明けましておめでとうございます。
花見 正樹
諏訪三郎盛高にみる武士道
花見 正樹
私の若い頃に書いた「戦乱の谷間」にという短編小説は、鎌倉の北条幕府壊滅後の挿話です。
その中に登場する主要人物は3人、その内の一人が諏訪三郎盛高です。
古典文学集「太平記巻第十」に登場するのは2人、亀寿丸こと北条時行と、今回の主人公・諏訪三郎盛高です。
小説の中のもう一人の人物については、思い入れもあって、そのん人の居城だった長野県の池田町の山城跡まで登ったことがあります。
ここでは、木曽義仲四天王の一人・樋口次郎の末裔には触れませんが、今でもその人物は目に浮かびます。
さて、諏訪三郎盛高ですが、この人は、北条幕府執権北条高時の弟・北条四郎左近入道泰家に仕えた北条方屈指の武将です。
北条幕府の滅びるのは、足利尊氏が裏切って朝廷側につき、六波羅を滅ぼしたのが主因ですが、北条幕府の栄華と奢りは幕府内の腐敗を呼んでいましたから自業自得、いずれは滅びる命運だったのです。
鎌倉に攻め入った新田軍の猛攻に、郎党の殆どを失った諏訪三郎盛高は、泰家の最期のお伴にと泰家の屋敷に戻ります。
すると泰家が意外なことを言います。
「わが北条が亡ぶは、兄・相模入道(高時)殿の不徳ゆえ止むを得ぬが、それでも一門には善行を積む者もいて再興の機もあろう。お前に相模殿の次男・亀寿丸殿を任せる。時が来たら再興の志を果たせ」
「兄の万寿殿は?」
「相模入道殿が、五大院右衛門宗繁(むねしげ)に預けられたと聞いたから心配ない」
盛高は「死を定むるは易く、謀(はかりごと)は難し」と思ったが、主君の命には逆らえず涙を抑えて亀寿丸のいる葛西谷の隠れ家に馬を走らせます。
女房衆とそこにいた亀寿の母・二位殿の御局は盛高を見て安堵したように「これからは?」と嬉しげです。
ここで盛高は亀寿を「落ち延びさせる」と口から出かかるのを抑えます。敵にそれが伝わったら追っ手が迫ります。
そこで、亀寿も死んだことにすべく嘘をつきます。
「大殿(高時)が、亀寿殿もともに冥途へと言いますので、お迎えに参りました。万寿殿はすでに敵に殺されました」
すると御局や乳母、女房達が亀寿を囲んで放しません。
「そんな酷いことを! 敵の手で死ぬなら諦めますが、亀寿を連れて行くなら私どもを殺してからにしてください」
と涙ながらに訴えます。
盛高も涙ぐみますが気を取り直して、「武士の家に生まれた以上覚悟も必定、大殿がお待ちです。御免!」と、力づくで亀寿を奪って抱き抱えて外へ走り出て馬の鞍に乗せ、自分はその後ろに跨って馬を走らせます。背後から泣き声が追い、振り向くと亀寿の乳母がはだしで必死で追ってくる姿が見えます。乳母は、馬が見えなかなっても倒れては起き、懸命に追いますが、力尽きて倒れ、這うようにして近くの家の井戸に身を投げてその一生を終えます。
その後、三郎盛高は亀寿共々、下人姿に身をやつして信濃へ落ちてゆきます。
この時の亀寿の年齢は、太平記でも定かではなく、史書でも5~10歳とまちまちです。
私は、その2年後に鎌倉討伐軍を率いて戦う北条時行を考えて、鎌倉落ちを10歳としました。
私の小説「戦乱の谷間に」は、この逃避行時の険しい落ち武者狩りとの争いと、その2年後の鎌倉攻めに触れています。
三郎盛高は、一族の諏訪上社前大祝・諏訪頼重の協力を得て、亀寿丸を信州南部、八ヶ岳山麓に匿って北条再起を図ります。
諏訪三郎盛高、諏訪頼重に呼応して祢津・滋野氏ら諏訪一族や関東武士が揃って蜂起したのは、建武2年(1335)の6月、鎌倉を一気に奪い返したのが7月。これを「中先代の乱」といいます。
わずか20日間の天下で、強大な足利軍の対大軍に包み込まれて、殆どが戦死しますが再び天下を取り戻したのは間違いのない史実です。
この主君の命にしたがって、命を投げ出した諏訪神社の一族、諏訪三郎盛高の義に生きた姿に「武士道」を感じるのです。
さて、表題の「諏訪三郎盛高にみる武士道」は、ここまでです。
しばし、時間がある方は、オマケの下記雑文にも御目通しを・・・
では、この戦いを主導したのは?
歴史書が語る諏訪三郎盛高だったのか?
幼いながら亀寿丸こと北条時行だったのか?
私が「戦乱の谷間」を書き上げて数年後、親しい友人の小林永周講師(開運・心霊スポット担当)から意外なことを聞きました。
「北条時行の墓が東北にある」というのです。
そういえば、北条泰家の領地が奥州にあるのは聞いたことがあります。
そこで調べました。
なんと、この「中先代の乱」の首謀者は、諏訪三郎盛高の主人で執権・北条高時の弟・北条泰家、らしいのです。
私が不勉強で、これを見逃していたのです。したがって、私の短編小説「戦乱の谷間」は没、書き直しです。
では、南朝元弘3年(1333)の北条一族滅亡時に、菩提寺である東勝寺に集まって自刃した800人超とも言われる主従の焼死体の中には、執権代理まで務めた北条四郎左近入道泰家はその場にいなかった・・・厳しい敵の目を欺いてどうやって生き延びたのか?
亀寿丸を家来の諏訪三郎盛高に託した後、北条泰家は、戦い破れて血だらけで戻った腹心の部下二十余人を呼び寄せます。
「わしは奥州に落ちて、一度は天下を取り戻してから見事に死んで見せる。そこで、ここは奥州の出身の南部太郎と伊達六郎の二名を道案内に連れて行く。他の者は見事に自害して館に火をかけよ。わしが率先して自害したように誰かわしの甲冑を着せ」
部下二十余人は「御定に従います」と言い、主人の命に従います。
主人に選ばれた南部太郎と伊達六郎は、敵の死者から新田家の家紋である大中黒の笠符(かさじるし)をつけた甲冑や笠を奪い、新田方の雑兵に身をやつし、泰家本人は血の付いた衣類で身を包み重傷を装って、これも新田方の雑兵に化けた力持ちの中間に吊り輿を担がせ、手負いの新田側武士が郷里に急ぎ帰ると装って、堂々と敵陣の中を武蔵まで落ち伸び、そこからまた変装して奥州にと旅立ちます。
主人が去ってすぐ、残った二十余人の武士は、戦いの場に戻って触れ回ったのです。
「主君、左近入道様ははや御自害あそばされた。家来衆はみな御供申せ。早くせんと屋敷が燃え落ちるぞ」
かくして、館に火をかけ、次々に腹を切ったのは三百余人、みな炎に包まれて自害します。
腹の座った泰家は、領地の奥州糠部郡(岩手県北部?)で英気を養ったのち、別人に化けて京に上り、名を変えて西園寺家に仕え、鎌倉の新幕府打倒の人集めを始めます。そして、建武2年の6月に奥州、武蔵、信州に触れを回して謀反を起こし、自らが亀寿丸こと北条時行や部下の諏訪三郎盛高を補佐して、新田義貞が守る鎌倉に攻め入り、一気に天下を取り戻します。
その天下を覆すのは、足利尊氏率いる大軍で、激しい戦いは数日で終わり、北条泰家、三郎盛高は討ち死に、諏訪頼重は自刃、北条時行はいずこにか逃れた、とされます。なお、敗軍の将兵は、死していても顔の皮まで剥がされたとあり、戦いの結末はいつも残酷です。