荒川伊豆守長実にみる武士道

 

 

 

 

 

 

荒川伊豆守長実にみる武士道

花見 正樹

 

 

上杉謙信といえば越後の龍、武田信玄といえば甲斐の虎。
この二人の名が出れば、川中島の一騎打ち・・・どちらも常識です。
これを、上杉謙信を米沢の龍と言い直してもピンときませんが、山形県米沢市では謙信は米沢の人なのです。
平成7年(1995年)の1月初旬、私は雪深い山形県米沢市を訪れた際、謙信公の墓前に訪れました。
それ以前、昭和の頃から私の事務所の一隅を米沢新聞社東京事務所に貸してはいましたが、私が推薦して東京支社長に推薦していた釣友が突然辞職、そこで仕方なく私が東京支社長をやらざるを得なかったのです。
新年の挨拶で米沢をれた私は、赤湯温泉(南陽市)での新年宴会の翌日、故清野社長に米沢市内を案内して頂きました。
米沢城址、米沢に伝わる著名な工芸品「笹野一刀彫り」の名人宅を訪れて土産を頂いたり米沢牛の店などを歴訪した最後の仕上が上杉神社でした。
社務所で求めた線香に火を点けて墓前に供えながら故清野社長が言います。
「ここは上杉家の菩提寺で代々の藩祖が眠っている、謙信公も鷹山公も合祀されていますでな」
これは間違い、上杉鷹山は、明治35年(1902年)に建てた摂社「松岬神社」に移ってここにはいません。
謙信公の霊に合掌してご冥福を祈ったあと、沢山ある寺宝の中のほんの数点を特別に拝観させて頂きました。
長巻、刀剣、甲冑、装飾品の一部ですが、中には家老・直江兼続所用の浅葱糸威二枚胴具足や兜がありました。
帰路、また故清野社長が自慢げに言うのです。
「いま見せて貰えなかったが、川中島の戦いで信玄と一騎打ちで斬りつけたとき謙信公が被っていた白頭巾も遺されてますよ」
ここでまた口には出しませんが、「えっ?」と疑問符です。
上杉謙信と武田信玄が5度も戦った千曲川の「川中島」で、二人の一騎打ちが著名になるのは4度目の合戦です。
私の手元にある「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)(武田方の史料)」の控えでは、謙信が馬上から幾度となく激しく太刀を振るうのを信玄が鉄製の軍配で防ぎ切った、と記述れてされています。
ところが、知人から見せて頂いた「上杉家御年譜・第一巻、謙信公(米沢温故会著)によると、信玄に一騎討ちを挑んだのは、謙信の奉行で直江兼続と肩を並べる「荒川伊豆守長実(あらかわいずのかみながざね)」らしいとなっています。
となると。荒川伊豆守は服装からして、謙信(当時は政虎)の影武者だったことになります。
荒川伊豆守は、永禄4年(1561)の「第4次川中島の戦い」で、謙信(政虎)軍1万3千と共に、武田軍が立て籠る海津城を眼下に見下ろす妻女山(西条山とも)に布陣します。
武田信玄はすかさず2万の兵を率いて妻女山を囲んで上杉軍の退路を断ち、自らの本陣は川中島を挟んで設営します。
両軍が睨み合って約半月後の9月9日の夕、謙信から「今宵、山を下る」の命が出ます。
謙信は、海津城の炊煙が異様に多いのを見て、武田軍が夜陰から早朝にかけてに妻女山に攻め登るとみて、その前に山を降りて下で待ち受ける武田軍を壊滅させる策に出たのです。
武田軍としては、妻女山を奇襲すれば、上杉軍は慌てふためいて敗走して山を下る、それを待ち伏せて殲滅する策ですから余裕があります。
晴れた日の夜明けの川辺は霧が出ます。この日(9月10日)の夜明けも濃霧でした。
その霧が夜が明けてゆくにしたがって晴れて見通しがよくなっています。
武田軍の軍師・山本勘助にとって一生一代の過ちがこの「きつつき戦法」です。
武田軍が間近に迫った上杉軍を眼にして陣形を立て直す間に、上杉方の先鋒・旗本騎馬隊が迎え討つ武田の将兵を蹴散らしてまっしぐらに本陣めがけて襲い掛かって来ます。
その真っ先で長刀を振るっている甲冑に白頭巾姿の武将が、荒川伊豆守だったのです。
伊豆守ら精鋭部隊は必死の形相で刀を振るい、まっしぐらに武田軍の本陣めがけて激しく攻め進みます。
夜中の奇襲を掛けたつもりが、逆に不意を突かれる形となった武田軍は、大混乱となりました。
この時の激しい戦闘で武田軍の山本勘助、信玄の実弟・武田信繁ら主だった武将が次々に討ち死にします。
戦況不利とみた信玄は、八幡原の本陣を撤退し、下流から川を渉るべく移動を始めます。
それに気づいた伊豆守らは一団となって武田軍の本陣に襲い掛かりました。
信玄を守る親衛隊も懸命に反撃に出ますが、その厚い壁を突き破って伊豆守が信玄めがけて太刀を振るいます。
信玄が刀を抜く間もない鋭い太刀先に、思わず信玄は手にした鉄製の軍配で防ぎます。
伊豆守が三太刀振るったところに邪魔が入って防戦となり、信玄をとり逃した上、自分も手傷を負ったのでその場から脱出しますが、その悔しさもまた想像できます。
その川中島での一騎打ちは、謙信と信玄の一騎打ちとして語り継がれましたが、伊豆守は一言もそれに反駁(はんばく)していません。
主君・謙信の命に従い敵中で命がけで戦い、凱旋後も名を捨てて「義」を守った荒川伊豆守長実もまた武士道の鑑(かがみ)と讃えることが出来ます。
しかし、歴史の世界は表に出ているのが真実、この現実を最近ではイヤというほど実感しています。
荒川和泉守長実殿、以て安らかに瞑すべし・・・