武士道を体現した幕末の英傑たち-2

宗像善樹写真 (3)

武士道を体現した幕末の英傑たち-2

宗像 善樹

司馬遼太郎が、その著「明治という国家」の中で述べています。
以下に引用して、紹介します。(「明治という国家」NHK出版)
『おなじ侍でも、大名の家来の侍なんぞは、旗本からみれば下人同然なんです。その木村が、咸臨丸でアメリカにゆくにあたって、当時、江戸では多少は知られていた若い洋学者をつれていきました。福沢諭吉でした。福沢は、大分県、つまり豊前中津藩の奥平家十万石の家来で、大名の家来の身分からいうと、木村は雲の上のお殿様でした。
福沢はつてを求めて木村に願い出、私的な従者としてつれて行ってもらうことにしました。身分としては、荷物持ちの下男です。
「門閥制度は親の仇でござる」
と、福沢はいったことがありますが、かれは門閥家の木村に対しては何ともいえぬ親しみをもっていました。
木村はけっして威張らず、このような身分の福沢、それも自分より5つも年下の福沢を、人のいないところでは、 「先生」とよんで、ごく自然に尊敬していました。福沢の学問と識見をみとめた最初の発見者の一人にこの木村摂津守がいます。福沢は生涯、木村を尊敬しつづけ、明治後、木村が新政府から仕官せよといわれても仕えず、貧しいままで隠遁生活をつづけているのをみて、どうやら陰で経済的な援助もしていたようです。
福沢は、明治も24年ごろになって、『痩我慢の説』という、福沢にしてはめずらしく武士論というべきものを書きました。「立国は私(わたし)である。公(おおやけ)ではない。さらに私ということでいえば、痩我慢こそ、私の中の私である。この私こそが立国の要素になる」と説きました。
福沢は、言います。
「一個の人間も、この世も、あるいは国家でさえ、痩我慢でできあがっている。国でいえば、オランダやベルギーなどの小国が、ドイツ・フランスの間にはさまって苦労しているが、あれだって大国に合併されれば安楽なのだが、痩我慢を張って、栄誉と文化を保っている。」
(中略)