宗像善樹(むなかたよしき)
1943年生れ さいたま市浦和区在住。早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了。
三菱重工業を定年退職後、文筆活動に入る。元家庭裁判所調停委員。現簡易裁判所司法委員。
幕末史研究会会員、咸臨丸子孫の会会員、全国歴史研究会会員、NPO法人江戸連会員、
長崎楽会会員、埼玉文芸家集団会員。
著書:爆風(三菱重工ビル爆破事件)アルマット社。
咸臨丸の絆(軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉)海文堂出版。
武士道を体現した幕末の英傑たち
宗像 善樹
新渡戸稲造博士が、明治32年(1899)にアメリカで、英文の「BUSHIDO、THE SOUL OB JAPAN」を出版され、世界的なベストーセラーになりました。出版された目的は、我々日本人が無意識のうちに持っている日本人特有の精神をキリスト教の精神と比較して、世界の人々に解き明かすことにありました。
日本国内では、明治41年(1908)に「武士道」として櫻井?村が和訳本を出版しました。爾来、一世紀以上が過ぎました。
この間、日本はいろいろな国難に直面しましたが、そのたびに、日本民族は、先人より受け継いできた「精神」を礎にして国難を乗り越えてきました。新渡戸稲造がいう「SOUL」には、日本人の「勇気」「忍耐」「仁」「礼儀」「誠意」「名誉」「義務」「惻隠の情」などが含まれています。
東日本大震災や熊本地震においても、日本人は過去の国難に対したのと同じような「精神」をもって立ち向かい続けています。
ところで、わが国には古くから、時代が生んだ英傑と呼ばれる人物が何人もいます。
幕末期を例にとると、私の頭に浮かんでくる代表的な英傑は、小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)、勝海舟、坂本龍馬、福沢諭吉、木村摂津守喜(きむらせっつのかみよし)毅(たけ)の5人です。
私が考える幕末の英傑とは、その時代の世間の通念、状況を大きく変革させ、強力なリーダーシップをもって日本の将来の発展、存続のために比類のない働きと貢献を為した人物のことです。
私は、第1に、小栗上野介忠順(1827~1868)を挙げます。
小栗忠順は、徳川の重臣ながら徳川幕府の行く末を見極め、「幕府の命運に限りがあろうとも、日本の運命には限りはない」として、日本国が海外列強から侵略されることを阻止すべく、幕府に金がない中で横須賀造船所の建設を完遂させ、横須賀造船所を明治新政府に移管することを「たとえ幕府が亡んでも、土蔵付き売り家を新政府に引き渡すことは徳川の名誉である」と周囲を納得させて潔く生涯を閉じた武士です。徳川の幕臣ながら、死後、ロシアのバルチック艦隊を撃破した薩長土肥を中心とする明治政府に日露戦争の大勝利をもたらせた武士です。
後世、「明治の父」と敬称される所以です。
第2に、幕末、明治期において、当時としてはだれも持ったことのない、幕藩体制よりもう一つレベルの高い「日本国」という国家思想を持ち、幕藩の枠を超えて「独立国日本」という概念を当時の人びとに強くうったえ、海外列強の
侵略、支配、植民地化を防いだ勝海舟(1823~1899)、坂本龍馬(1836~1867)、福沢諭吉(1835~1901)、木村摂津守(1830~1901)が近代日本国の基礎を築きあげた武士であります。小栗忠順、勝海舟、福沢諭吉、そして木村摂津守の四人に共通していることは、幕末の同時期に船で太平洋を越えてアメリカ・サンフランシスコに渡り、アメリカを知り、アメリカの進んだ文化に身を持って触れた経験を持つことです。
万延元年(1860)に徳川幕府は日本とアメリカで締結した日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節団を送ります。小栗忠順は、使節団のナンバー・スリーとしてアメリカの軍艦ポーハタン号に乗って行きました。幕府は別途、随伴艦として軍艦「咸臨丸」をアメリカへ派遣しました。この咸臨丸に乗船したのが、軍艦奉行木村摂津守、艦長勝麟太郎、木村の従者としての福沢諭吉の3人です。
つづく(3回連載)