坂本龍馬にみる武士道-3

坂本龍馬にみる武士道-3

花見 正樹

29歳の龍馬は、下関戦争の結果や幕府の卑屈な態度に「日本を今一度洗濯いたしたく」と怒りを露わにしています。
その後一時期、薩摩と会津が手を組んで、長州の倒幕勢力を倒すという政変があり、京都は幕府側が支配しました。
土佐藩も政変があり、土佐勤皇党は弾圧され、武市半平太も切腹させられます。
龍馬は再度の脱藩と、海舟のお供で長崎出張に同行して難を逃れています。
龍馬は、薩摩藩の定宿である京都伏見の船宿・寺田屋の女将お登勢と親しい間柄でした。
ある日、楢崎龍という女を連れ込んで「ここで働かせてくれ」とお登勢に頼みこみます。
侠気のあるお登勢は、二つ返事でそれを引き受け、龍馬の新たな恋人・お龍は寺田屋の女中として働くことになります。

勝海舟が軍艦奉行に昇進、龍馬も神戸海軍操練所で助手として働きますが、京都では新選組が寺田屋にて、京都に火を放つ計画で集結した勤皇攘夷派の過激分子を襲撃して激しい斬り合いでせん滅、京都の情勢は大きく変っていました。
さらに、禁門の変で長州藩は破れ、責任者の三家老が切腹して幕府軍に降伏します。
この禁門の変に海舟の門下生が参加したことで幕閣の不興を買い、海舟は江戸召還および軍艦奉行を罷免されます。
これによって神戸海軍操練所も廃止となりました。
31歳の龍馬は、薩摩藩の出費で「亀山社中」という航海術を活かした商業活動的な組織をつくります。
と、同時に、水と油の如く相容れない仲だった薩摩と長州両藩の和解を進めて薩長同盟の成立に貢献します。
龍馬32歳の慶応2年1月8日、桂小五郎と西郷隆盛の薩長両雄の歴史的会談が開かれました。
話し合いは難航しますが、龍馬の努力で薩長両藩は薩長同盟と呼ばれる盟約を結び、龍馬が盟約履行の保証人になります。
盟約成立直後、龍馬は投宿していた伏見寺田屋で龍馬は護衛の長府藩士・三吉慎蔵と共に、伏見奉行所の取り手に襲われ、入浴していたお龍の機転に救われて応戦、ケガをしながらも脱出します。
ただ、ここで役人の取調べに応じず京都奉行所の捕吏二人を殺害した罪により指名手配を受る身となります。
歴史に「もしも」はありませんが、龍馬がこの寺田屋で逮捕されていたら、親分の勝麟太郎改め海舟もが体を張って龍馬に救いの手を差し伸べたかどうか?
龍馬を通して勝海舟の武士道精神が試された一幕でもありました。
ここでの龍馬は、好いた女に助けられたとはいえ立派に戦っています。
敵に背中を見せて逃げたのも多勢に無勢、犬死が武士道ではありません。
女好きの龍馬が女によって救われた・・・これは武士道からみてどうか?
これを責めるのは、モテない男の嫉妬心、ここは目をつぶってそ知らぬふり、これは武士道に叶っています。

 

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 坂本龍馬にみる武士道-2

坂本龍馬にみる武士道-2

江戸では武市半平太らと築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿、桶町千葉道場での剣術修行に入ります。
24歳で「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられますが免状は剣術ではなく、佐那の得意なナギナタです。
従兄弟の武市半平太が江戸で土佐勤皇党を結成、国元の龍馬もこれに参加、藩の政策を尊王攘夷に向けて暴走します。
しかし、参政吉田東洋の公武合体論が藩の主流であり、勤王党は藩内の支持を得られず、龍馬は脱藩します。
28歳の龍馬は長州下関から九州に向かい、各地の動向を探りつつ、また江戸に向かい、小千葉道場に寄宿します。
龍馬は請われて千葉佐那と婚約しますが、実行はしませんでした。
女性にモテると同時に、女性にだらしない龍馬の面目躍如たるエピソードです。
本気で龍馬と結婚する気の佐那は、これで他の人と婚姻することもなく龍馬に操を立て、終生独身で過ごします。

龍馬は江戸にいる間に、幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽、幕府軍艦奉行並・勝海舟に会っています。
龍馬は、開国論者の勝海舟に世界情勢と海軍の必要性を説かれた心服して攘夷論を捨て、海舟に弟子入りします。
ここで、良案に触れれば自説に固執しない龍馬の心の柔軟性が読みとれます。
海舟のとりなしで土佐藩主・山内容堂によって龍馬の脱藩罪は赦されます。
龍馬は海舟のに弟子入りして師のために奔走し、土佐藩出身の仲間を海舟の海軍操練所に集めます。
龍馬は土佐勤皇党で仲間だった平井収二郎の妹加尾と恋仲になり、姉の乙女にも手紙で加尾について触れています。
これでは、千葉佐那という婚約者?があまりにも哀れです。
まさか、龍馬は長刀免許欲しさに佐那に取り入っただけ・・・そんな卑怯な男とは思えません。
だとすると、龍馬はその時その時、本気で女性に惚れてしまうタイプだったのかも知れません。
所詮は町人郷士、男女関係についてはその程度の男だったのかも知れません。
これはもう、武士道以前のモラルの問題です。


坂本龍馬にみる武士道-1

坂本龍馬にみる武士道-1

花見 正樹

この同じ歴史の館で「坂本龍馬」コーナーを担当する友人の小美濃清明講師は間違いなく龍馬研究の第一人者です。
ここで私が坂本龍馬について書くのは少々気がひけますが、これも成り行き、遠慮しても仕方ありません。。
私も「小説・坂本龍馬異聞」を上梓しているのですから坂本龍馬に興味があるのは確かです。
私は若い頃、「龍馬とおりょう」という短編小説を雑誌に載せたことがあります。
後年、坂本龍馬本家のご子孫にお聞きした「お龍認めず」の私見には驚きました。
私の「坂本龍馬異聞」でも、お龍の末路は悲惨でただただ哀れですが、死してまだ評価されないのです。
ところで、私の龍馬評が他の人と違うのは、龍馬は幕府方にも好意的だった、からです。
龍馬は幕府は不要としましたが、あの時すでに幕閣内でも幕府を解体しての公武合体論が出ていました。
したがって、武力討幕をしなくても島津も毛利も鍋島も岩倉も参政できたのです。
ただ、その場合、大久保一蔵、西郷吉之助などの下士が参政できた保証は何もありません。
やはり、彼らにとっては武力クーデターが必要だった。
それには一番の障害が、公武合体政治の頭領に「徳川慶喜もあり」とした坂本龍馬だったのです。
したがって、坂本龍馬暗殺は、武力討幕側の邪魔者排除工作とみることも出来ます。
だとすると、龍馬が考えていた案は、日本の将来には役立っても、西郷、大久保の名コンビには嫌われたことになります。

龍馬は裕福な土佐藩郷士・坂本家の次男として生まれ、兄と3人の姉がいました。
幼少時は、軟弱、甘えっ子で塾もいじめられて退塾、姉の乙女に文武両道を仕込まれます。
12歳で母が死去、父の後妻に養育されます。
13歳の頃、後妻の前夫の実家に出入して外国の品や知識に触れ海外雄飛の夢を持ちます。
14歳で日根野道場に入門して剣術を熱心に稽古して学び、19歳で小栗流和兵法事目録を得ます。
この頃の龍馬は、前向きで積極的な性格に変っています。
19歳の龍馬は剣術修行のため江戸に自費遊学を許され、北辰一刀流千葉道場、千葉定吉に入門します。
ここで、貞吉の娘・千葉佐那と知り合い恋に落ちます。
姉の乙女にべったりだった龍馬は女性との接触に慣れていて、佐那とはすぐ馴染んだものと推測できます。龍馬の江戸修行中にアメリカのペリー率いる黒船艦隊が浦賀沖に来航、龍馬も品川の土佐藩下屋敷警備を命じられます。
20歳の龍馬は「異国人の首を打ち取る」との手紙を乙女姉に書き送っています。
龍馬は剣術修行と併せて佐久間象山塾に入学して、砲術、漢学、蘭学も学びます。
土佐に帰国した龍馬は日根野道場の師範代を務め、国際情勢や海運、オランダ語も学びます。
子供の頃は泣き虫だった龍馬も徐々に逞しくなり、男らしく武士らしくなりつつありました。
21歳の時に父が他界、兄が家督を継いだのを機に、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して許されます。
いよいよ独り立ちしての武者修行の旅が始ります。

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織田信長にみる武士道-5


織田信長にみる武士道-5

花見 正樹

天正3年(1575)4月、武田勝頼は2万の軍勢で徳川に寝返った奥平貞昌の長篠城を攻めます。
しかし、武田軍が長篠城を攻略出来ずにいる間に信長が3万、徳川軍が8千の兵で合流し、反撃します。
5月21日、設楽原(しだらがはら)に防御柵を巡らせた3万8千の織田・徳川連合軍と、2万の武田騎馬軍団の戦いが始まります。これが世にいう長篠の戦いで、1千丁以上の火縄銃での織田・徳川連合軍の圧勝でした。
これを機に甲斐の武田家は滅亡に向かいます。
7月、正親町天皇から信長に官位が与えられますが信長がこれを固辞し、家臣への授与を願い出ます。
天皇が信長の申し出を認め、明智光秀、丹羽長秀ら10人ほどに官位と高位の姓が与えられました。

8月、長篠の戦いに勝った勢いで信長軍は越前に侵入し、内部分裂していた越後の国の大名や一揆衆を掃討します。
越前国を一度は織田領とした上で、越前八郡の全てを重臣の柴田勝家に与えました。
天正3年(1575)秋、信長は権大納言、さらに、右近衛大将という征夷大将軍に匹敵する官職に叙任します。
信長はこの就任にあたって公卿を動員し、御所内にて将軍就任式の儀礼を執り行います。
これ以後、信長は人々から「上様」と呼ばれることになります。
当時、将軍・足利義昭が未だに近衛中将でいたから、近衛大将の信長は、将軍より上位ということになります。
これを機に信長は、嫡男の信忠に織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲ります。
ただし、織田政権の政治・全軍を総括する立場にあるのは、あくまでも信長です。

天正4年(1576)1月、琵琶湖湖岸(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に安土城の築城を開始します。
安土城は天正7年(1579)に完成しますが、その姿は五層七重の豪華な城でした。
信長は安土城に移り住み、ここを拠点にして天下統一を目ざします。
4月、本願寺の反乱があり明智光秀を大将とした3万の大軍が出動、数か所に分散して敵に備え砦を築きます。
ところが伏兵の襲撃で織田軍は千人以上の戦死者を出す大敗を喫し、7千人が天王寺砦に立て籠もります。
本願寺軍は1万5千の兵でこれを包囲して攻勢を強め、織田軍は窮地に陥ります。
これを知った信長は、自らが3千の兵を率いて、天王寺砦を包囲する敵の大軍に襲いかかります。
白刃を振るう信長自身も負傷するという激しい戦闘になりますが、織田軍は信長の出陣で士気が高まり圧勝します。
信長は、戦いの最前線に立って雑兵とも斬り合いました。その姿は、まさに鬼神と人は言います。

天正6年(1578)4月、信長は突然、右大臣・右近衛大将の官職を辞します。
7月、毛利軍が上月城を攻略します。
11月、信長は、水軍の将・九鬼嘉隆の推奨する鉄甲船を採用し、これで毛利水軍を撃破し完勝します。
天正7年(1579)5月15日、信長は明智光秀に3日間、安土城を訪れた徳川家康の接待役を命じます。
その最中に、備中高松城攻めの羽柴秀吉より援軍の依頼があり、信長は直ちに光秀に援軍を命じます。
光秀の接待に不満をもった信長が、光秀の役を解いたのか、秀吉の危機を救いたかったのか真相は分かりません。

5月29日、信長も中国遠征の準備のためもあって上洛して本能寺に逗留します。
6月2日、本能寺の信長を、秀吉への援軍に行くはずの明智光秀の大軍が襲撃、信長は戦った末に自刃します。
火を放たれた本能寺は織田軍の武器弾薬庫でもあったことから信長の死体は爆砕されて消失しました。
享年満48歳、人生50年と謡い天下統一を目前にしての無念な死であったことと思われます。
信長は、將としては天下統一を目指し、一人の武士としても自分の信念を貫き通しました。


織田信長にみる武士道-4

織田信長にみる武士道-4

花見 正樹

元亀3年(1572)10月、信長が足利義昭に送った17条の詰問文により、二人の関係の悪化は決定的になります。
武田軍が徳川領に侵入、信長も3千の援軍を送るが、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗します。
三河攻めの武田信玄が4月12日に病死、武田軍は甲斐に戻りますが、信玄の死は暫く伏せられていました。
信玄の死を知った信長は、再び二条御所に立て籠もって抵抗する足利義昭を破って追放、これで室町幕府は消滅します。
天正元年(1573)、三好三人衆の残党後、3万人の軍勢で越前に侵攻し朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃します。
信長は小谷城を攻略、浅井久政・長政父子を自害に追い込み、長政に嫁いでいた妹・お市とその娘らを引き取ります。
天正2年(1574)3月、信長は従三位参議に叙任されるために上洛します。
このとき信長は、正親町天皇に対して「香木の切り取り」を要請、天皇に勅命を出させれ了承させています。
天正3年(1575)3月、信長は石山本願寺に10万の大軍で押し寄せ、その周辺を焼き討ちにし皆殺しを図ります。
「なかぬなら 殺してしまへ ホトトギス」という歌は、詠み人知らずですが信長の性格をよく表しています。
こんな話もあります。美濃の山中に足の悪い男が街道沿いで物乞いをしているのを何度か目にした信長は、これを憐れみ、上洛の途上に近隣の村人を集め「この者に小屋を与え、飢えないようにせよ」と応分の金品を与えて要請したので、人々はみな感涙したといいます。

ポルトガルの宣教師フロイスは、信長の人となりをよく観察しています。
「信長は名誉心に富み、正義感が強く厳格であったが人情味と慈愛を示すこともあった。何事に貪欲でなく決断力に富み、老練でせっかち、激昂はするが、平素は温厚だった。酒を飲まず食を節し、きわめて率直で尊大であった。
彼は忍耐強く理性と明晰な判断力を有し、神仏や迷信的慣習を嫌った。
霊魂、来世などはないとした。彼はきわめて清潔で丹念で、対談でも遷延や長い前置きを嫌い、身分の卑賎な家来とも親しく話した。彼が格別愛好したのは茶の湯の器、囲碁、良馬、刀剣、鷹狩り、相撲だった。とくに相撲が好きで、身分の上下なく褌一つの裸体での相撲で、百姓でも強い者は家来に取り立てることもあった。彼がきわめて優秀な人物であり、非凡で賢明な統治者であったのは間違いない」
このように述べていますので、これだと、礼節を守り武技を磨く「武士道」の範疇(はんちゅう)から外れていません。
信長は、竹を割ったようなすっきりした面と、執念深く陰湿な性格と二面性があったような気がします。


織田信長にみる武士道-3

織田信長にみる武士道-3

花見 正樹

この戦いの後、今川を離れた三河の松平元康は名も徳川家康と変えて独立します。
これからの信長は、家康と手を結んで「清州同盟」とし、今川に敵対します。
この軍事同盟によって、信長は美濃国攻略に専念し、家康も駿河の今川家に抵抗氏真らに対抗することが出来ました。
永禄4年(1561、信長は美濃を攻めて大勝利します。
永禄7年(1564)には、北近江の浅井長政と同盟を結び、信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせています。
永禄8年(1565)、三好一族と松永久秀が将軍・足利義輝を暗殺、第14代将軍に輝の従弟の足利義栄を擁立します。
永禄11年(1568)秋、信長は大義名分として将軍家に足利義昭を奉って、強大な武力を背景に上洛を開始します。
信長は、足利義昭を第15代将軍に擁立、義昭から勧められた副将軍も断り、恩賞も望まずに尾張へ戻ります。
永禄12年(1569)1月、信長が尾張に戻った隙を狙った三好軍や美濃の斎藤軍が共謀して足利義昭の御所を襲います。
それを待っていたかのように信長は動き、明智光秀軍を義昭の御所に出向させて反乱軍を一掃します。
元亀元年(1570)、信長の上洛命令を無視した朝倉義景を攻め、徳川家康も浅井・朝倉連合軍を撃破します。
信長は、浅井父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を漆でかためて金箔を張った薄濃(はくだみ)にして酒宴に披露しています。
これは、戦った敵の勇気や覇気に敬意を表し酒に溶かして飲み込む、という中国の故事に倣ったものと言われます。
幕末においても薩摩藩などにおいては、討ち取った敵方の勇者豪傑の生肝を食する風習が残っていますが、これも同様の意味です。
元亀2年(1571)、信長は朝倉・浅井に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにして僧兵、浪人らの皆殺しを謀ります。
これを「禍根を後に遺さず」と勝利への正道とみるか、残虐非道の鬼畜の行状とみるかは、説の別れるところです。
この件に限らず、諸將が生き残りを賭けた殺し合いに明け暮れた戦国時代の武士道は、勝利への執念に満ち満ちて、勝ち抜き抜くことが武将の一義であって、江戸徳川幕府時代にみる太平の世の礼節を尊んだ武士道とは全く異なっていたのも止むを得ないことです。


織田信長にみる武士道-2

織田信長にみる武士道-2

花見 正樹

天文20年(1551)、信長の父・信秀が42歳で病死します。
信長が父の葬儀で焼香に立ち会ったときの服装と態度が記録に残っています。
髪を束ねただけのちゃせん髷で、袴なしの着流しに長柄の太刀と脇差を藁縄で腰にくくりつけた姿で信長は現われます。
香をわしづかみにして仏前に投げつけ、一瞥してその場を去ったとあり、誰もが眉をひそめたとあります。
この「大うつけ」ぶりで信長は周囲の敵を欺き続けて力をつけ、徐々に本当の姿を表してゆきます。
ただし、このだらしのない無秩序な性格もまた、信長の本当の姿であるのは間違いありません。
信長が家督を継ぐと、戦う集団として家臣の結束が固くなり、次々に周辺を従属させていきます。
それまでの尾張は織田一族が枝分かれしていましたが、信長が智勇と武力でたちまち統一して国主となります。

永禄3年(1560)5月、駿河の大名・今川義元が4万を超える大軍で上洛の途中、尾張を通ります。
それに抵抗する織田軍の総兵力は5千弱、とても今川軍を阻止できません。
当時人質だった三河国の松平元康(後の徳川家康)軍が先鋒となり、織田軍の城や砦を次々に殲滅させます。
しかし、信長は臆することなく今川の大軍に立ち向かいます。
敵の油断を突いて桶狭間において今川義元を襲い、白兵戦の末にこの強敵を倒しました。
記録では5月19日の正午過ぎ、家来の前で敦盛を舞った信長は、立ったまま湯漬けをかけて食べて出陣します。
熱田神宮に昆布と勝ち栗を備えて参拝した後、2千人の軍勢で、休憩中の今川陣中に強襲をかけます。
この桶狭間の戦いを、世間では奇跡の勝利といいますが、兵力ではるかに劣る織田軍であっても、総大将の信長が先陣を切って敵陣に飛び込み、刀を振るって今川の兵を斬りまくった鬼神のごとき働きが少数の部下を鼓舞して勝利に結びついたのです。
日頃から尾張の内戦で戦いに明け暮れた戦闘集団を率いる信長と、大軍に守られて貴族風に奢った今川義元の差が、明暗を分けたのも自然の理です。
この桶狭間の戦いで前の国主・今川義元を失った今川氏真は、全軍に銘じて本国の駿河に退却して戦いは終わります。
織田信長は、全軍に命じて、戦い破れて帰国の途につく今川軍の追討を止めさせて、静かに見守ります。
冷酷非道に見える信長にも、武士の情けはあったのです。


 織田信長にみる武士道-1


織田信長にみる武士道-1

花見 正樹

天文3年(1534)5月12日、信長(幼名・吉法師)は、尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男として生まれました。
父・信秀は織田達勝傘下の3奉行の1人で豪肝勇猛、主家をも凌駕する勢いの城持ち奉行です。
信秀自分の住む城の他に、2歳の幼い吉法師のために那古野城をつくり、養育係に二人の家老を付けます。
信長の才能を見抜いた一番家老の林通勝は、幼い吉法師に英才教育を課し、武芸と学問をみっちり仕込みました。
信長の少年時代は、武芸、馬術、水泳、弓、鉄砲、鷹狩りと、めいっぱいの英才教育です。
信長は、13歳で元服して吉法師から三郎信長と名乗ります。
天文15年(1546)、14歳の吉法師は初陣を果たしました。隣国に侵入して火を放って民家を焼いただけとの説もあります。
天文16年の秋、父の織田信秀は美濃に侵入したところ、マムシの名がある斎藤道三に逆襲されて負け戦になりました。斎藤道三といえば主人を裏切って殺し、さらに美濃の国主・土岐氏をも謀殺してのし上がってきた海千山千の戦国大名です。
このマムシの道三を恐れた織田家家老が、道三の息女・濃姫と信長の政略結婚をまとめようと考えました。
天文18年(1549)春、美濃の国主・斉藤道三から信長に、国境に近い正徳寺での対面の申し出があります。道三は、織田信秀亡き後は、うつけ(バカ)者との評高き後継者の信長を殺せば尾張は手に入る、と考えたのです。
信長がうつけ者であるとの情報は、道三も聞いてはいましたが、自分の目でその程度を確かめたかったのです。
当日、道三は家来数人と早めに行き、村はずれのあばら家に潜んで信長一行の通過を眺めました。馬上の信長は食べ物を口に入れながら大声で家来と語らい、服装もまた思った以上に粗雑でした。噂通りのちゃんせん髷で半袴、腰に火打ち袋やひょうたんをぶら下げ、まるで山遊びにでも出かけるような態度です。
道三は家臣に、「噂以上のうつけじゃな」と、信長のうつけ振りに呆れたそうです。ところが、道三が何食わぬ顔で後から正徳寺に着くと、そこには、いつ着替えたのか正装の信長が待っていました。信長は髪もきちんと折り曲げて結び、柿色の長袴の腰に小刀を差し、堂々たる大名姿でした。
正式の挨拶があって盃を汲み交わし、二人の初対面は終わりますが、道三は家臣に語ります。
「以後、信長をうつけ者と呼ぶことは許さぬ。無念ではあるが、いずれ美濃はあの者に屈するであろう」
戦いでは容赦なく残虐な行為もした信長ですが、若い時から武士の心得として「礼節の心」は大切にしたようです。


源頼朝にみる武士道

源頼朝にみる武士道

花見 正樹

源頼朝(みなもとのよりとも)は、久安3年4月8日(1147)に、清和天皇の流れを汲む河内源氏の頭領・源義朝(よしとも)の三男として生まれます。幼名・鬼武丸から鬼武者、頼朝と名は変わりますが、通称は三郎です。
父・義朝は清和天皇を祖とし、河内源氏の流れを汲む武士です。保元元年(1156)の保元の乱では、平清盛らと共に後白河天皇に従って戦って勝利しますが、平治元年(1159)の平治の乱では、後白河上皇の近臣であった藤原信頼の反乱軍に加わって、三条殿焼き討ちを決行しますが、官軍となった平清盛軍に敗れて謀殺され、長兄も次兄も処罰され、三男の頼朝も死罪でしたが、清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願もあって死罪を免れます。
永暦元年(1160)3月に、14歳の頼朝は、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流刑になります。
比較的自由な琉人生活の中で、源氏方に従ったために所領を失った武士らが従者となって頼朝のもとに集って来ます。
頼朝は、安達盛長、佐々木定綱四兄弟らと、地方武士として日々鍛錬を怠らず過ごし、やがて、監視役になるべき平家方の武將で伊豆の豪族・北条時政の長女・政子と親しくなります。
これを知った政子の父・時政は、政子を地侍の山木兼隆に嫁がせるが、政子はその婚礼の場から抜け出して頼朝のもとに走ります。
諦めた時政は、政子を頼朝の妻と認め、頼朝と政子の間に大姫が生まれます。
ただ、最近では、この山木兼隆の話は創作とされています。
治承4年(1180)4月、後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏系武士に発しま 頼朝にも、叔父の源行家経由で令旨が届きますが、政時の助言で「機至らず」と静観して動かずにいます。
政時の推測通り、戦いに利なく、以仁王は源頼政らと共に宇治の戦いで敗死します。
だが、勝ち誇った平氏は、令旨を受けた諸国の源氏系武士の追討を厳命、頼朝にも危機が迫ります。やむなく、挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆の韮山目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち、気勢を上げますが、相模国土肥郷へ向かった頼朝軍300騎は、そこで待ち伏せた平氏方の熊谷直実、伊東祐親ら三千余騎に包み込まれて敗北し、頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に箱根山中へ逃れます。
治承4年(1180)8月末、安房国平北郡に上陸した頼朝は、房総の豪族・上総広常、千葉常胤らの加勢を得て、9月に安房国から上総国、下総国と出て、千葉一族と合流し、さらに上総広常の大軍と合流、頼朝軍は進軍し、さらに武蔵国の豪族・葛西清重、足立遠元らの軍勢を加えて、かつて敵対していた畠山重忠や河越重頼らの軍も従属させてかつて父の義朝の支配地だった鎌倉へ入ります。
その後、着々と鎌倉を整備して新たな政治の拠点とし、平氏との決戦に備えます。
その秋、平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の追討軍が駿河国まで来ると、鎌倉勢も武田信義と北条時政ら頼朝軍2万で進軍し、富士川を挟んで対峙しますが、夜半、水鳥の飛び立つ音に驚き浮き足立った平維盛軍は慌て乱れて潰走し、頼朝軍は戦わずして勝利します。
その勢いで頼朝は上洛を目指しますが、味方の総意が得られず、やむなく黄瀬川まで兵を引きます。
この日、頼朝の異母弟である源義経主従が、頼朝軍に合流します。
これを機に、鎌倉に戻って、新たな政務を侍所を中心に行うことになります。
治承4年(1180)末にはまだ、平氏と源氏の優劣の差は全く見えていず、国内のあちこちで小競り合いが始まっていた。
四国伊予、近江、甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏系武士、肥後の菊池隆直軍が挙兵して頼朝軍に投じ、平氏も福原を去って京都に都を戻して反撃に出ました。平氏は南都の寺社勢力を制圧し、近江源氏を倒しますが、平清盛が熱病で世を去ります。
その後、一進一退の攻防が続きますが、その均衡を破ったのが義経軍でした。
寿永2年(1183)春に挙兵した木曽の義仲が、平氏との戦いに連戦連勝し、ついに平氏を追い落として都を制圧します。
しかし、平氏に替わって都に入った義仲軍は、統率も乱れて乱暴狼藉や略奪で都人の反感を買います。後白河法皇もさすがに木曽軍に見切りをつけ、義仲に西国の平氏追討を命じ、代わって頼朝に上洛を要請します。
しかし、頼朝は上洛を断ります。頼朝は奥州の藤原秀衡らに鎌倉を攻められるのを恐れたのと、京にはもはや、数万騎の頼朝軍を賄うだけの余力がないことも知っていたのです。
その後、木曽軍が平氏追討で破れ、京に戻って、頼朝追討の命を望み、一度は断られますが、実力で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を出させ、強制的に征東大将軍に任ぜさせて、源範頼と義経率いる頼朝軍と戦って自滅し、義仲は粟津の戦いで討たれます。
義仲を討った範頼と義経の軍は、平氏を追討すべく京を発ち、摂津国一ノ谷の戦いで平氏を破ります。
文治元年(1185)1月、鎌倉の範頼から、軍内部の不和や食料不足、帰還を望む武士達の窮状を訴える書状が届きます。
頼朝は、九州に逃れた安徳天皇や建礼門院の無事を願い、これ以上は軍を動かさず、九州の武士達から反感を買わぬようにと
気遣った返書が範頼に届きます。さらに、九州の武士には、範頼に従って協力を望む書状を届けています。
その範頼への書状をみた義経は、後白河法皇に親書で西国出陣を奏上して、その許可を得て讃岐国屋島に出陣し、ここでの戦いで平氏を海上へと追いやり、さらに、九州の武士から兵糧と多くの船を得た範頼が義経と力を合せ、豊後国へと渡ってから、3月24日の壇ノ浦の戦いへと進み、ここで平氏を滅亡させますが、同時に、幼い安徳天皇の命をも海の藻屑にして、頼朝の意に反した結果になっています。
文治元年(1185)4月、平氏追討で義経の補佐をした梶原景時から、義経を弾劾する書状が頼朝に届きますが、頼朝は無視します。
さらに、頼朝は幕府の内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東武士らの任官を認めず東国への帰還を禁じますが、同じく任官を受けた義経だけには咎めを与えませんでした。
その上、範頼の指揮権への越権行為、義経が配下の武士達に勝手な処罰など専横を訴える武士の報告、それらが入り、頼朝も仕方なく義経を代官から外し、武士達に義経の命には従ってはならなという命が出されました。
義経は、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛父子を伴って相模国まで意気揚々と凱旋し、腰越から鎌倉に入ろうとします。
しかし、頼朝は宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経の鎌倉入りを許しませんでした。鎌倉では主要な御家人数人が義経に謀反の疑いありと報告していて、その理由を聞くまでは義経を鎌倉にはいれられない、という雰囲気だったのです。
もちろん、その時の義経にはそんな気など全くありませんでした。
腰越に留まる義経からは、鎌倉入りの許しを請う書状(腰越状)が頼朝に届きます。だが、頼朝は、それを無視して、面会を終えた平宗盛親子を伴って京に戻るように義経に命じます。
頼朝としては、義経を京に戻すことで、鎌倉武士内部の軋轢を消し、義経の身の安全を図りたかったのです。
何故なら、義経を弾劾する数々の訴状をあわせると、いくら頼朝が頭領でも、義経を死罪から守ることは出来なかったのです。
しかし、これを機に義経は頼朝を深く恨んで、「鎌倉に怨みを成す関東武士は、義経につくべき」と言います。
この時、はじめて義経に、鎌倉に反旗を翻す謀反への感受が感情が湧いた、と私は思います。
後世に至り、判官贔屓の日本人気質からは、義経が善玉で頼朝が悪玉となっています。
しかし、頼朝の平家打倒の旗印には全国の反平家勢力が結集し、義経の打倒鎌倉には誰も応じなかった事実は無視できません。
頼朝には頼朝なりの賞と罰の論理があり、仁において武士道が存在するのは確かです。
それを理解できた時、義経だけでなく孤独だった頼朝にも情を寄せることが出来るのかも知れません。


北条時政にみる武士道

北条時政にみる武士道

花見 正樹

北条時政は、平安時代末期の平氏一族の武将として伊豆守護の任にあった在庁官人説もある地元の豪族です。
北条氏は、第50代桓武(かんむ)天皇の末裔で、臣籍降下により平姓を賜った一族で、平将門、平清盛と同門の名家です。
時政の父は北条時方、母は伊豆掾伴為房の娘で、妻は伊東祐親の娘他となっていて子沢山、宗時、政子、時子、義時など15人がいます。
その伊豆の在地豪族でしかなかった時政に、天から降って湧いたような大きな転機が訪れます。
永暦元年(1160)3月、平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の嘆願などによって斬首を免れ、伊豆蛭が小島(ひるがこじま)に流刑となり、時政が監視役に任じられます。頼朝は13歳でした。
頼朝の伊豆国での流人生活は、監視役の北条時政の庇護の下、殆ど自由で、三浦半島から房総半島までを行き来していました。
やがて、時政の娘・政子が頼朝と恋仲にあるのを知った時政は、一時は反対しますが、二人の婚姻を認め、その時から、頼朝を留罪人としてではなく、北条一族への天下取りへの手駒と考えて暗躍します。
治承4年(1180)、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が栄華を極める平氏の追討を命ずる令旨を、諸国に隠棲する源氏一族に発します。当然ながら、伊豆国に琉人となって成長した頼朝の元にも、叔父の源行家を通じて密かに届けられます。
それを知った時政は、「いまだ機至らず」と、逸る頼朝を諫めて挙兵を断念させます。
案の定、時政の見込み通り、以仁王は、決起した源頼政らと共に宇治で敗死します。
しかし、勝ち誇った平氏軍は、以仁王の令旨を受けた諸国の源氏一族の掃討を企て、伊豆の頼朝にも追討の気配を見せます。
それをいち早く知った時政は、頼朝の危機を救うと同時に自分の野望への好機とみて、平氏一族ながら身内を招集して、頼朝の挙兵に協力します。
挙兵を決めた頼朝も、直ちに縁故のある坂東の豪族に平家討伐の挙兵を呼びかけます。
挙兵して最初の戦いは、治承4年(1180)8月の伊豆国目代・山木兼隆の韮山屋敷襲撃です。
、この戦いは、北条時政率いる頼朝軍の完勝でした。
伊豆を制圧した頼朝軍300騎は、三浦義澄、和田義盛軍と合流すべく相模国土肥郷へ向かって進みます。
しかし、三浦・和田軍と合流する前に、待ち伏せした平氏方大庭景親、熊谷直実、伊東祐親軍ら三千余騎に襲撃され、多勢に無勢で敗北して、頼朝は僅かな家来と箱根山中に逃げ、箱根権現社に匿われ、数日後に真鶴岬から船で安房国へ脱出します。これが石橋山の戦いです。
北条時政父子も他の伊豆国武士らと共に闘いますが、時政の嫡男・宗時が伊東祐親の軍勢に囲まれて戦死、時政は、頼朝と別れて甲斐に逃げます。
安房国に脱出した頼朝は、房総の豪族・上総広常と千葉常胤に加勢を求め、その大軍を率いて再び挙兵します。
さらに、武蔵の豪族・葛西清重と足立遠元軍の参加を得た上に、かつては敵対していた畠山重忠や河越重頼らの寝返りもあって、軍勢は強大になります。
一方、甲斐に逃れた北条時政は、甲斐の豪族・武田信義らの支援を得て2万の軍勢を率いて、頼朝軍との合流に向けて出発します。
同年10月、平維盛率いる平氏側追討軍と、甲斐から馳せ参じた時政と武田信義軍と合流した頼朝軍が富士川を挟んで対峙します。
この時、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った平家軍が潰走し、頼朝軍は闘わずして勝利を収めます。
再挙兵した頼朝軍が、平家との闘いに勝利したとの報は全国を駆け巡り、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏の殆どが挙兵して頼朝の旗の下に集まり、全国各地は平氏と源氏の衝突で動乱状態となったのです。
平氏も、福原に移した都を京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都の寺社勢力を制圧して軍勢の強化を図ります。
しかし、平家打倒の声は高く、養和元年(1181)には肥後国の菊池隆直、尾張国の源行家、美濃の美濃源氏一党なども挙兵し、頼朝軍に加勢します。
その動乱のさ中に、平清盛が熱病で世を去ります。
その後、一進一退の膠着状態が続き、頼朝から後白河法皇に「朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構いません」との和睦案を出すが、清盛の後継者である平宗盛はこれを拒絶します。
それは、清盛の遺言に「わが墓前に頼朝の首を供えよ」とあるからです。
中略
平家を倒した功労者は二人、源義仲と源義経ですが、その二人共頼朝に倒されます。
木曽の中原一族を率いて戦った義仲軍は連戦連勝でしたが、頼朝に追われていた叔父の源義広・行家を匿ったことで頼朝に睨まれ、義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に差し出すことで和議を成立させますが、結局は頼朝軍に討たれます。
一方の義経も、壇ノ浦の戦いなどで抜群の働きをしますが、結局、謀反の疑いありとして頼朝の追討軍に追い詰められて自殺します。
頼朝はさらに、過去に義経を匿った藤原泰衡を反逆の罪に問い、朝廷の勅許を得られないままに奥州征伐を成し遂げます。
建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御、同年7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに鎌倉幕府が認められます。

頼朝の鎌倉幕府開設の陰の立役者である義父の北条時政は多忙でした。
時政は、京の治安維持、平氏残党の捜索逮捕、義経問題の処理、朝廷との政治折衝、など頼朝の政治的行動の多くの部分を多岐に渡って引き受けていました。その施策は実直で誠実との評価で全体として好評でした。
時政は京都守護を4ケ月間だけ勤め、鎌倉に帰還してからは、表舞台から姿を消します。
しかし、時政は眠っていたわけではありません。
頼朝の死後は、時政は積極的に頼朝派を弾圧してゆきます。
頼朝の嫡子・頼家が跡を継ぎますが、頼朝在世中に抑えていた不満が噴出、それまで御家人統制を任されていた頼朝ご贔屓の侍所別当・梶原景時を弾劾して失脚させ、鎌倉から追放します。
この時、時政は弾劾の連判状に署名していませんが、景時が失脚して広大な支配地を得るのは時政だけに、誰もが時政が仕掛けた事件とみています。
建仁3年(1203)9月には、時政は、頼家と共に時政暗殺を企てたとされる比企能員を自邸に招いて謀殺し、頼家の将軍職を廃して伊豆国修善寺へ追放します。
時政は、頼家の弟の実朝(13歳)を3代将軍に擁立して、初代執権として幕府の実権を掌握します。
こうして、頼朝在世中には裏方に徹していた時政が表舞台に姿を現し、幼い実朝に替わって政務を行ったのです。
しかも、小豪族だった北条家は、どこの豪族にも対抗し得る強大な軍事力をも擁するようになっていたのです。
さらに時政は、牧の方と共謀して幼い将軍・実朝をも殺害しようと図るが、娘の政子や義時らに策を見破られ、結城朝光や三浦義村らを遣わして、時政邸にいた将軍・実朝を救出して義時邸に迎え入れます。
この事件で、今まで時政側についていた御家人達の大半が、義時に味方したことで時政の陰謀は完全に失敗し、時政は幕府内で完全に孤立して、その立場を失います。孤立した時政は出家しますが鎌倉から追放され、伊豆国の北条で隠居し、建保3年(1215)1月6日に、長年過ごした伊豆で死去します。享年78歳でした。
娘の政子可愛さと天下取りに加担して、自分が属する平家一門を壊滅させた罪を負って、源氏を滅ぼし平家の世を取り戻そうと図った北条時政は、まさしく平家一門の本筋である平清盛と同じ桓武天皇の流れで、武士道からは遠い存在えすが気になります。。
その時政の野望は政子に引き継がれ、時政の死後4年を経て、将軍・実朝が身内の公暁に殺されるに及んで達せられます。
完全に滅びたとされる平氏の天下が、そこから甦るのです。
北条時政の執念は、その名は晩節を汚したことで悪名だけが歴史に残ったとしても「凄い!」のです。
これは是非、アンチ「武士道」として書いておきたいと思ったのです。
私は、きっとどこかで時政の裏表がある生き様が好きなのかも知れません。