ブルック大尉にみる武士道
花見 正樹
ジョーン・ブルック大尉の名が知られるようになったのは、明治31(1898)年の日刊新聞・時事新報に連載された頃からとされています。福沢諭吉は、蘭学で師事していた医師・桂川甫舟に頼み込んで、甫周の義弟にあたる咸臨丸提督・木村摂津守の従者という形で咸臨丸乗船に成功します。
その福沢諭吉執筆の「福翁自伝」に載った咸臨丸の渡航状況では、ブルック大尉の貢献度を低めに評価してjますが、木村提督の報告や咸臨丸乗船船員らの証言から、ブルック大尉の指揮なしでは咸臨丸渡米の快挙は成し得なかったことが明らかになっています。
ブルック大尉が最初に日本を訪れたのは、咸臨丸渡米の5年前のことです。
ペリー提督と幕府が日米和親条約を締結してから約一年後の1855(安政2)年5月、アメリカ海軍の全世界海洋調査団の指揮官としてブルック大尉は世界の海を渡り歩いて日本にたどり着いています。測量や天文観測も出来る海洋学者の海軍士官のブルック大尉は、調査船団の旗艦・ヴィンセンス号上に乗組む科学者達の指揮を任されて南太平洋から香港経由で艦隊を組んで沖縄、九州南部を測量しながら下田に入港、初めて日本の土を踏みます。
ブルック大尉は、旗艦に積んだ長さ約9mのボートを帆走ボートに改造して、食料や測量器具を積んで日本の太平洋沿岸を函館まで測量し、函館で本隊と合流した後に、ベーリング海調査を終えてサンフランシスコに帰港します。
次に日本を訪れたのは1858(安政5)年の海洋調査の折りです。この調査は、日本近海島や岩礁、危険水域の詳細位置の調査にありました。
ブルック調査隊は、マリアナ群島や各地の岩礁を調査しながらグアム島を経由して香港、沖縄、種子島と日本沿岸測量にかかり、8月13日、開港直後の神奈川に到着します。
ブルックは16日、ハリス公使に会うため、江戸麻布のアメリカ新公使館のある善福寺に向かって馬で出発します。
その留守中、神奈川沖に停泊中のブルックの測量船・フェニモア・クーパー号が強風の嵐に襲われて碇ごと引きずられて岩礁に激突して難破、沈没してしまいます。
アメリカに帰る船を失ったブルック調査隊は、横浜で一時滞在しますが、日本遣米使節を送るため来日するポーハタン号に便乗して帰国する手筈を整えていました。そこに降って湧いたような、幕府からの要請です。
それは、咸臨丸でアメリカに行く事になった軍艦奉行・木村攝津守が、渡航にはアメリカ海軍の操船技術が欠かせないと考え、勝海舟らの反対を押し切って幕閣に要請したために、それを受けた水野筑後守と永井玄蕃頭がハリス公使に依頼したところ、自分の船を失ったブルック調査隊の存在を知ったのです。ハリス公使やドール領事の意を受けたブルックは、日米友好のためと自分達の能力を生かすために、日本海軍の軍艦への乗船を考慮し、直ちに咸臨丸の性能などを調べて、問題点を補修するなどして渡航に問題なしとしてから乗船を受諾します。
ブルック隊11名を加えた総勢107名の大所帯を乗せた咸臨丸は、 1860年2月7日(安政7年1月16日)、横浜を出港、浦賀で最終的な出航準備を整えた上でいよいよ太平洋の荒海に乗り出します。
この咸臨丸に関する情報は、この同じ「歴史の舘」内の宗像善樹講師による「咸臨丸物語」が今までのいかなる咸臨丸作品以上詳しく、よりリアルですので是非、ご一読下さい。今回のテーマ「ブリック大尉が、武士道とどう関わるか? ここからは、宗像善樹講師の著書から一つの事件をお借りして説明します。
太平洋上での飲料水の消費が予定以上に速まってしまいます。そこで水の補給にハワイに寄港する案も出ますが、結局、水不足対策に、飲料以外には水を使わないことを取り決め、全員でそれを再確認しました。
ところが、アメリカの水夫の一人がその取り決めを無視して、その貴重な水で自分の下着を荒ったのがバレました。それを知ったブルック大尉は、敢然と「規律を破ったこの者を直ちに撃ち殺してください」と日本側に通告します。
下記文章は、宗像善樹講師の名文をそっくりお借りしました。
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木村摂津守、福沢諭吉、ジョン万次郎を始め、咸臨丸の日本人乗組員は全員、元測量船フェニモア・クーパー号艦長ブルック大尉の毅然とした態度に驚嘆した。なぜなら、それは、日本の武士が武士道を貫く態度に似ているように思えたからだった。
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この一件だけでなく、ブルック大尉が咸臨丸の太平洋横断を成功させたエピソードは数限りなく残されています。
ブルック大尉にみる武士道・・・納得して頂けましたでしょうか?