太田道灌にみる武士道ー2
(義に生きた漢(おとこ)
花見 正樹
東京都荒川区のJR日暮里駅東口広場には、騎馬姿の堂々たる大田道灌の銅像があります。
銅像の名称は「回転一枝」で、製作は橋本活道氏、企画推進は文芸評論家の村田一夫氏(開運道顧問)です。
ここ日暮里地区には道灌山の地名や小学校名が存在し、太田道灌の勢力拡大の勢いを示しいます。さらに、さいたま市岩槻区にも太田という地名があり、岩槻市の芳林寺にも道灌の騎馬像が建立されています。
さらに、そこから東にある千葉県柏市には太田道灌の名を冠した小字(こあざ)の地名が9ケ所も実在していて、太田道灌が境根原合戦でここまで勢力を拡大していたことも、道灌が人々に好かれていたこともよく分かります。
江戸城を築いたほどの太田道灌ですから一国一城の城持ち大名かと思うとさにあらず、相模国守護大名・扇谷(おうぎやち)上杉定正の家宰(筆頭重臣)です。家臣でありながら主君以上の力量や人気があり、いつでも主家を乗っ取って併合することも可能でしたが、道灌はあくまでも筆頭重臣として主君を支えます。
扇谷上杉家を代表する存在の道灌は、鎌倉公方4代の足利持氏と本家筋の山内上杉家が対立して激しい戦い永享)の乱)でも真っ先に駆けつけて山内上杉家に味方して持氏を滅ぼしています。さらに、その後の享徳3年(1453年)以降は、持氏の遺児である古河公方・足利成氏との長期の戦い(享徳の乱)でも本家・山内上杉家のために一命を賭して戦っています。
その戦功もあって道灌の名声と勢力は、主君・扇谷上杉定正や本家・顕定を遙かに超えるようになっていきます。
その後も戦いは起こりますが、道灌の軍はよく主家の危機を援けて連戦連勝、ますます道灌の名声は大きくなるばかりです。
文明9年(1477年)には、前年に反乱を起こした山内上杉家の重臣・長尾景春が主家と扇谷家同盟軍が籠る五十子陣を急襲、
定正と顕定は完敗で命からがら上野国へ敗走、長尾軍の追撃で上杉同盟軍は最大の危機に陥ります。それを知った道灌は軍を率いて両軍主力と主君の救出に向かって長尾軍を撃破、立ち直った定正も転戦して勝利を収め扇谷家本拠の河越城を守ることが出来ました。
その後、主家の扇谷上杉定政が本家・上杉顕定とが、古河公方との和睦を巡って対立、道灌の仲介で和睦はなりますが、道灌の勢力が主家を遙かに凌いだことで周囲の妬み警戒から周囲の讒言(ざんげん)を買います。
扇谷定正は、本家の策謀に煽られて、山内上杉家重臣・長尾景春反逆の例から道灌の裏切りを恐れて道灌誅殺を決意します。
文明18年(1486年)7月26日、道灌は主君の扇谷定正から、「戦勝を祝う」と相模の糟屋館に招かれ、いて暗殺されます。
死に瀕した道灌が、主命により仕方なく道灌を刺した刺客が詠んだ上の句に、苦しい息の下から上の句に応え、さらに血を吐くように呻いた一言が遺されています。
「当方滅亡!」
命がけで主家の安寧のために戦い続けた道灌が、ついに主家の扇谷・上杉定正を見放した瞬間です。
そのまま道灌は息絶えます。
長期に渉っての冷遇に耐え忍びつつ「義」に生きた太田道灌・・・55歳の人生でした。