と同じ天保6年(い835)、周防国大島郡椋野村の庄屋に生まれ、17歳で萩藩の藩校・明倫館に学びました。
その後、時習館に学び、さらに江戸で儒者・安井息軒に学び、塾長代理をつとめたぐらいの学はあるのです。
その後、浦靱負の私塾・克己堂の兵学講師として仕官して浦家の家臣(陪臣)になり、そこから出世街道を駆けのぼります。
下関戦争の敗戦を機に高杉晋作の奇兵隊に入り、やがて、浦家の家臣である世良家の名跡を継いで、世良修藏となります。
江戸幕府による第二次長州征伐では第二奇兵隊を率いて幕府軍相手に勝利を収め、停戦後は萩の海軍局へ転出します。慶応4年(1868年)1月、幕府方との鳥羽・伏見の戦いに際して前線を指揮して新政府軍の勝利に貢献しています。
そんな実績のある世良修藏が、列藩同盟が起草した太政官建白書にある「貪婪無厭、酒色ニ荒淫、醜聞聞クニ堪ザル事件、枚挙仕リ兼」とある武士にあるまじき行為が重なり、ついに暗殺されますが、これは自業自得で何ら同情に値しません。
ただ、冥界の世良修蔵にも武士(実際は準士分)としての言い分もあると思います。その言い分を翻訳すればこうなります。
「好きなように好きなことを思いっきり仕尽くした身に何の悔いがある、武士道など知ったことか!」
この言葉を新渡戸稲造さんが聞いたら、烈火の如く怒るのか、ただ冷笑して無視するのか興味あるところです。


武士道いろいろー2

 源頼朝と義経の武士道

平安時代末期から鎌倉時代初期の天下の覇者となった源頼朝の武将としての器量、これは、評価が分かれます。
頼朝ファンは政治家として立派だと説き、判官贔屓の義経ファンからみれば頼朝は疑い深い小心の悪玉です。
人は立場によって視点が変わり、感情もまた変わります。
私は今、いつ書きあがるとも断言できない戊辰戦争の底なしの泥沼にどっぷりと浸かっています。
北は北海道の函館戦争から西は、薩摩、長州と歩き回って、戊辰戦争に人は何を考えて動いたのかを調べました。
私は、戦いの歴史を書くつもりはありません。これは既に書き尽されています。
敗者の恨みつらみ、これも聞き飽きました。では、何を書きたいのか? 私は赤裸々な有るがままの人間を書きたいのです。
中国の古い歴史の中に出てくる「勝てば官軍」は、勝者が歴史を創る当然の権利であって、この真理は未来永劫変わりません。
この視点からみれば、奢れる平家を滅ぼした源頼朝が偉大で、それに逆らって逆麟に触れて淘汰された義経は、それが定めなのです。
ところで表題は武士道です。
武士道というモノサシで武将の純粋さを測るとしたら、これは誰がどう考えても義経に分があるのは当然のような気がします。
理由は、為政者は駆け引きにも長じ、政治的な観点から味方を欺くこともありますので武士道の純潔さからはほど遠くなります。
頼朝は源義朝の三男で、父の義朝が平治の乱で敗れると、母の乞いを受け入れた平清盛の命で伊豆国蛭ヶ小島へ流されます。伊豆で隠忍自重して力を蓄え、北条時政、北条義時などの坂東武士らを従えて平氏打倒の兵を挙げて戦い、一進一退の攻防の末、鎌倉を本拠として関東以東をを制圧し、義経ら弟達の力を借りて身内で平家打倒に功のあった木曽の源義仲をも倒し、平家一門を駆逐します。その上、誰よりも戦功の大きい末弟の源義経を追放の後、抹殺し、さらに平泉を攻めて奥州の雄・藤原氏を滅ぼして全国を平定して建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられて、少年時代から持ち続けた平家打倒と天下統一の夢を叶えました。
さて、天下人となった源頼朝と、それに滅ぼされた源義経、勝者は頼朝ですが、武士道を貫いたのは義経と私はみます。
これを戊辰戦争に当てはめると? それはこれからです。


武士道いろいろー1

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 佐藤義清、木村喜毅に見る武士道

奥州平泉の雄・藤原秀郷の子孫で鳥羽院に勤め、弓馬剣術に秀でた北面の武士(院御所の北面に詰め上皇の身辺警護をする)として知られた佐藤義清(のりきよ)が突然、武士を捨てた上に、泣き縋る幼い娘を蹴倒し家族のを振り切って法号「円位」と名乗って出家したのは23歳の男盛りでした。18歳ですでに左兵衛尉という役職にあった義清は、そのまま勤めれば高位の要職に就くのは間違いありません。それを捨てたのですから周囲は驚きます。
そのような出世の道ある武士の座を捨てるには、それなりの強い止むに止まれぬ動機があったはずです。
後に噂されたのは、義清が鳥羽天皇の愛妻で中宮の待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との秘められた悲恋です。所詮は添えない恋と承知していても、その煩悩の火は燃え盛るばかり、その炎を消すには神仏に頼るしかなかったのです。さらに同じ時期に親しい従弟の佐藤範康(のりやす)の急死も影響したのではないか、この二点が佐藤義清が出家した要因であるとされています。
義清こと「円位」は、西に極楽浄土ありと聞いて「西行」と名を改め、歌人としても知られるようになります。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる
面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて
なげけとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな
待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ
古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮
吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな
さて問題はこれからです。
確かに西行の歌は、恋の歌が多く、それが失恋の歌が多いとのことで上記のような言い伝えになったのかも知れません。
しかし、義清の出家の理由はそれだけではなさそうです。そこで、時代背景を考えてみました。
当時はまだ政務での表舞台では藤原一族が権勢を振るっていましたが、武力に勝る平家一族の不気味な圧力にじわじわと追い詰められて世相は不安定で海賊や山賊など野党が白昼から群れを成して荘園を襲うなど天を恐れぬ世の中で、その上、京の都に大家があり、東大寺僧と興福寺僧が武力衝突、筑前の僧徒らが大宰府を焼くなど僧兵の跋扈が目に余る状態で、平家だけが武力で海賊を退治したりで手柄を上げ、義清の先輩左兵衛尉の平家定が海賊の統領以下海賊を一網打尽にして従属させたのも歴史に記録され、藤原の衰退と平家の台頭、この時代の流れの急激な変化も義清の出家と何らかの関係があるのではないか? 私はそう考えました。
これは、私が今、戊辰戦争を書いていて、日本の海軍創設の功労者は、元海軍奉行の木村喜毅だと思うからです。それに勝海舟、榎本武揚、肥田浜五郎、小野友五郎、坂本龍馬などが絡みます・
その、木村喜毅が江戸城開城後、ふいと世を捨てたのです。これも妙な話です。
日本の歴史を通じて、木村喜毅ほど日本の海軍造りに本気で熱中した武士は他にはいません。
木村喜毅は、日本を外国の脅威から守るために自分が総監として育成した長崎海軍伝習所出身の訓練生に実戦並調練を課そうと、私財三千両(2億円以上)を投じて咸臨丸でアメリカに渡りました。その上でさらに海軍の重要性を知って、幕府に検索して、6万人の海軍に370隻の軍艦を造って沿岸の重要拠点に配置させようとします。それが、勝海舟の「五百年かかる」との意見などで呆気なく却下され、自分も重要ポストを罷免されて失意のまま自邸に籠もります。その後、江戸城無血開城時には勘定奉行として復職し、徳川幕府の財産管理に携わり、その後、歴史の表舞台から姿を消しますが、その出処進退に、西行の決意と同じ翳りを感じます。
国のため私財を投げうって国防を考えた心意気が誰にも認められなかった口惜しさと虚しさは、西行と同じく出家したいような心境だったはずです。その証拠に、芝新銭座の自邸からの隠遁に府中の寺を選んでいます。佐藤義清と木村喜毅、これはこれで見事な武士道での進退と私は考えます。


武士道とは死ぬことと見つけたりー2

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新春第二弾は、前回に次いで「葉隠(はがくれ)」です。

「武士道とは死ぬ事と見つけたり」

ここまでは、誰でも知っている名文句で一世を風靡しましたから、作者の山本常朝の得意満面な表情が目に浮かびます。
そして、この名文句だけが独り歩きして、戦時中は軍部に都合よく利用されました。

なにしろ「葉隠」を持ち出して武士道の精神は「死を恐れない」としてカミカゼ特攻隊を出撃させ、太平洋の島々での玉砕や沖縄での自決などに利用されましたし、今でもブラック企業ではこの一言で、特攻精神で仕事をさせています。
私は武士道とは無縁の者ですが、それでもこの言葉は大好きで「人生とは、死ぬことと見つけたり」で、いつも死を意識しています。

私のこの言葉の利用法は、毎晩、眠る時に「これから死ぬ・・・さよなら」と眠りにつくのですが、朝起きればしっかりと枕元に手帳があって夢日記を付けていたり、その日の予定を考えているのですから、当然ながら本当に死ぬ気は全くないのです。

それにしても、「葉隠」を書いた当の山本常朝本人が、「我も人なり、生くる事が好きなり」と正直に述べているのですから、この書の全く一部だけを取り上げて、死を美化したり玉砕や自決を推奨するのも変なものです。

この「葉隠れ武士道」は、人付き合いの方法やマナーなどにも触れていて、いわば武士社会を生き抜くためのマニュアル本で、佐賀鍋島藩という狭い地方での武士の生活に根差した処世術の書ともいえます。

これが、太平洋戦争中は、圧倒的に支持されて普及し、太平洋戦後も「葉隠入門」を書いた戦中派作家の三島由紀夫のような狂信的な「葉隠れ支持者」を排出することになりました。
本来、葉隠れとは、葉の裏に隠れて表には出ない、という意味もあって、佐賀武士の山本常朝が、思いつくままに話したのをまとめた書物ですから、どうしても論理的に系統だって解説すると矛盾だらけになってしまいます。

この「武士道」のコーナーの新春版に「葉隠聞書」を持ち出した真意は、この本が駄作であろうとなんであろうと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という端的で分かり易い一文が、武士道だけでなく人生そのものに当てはまるからです。

私の一番の座右の書は「山河微咲」(いずれ書きます)ですが、前回のこのコーナーで「武士道とは死ぬことと見たり」も座右の銘に加えたいと言いました。私はこのフレーズがすきだからです。しかし、その字句の一部を訂正させて頂きます。

「人生とは、死ぬことと見つけたり」
81歳の誕生日を迎えたいま、もうそろそろという気分になりつつある自分をよしとする今日この頃です。


武士道とは死ぬ事と見つけたり

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 明けましてお目出とうございます。
本年も引き続き宜しくお付き合いください。

武士の本分を一言で表すのに次のような言葉があります。

「武士道とは死ぬ事と見つけたり」

これは、江戸時代中期の佐賀鍋島藩士・山本常朝が、藩士を相手に7年の歳月をかけて述べた武士としての心得「葉隠(はがくれ)」1寛を、同僚が十一巻にまとめたものの一節です。
この書では「朝毎に懈怠(けたい)なく死して置くべし)」ともあり、常に死ぬ覚悟で正しい決断をせよと説きます。

文中では、鍋島藩の藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として示します。
山本常朝は、当時の佐賀藩の主流である山鹿素行の提唱する儒学的武士道を「上方風の見栄張り武士道」として批判し、山鹿の説く日常の忠ではなく、実際の行動の中で「無我夢中の死にもの狂い」にこそ忠義が含まれている、と述べます。

赤穂事件では主君・浅野長矩(ながのり)の切腹後、すぐ仇討ちに出なかったことと、吉良義央を討って仇をとったにも拘らず、すぐに切腹せずにずるずる処分を待ったことをも非難している。理由は、すぐに敵討の行動を起こさなければ仇の吉良義央が病死することも考えられるし、仇を討った直後に腹を切らないと生に未練が残る場合もあるからだ、とします。

この考え方は、佐賀藩の主流の武士道とは大きく違っていたので、藩内では禁書とされましたが、上から徐々に認められ、やがて藩士に対する教育の書となり、鍋島論語と呼ばれて普及しました。しかし、批判も多く、佐賀藩の朱子学者の古賀穀堂は、佐賀藩士が「葉隠」一冊でことなれるとして学問に不熱心なのを嘆き、佐賀藩出身の大隈重信も「葉隠」は古い考え方だと批判しています。

「葉隠」は巻頭に、この書は読み終えたら火中に棄てるべしすべしと述べていることで、長い間、密書とされました。
7年の歳月をかけて語った座談の結論がたった一行の「武士道とは死ぬことと見つけたり」、凄い説得力です。

私も、これを座右の銘にして生き様にしたいと思います。


第十七章 武士道の将来

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新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、復刻版・本体5千円。
お問い合わせ。ご注文は”えむ出版企画”<mbook@cl.cilas.net>、へ。

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 第十七章 武士道の将来

 武士道は、武士と呼ばれた特殊階級によって形成され、その階級に属した人々の消滅と共に衰退しますが、その心は日本人全体に引き継がれて細々と現代にも生き残っています。明治維新と称する内乱では、武士道に反する武士の行為もままありますが、武士道に殉じて散っていった戦士も少なくありません。また、武士階級が姿を消して武士道がとうに廃れた現代でも、ごく稀には、武士道の精神に近い状態で暮している意志堅固で道徳心に富んだ人を見ることがあります。それらは、武術家、宗教家、人々に迷惑をかけない一部の右翼、体育科系人々の中などに連綿として、武士道は形を変えて生き残っています。
新渡戸稲造は、明治の近代国家を築いた武士が、武具を手放すと同時に武士道も捨てたのではないかと危惧する反面、武士道が残してきた素晴らしい徳は、決して消え去ることもなく、不死鳥のごとく甦り、武士道は、散った桜の花が風に運ばれ、その香りが人々の心を潤し癒すように永遠に生き残るであろうと記述します。不肖私(花見)も若き日に一流の弓術家(挫折しましたが)を目指して修行した日々を思い起こすと、その言葉に納得するばかり、武士道は明らかに生きています。
 


第十五章 武士道の感化

武士道 本

新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、復刻版・本体5千円。
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 武士道を考えるー19

 第十五章 武士道の感化

 武士道は、我が国の士農工商全ての人々の理想の姿として良き影響を与えたました。
桜のように満開で美しく散り際のいさぎ良さを「花は桜木、人は武士」と、桜と武士は対で歌われています。江戸時代の武士階級は、商業に従事することは禁じられていましたから、表だって商売を仕事にすることは出来ませんでしたが、商人も農民も間接的には武士道によって感化され、道徳的な生き方を日常生活に活かすようになっていたのです。
先週、書かなければいけなかった「武士道の命脈」に触れますと、そもそもの武士道らしき思想の起源は、奈良時代から平安時代にかけての各地方に蜂起した荘園軍団の中で兵士の規律を守るために出来た律令が源泉ではないかとする説や、桓武(かんむ)天皇の御代あたりの大宝令による兵制にも影響されているとの説もあります。
その後、武人の変遷に伴い、秩序や風紀の乱れを防ぎ、地方政治の政務官の綱紀を糺して社会秩序を形成守るべく現れたのが、規律を守る新たなタイプの武人です。この「武人」が、源氏と平氏による二大勢力で、当時の地位はせいぜい地方の役人に過ぎず、家柄や門閥を重んじてはいたが、その官位は低く、京都の貴族よりも遥かに低い官位に甘んじながら、さらに一層の武力を養い、富を積み、民衆のために尽くすことに努めたことによって、遂に武士が地方勢力の中心となって、貴族社会の従属から自立しますが、これも武士道への道筋に繋がっています。
このようにして台頭した平家が、京都に出入して優雅で文化的雰囲気の貴族並の暮らしに幻惑されて武士の本分を忘れて堕落し、一方の源氏は野に入って修養し、地方の疎野なる文化裡で鍛錬されて、戦う武士の本領を磨いて、奢れる平家を倒して武士の世を創ったのです。そのための戦士を育成するための最低限の規律、これらも武士道への下敷きになっているのは間違いありません。
このようにして平家を倒して、武人として天下をとった源氏一族は、貴族の柔弱で華美な生活を嫌い、純粋で武骨な武士的素質への精神面の強化と社会的地位の向上を目指して、疎野から洗練された武士への変革が可能となり、ここからも武士道への道が見えています。
源平時代を経て、戦乱に明け暮れた戦国時代から、平和で争いのない江戸時代へ移行するにつれ、武士の精神的支柱を守るために自然発生的に練られて熟成された規律が「武士道」、私(花見)はこう考えています。

 (注)先週、16章を15勝として間違えていました。今回、訂正して内容を捕捉しました。

 


第十六章 武士道の命脈

武士道1

新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、復刻版・本体5千円。
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武士道を考えるー18

 第十六章 武士道の命脈

 武士は士農工商の中で一般庶民を超えた高い位置に置かれていました。かつて、世界のどの国でもそうであったように、日本も厳然とした階級制度によってはっきりした身分社会が存在していて、武士は最上位に位置づけられていたのです。
江戸時代の日本全体の総人口における武士の割合は、そうて多くはありませんが武士階級が生み出した武士道という意味を持つ道徳心は、その他の農工商に属する人々にも大きな影響を与えています。
新渡戸稲造は、源義経とその忠実な部下であった武蔵坊弁慶の物語を例に出して、身分の差なく子供たちは忠節の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の敵討物語に感動し、さらに、戦国時代に活躍した織田信長や豊臣秀吉や、幼い子供でも夢中になる桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話など、誰もが夢中で聞いた大衆向けの娯楽や教育に登場する人物の多くは武士であることを強調しています。
武士は自ら道徳の規範を定めると同時に、自らがそれを守って模範を示すことで多くの人々を道徳的に導いたとも言えます。
武士道の思想は、「花は桜木、人は武士」であらわされるように別のい方では「大和魂」そのものです。
日本民族全てが持っている固有の美的感覚によると、「桜」こそ「大和魂」の象徴のようにも映ります。桜の花は、日本人が昔から好んだ花で、これからも変わることはないでしょう。西洋人はバラを愛し、日本人は桜が好き・・・これは本能かもしれません。
バラは美しさと甘美さの裏にトゲを隠していて、散ることなく茎についたまま枯れ果ててゆきます。この、死を恐れるかのように生に執着する姿は、どうも日本人にはすっきりしない印象を持たれるようです。
その点、桜の花の散り際の美しさ、ほのかな香り、淡い色合いなど、桜が育った風土に武士道が育まれたのも無理のないことなのです。と、新渡戸稲造先生は述べています。


第十四章 武士道における婦人の理想像 

武士道1

新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、復刻版・本体5千円。
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 武士道を考えるー17

 第十四章 武士道における婦人の理想像

 武士道は男のための道ですが、その武士が求めた女性の理想像とは、家庭的であると同時に、男と同様に勇敢で、決して敵対する相手には負けない勇敢さを秘めたものであらねばなりませんでした。
とくに、武家の若い娘は感情を抑制し、神経を鍛え上げ、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積まねばならなりません。
武家の少女達は成年に達すると「懐剣」を与えられます。その懐剣は、自分達を襲う者を突き刺すか、あるいは自分自身を突き刺すか、どちらにも使えるように教育されました。
そして、それを用いた場合の多くの例では、その、懐剣は後者のため、即ち自刃のために用いられるケースが殆どです。
昔は、女性といえども自害の方法を知らないことは恥とされていました。死の苦しみがどんなに耐え難く苦痛に満ちたものであっても、死後の姿に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことなども教育されます。
男性が忠と義を大切に主君と国のために尽忠報告の精神で身を捨てる覚悟であると同様に、女性は自分を犠牲にしても夫や家、家族のために尽すことが名誉であり美徳とされています。
武士階級の女性の地位が低かったわけではありません。女性が男性に隷属していなかったことは、男性が封建的な君主の奴隷ではなかったことと同様で、家庭においては、封建時代の女性の地位は男性に比してさほど低くはなかったのです。ただし、社会的立場になると、例外を除いて、女性は戦場や政治などに参加しませんので、存在が薄くなるのは仕方ありません。そのように、社会手には重んじられない女性が、妻として母としての家庭での存在になると、立場が一変して多くの場合、夫は妻に頭があがらなかったのです。その上、夫が出陣して家を留守にする時は、女性が家の中の全てを仕切り、いざ戦いの時は家の防備も女性が立派に取り仕切る・・・これが女性の理想像だったのです。