武士道を体験した幕末の英傑たちー3
宗像 善樹

(中略)
日本にとって幸福だったのは、別途に太平洋を進んでいる米艦「ポーハタン」には小栗がいて、咸臨丸には、勝と福沢という、稀代の文明批評家が乗っていたことです。
小栗は、幕府を大改造して近代国家に仕立てなおそうとし、又、勝は在野の、あるいは革命派の俊秀たち、たとえば西郷隆盛、横井小楠、坂本龍馬などにアメリカの本質を語ってかれらに巨大な知的刺激をあたえ、一方福沢は、官途には仕えず、三田の山にいたまま、明治政府から無類の賢者として尊敬をうけ、明治国家のいわば設計助言者としてありつづけたのです。いわば、2隻の軍艦に、3人の国家設計者が乗っていたことに、われわれ後世の者は驚かざるをえません。建築でいえば、小栗は改造の設計者、勝は建物解体の設計者、福沢は、新国家に、文明という普遍性の要素を入れる設計者でありました。 上記の3人の設計者のなかに、木村摂津守喜毅をふくめなかったのは、あるいは当を得ていなかもしれません。かれは明治国家成立のときは身をひき、栄達よりも貧窮をえらび、幕府に殉じて、みずから生ける屍になったからです。福沢流にいえば痩我慢の人になったわけで、その精神において、明治国家に、《立国の私(わたくし)》を遺したのです。
木村はさすがに累代の武門の人らしく、咸臨丸で出ていくことは、戦国の武士が出陣することだと心得て、家に相続してきた金目のもの、書画骨董や刀剣など、を売りはらい、それらをすべて金貨(日本の貨幣やドル金貨)に替え、袋いっぱいに詰めこんで、船室に置いたのです。出発にあたってお上から出る経費で十分とはせず、世話になるひとびとに上げるものをふくんで、私財を盡して諸経費に当てようとしました、戦国の武士は出陣のとき、すべて自分の経費でもって馬をととのえたり、家来をやとったり、食費をまかなったりするのです。そのために、知行というものをとっているのですから、当然といえば当然ですが、しかし木村のように、私財をあげてこれに当てるというのは、なまなか
な精神ではできないことです。福沢は、木村摂津守において、真の武士を見たのでしょう。
嵐のとき、その金貨の袋が戸棚を破ってとびだし、床いっぱいにちらばりました。福沢が『自伝』のなかでいうところでは、「何百枚か何千枚」床の上にばらまかれた。従者である福沢はそれをひろって再び袋に入れなおした、といいます。』
司馬遼太郎は言います。
『明治という国家は、江戸を否定してできたのではなく、江戸270年の無形の精神遺産の上に成立した。』と。
この『無形の精神遺産』こそが、われわれ日本人が無意識のうちに備え、体現してきた日本人の美徳、『武士道』と いうべきものなのでしょう。
了