上杉鷹山などにみる武士道
花見 正樹
ここで以前、川中島の戦いで武田信玄の本陣に斬り込み、馬上から信玄めがけて太刀を振るったのは上杉謙信ではなく謙信の影武者・荒川伊豆守長実(ながざね)あるとのべました。この勇猛果敢な荒川長実の猛攻を辛うじて逃れた信玄は命からがら川中島から撤退します。
上杉謙信の部下にはこの荒川長実の他に、もう一人傑出した武将がいます。それが、賢将で知られる直江兼続(なおえかねつぐ)です。上杉謙信は、これら優秀な部下に恵まれて越後の龍として君臨できたのです。
時代は下って上杉家が越後から転じて出羽の国・米沢に移って代を継ぎ、日向国高鍋藩主・秋月家(現・宮崎県児湯郡高鍋町)から米沢に養子に入って米沢藩第九代藩主になったのが、上杉治憲(はるのり)こと後の鷹山(ようざん)公です。
幼くして上杉家に養子入りした治憲は上屋敷(千代田区霞が関)で過ごし、藩主として初の米沢入りは19歳の時でした。
治憲が藩主になった時の米澤潘は借財が約20万両(約160億円)で破産寸前、その理由は禄高15万石で家臣千人が妥当なのに、昔の120万石の大大名だった時代の6千人の家臣を抱えていたのと度重なる奥羽地方の天災による農作物壊滅と飢饉、それに加えて江戸屋敷での贅沢な暮らしぶりなど、過去の藩主の中には領地返上寸前だった者もいるほどの窮状でした。
その米沢藩の危機を救い、莫大な負債を完済に導いたのが、新たな藩主の治憲です。
治憲はまず江戸屋敷の改革から始め、奥女中50人を9人に減らし、年間経費を1500両から209両に切り詰めます。
その治憲が米沢入りしてからの藩主としての行動は、領民にとって思いがけず衝撃的なものでした。
まず率先して着衣を木綿として華美を戒め、一汁一菜の粗食、家来と共に領民の手助けに田に入って働いた記録もあります。
さらに、領民の飢餓対策に、食せる野草や山菜を求めて山谷を駆け巡って書物に載せて配布したり、垣根に食用となるウコギを用いるよう奨励したり、と倹約と勤労の実践と奨励を藩是として進めます。
かくして巨額な借財もいつしか完済するに至ります。
昭和の時代、軍神と呼ばれた山本五十六の訓に、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」という有名な一文があります。
その文は、かつて上杉鷹山が伝えた「してみせて 言ってきかせて させてみる」から採った言葉と言われています。
上杉鷹山が遺した言葉に「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり(上杉文書)」があります。
これは、中国の古典「書経」からの引用で武田信玄が遺した「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」から、と言われています。
と、すれば、上杉鷹山は、藩祖・謙信の宿敵の座右の銘を用いていたことになります。
さらに、甲斐・武田軍団の軍師・山本勘助の子孫の養子である山本五十六も、祖先を戦死させた敵の子孫の言葉を借りていたことになります。
アメリカの元大統領のジョン・F・ケネディが、一番尊敬する日本人に挙げたのは上杉鷹山です。
これは、ケネディ元大統領が、新渡戸稲造の「武士道」を愛読していたからです。
さらに、私(花見)は「ケネディ会」の会員でした。
だからといって私とケネディ元大統領が直接の知り合いではありません。
米沢との関りは私が「米沢新聞」の元東京支社長で現・顧問ゆえ、ケネディ元大統領とは一族の因縁からです。
上杉鷹山の質実剛健を貫いた武士道も立派ですが、ここに登場した人物、上杉謙信、武田信玄、山本勘助、山本五十六、ケネディ、荒川長実、直江兼続とそれぞれが立派に武士道を貫いています。
あと一人、花見が抜けていますが、これは今すぐ「花見とケネディ」で検索願います。これで花見一族の武士道の一端に代えて頂けますと幸いです。