岩瀬忠震にみる武士道

岩瀬忠震にみる武士道

花見 正樹

岩瀬忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣の中にあって 、卓越した外交手腕を振るって列強との折衝に当たり、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と称されました。
だが岩瀬忠震の晩年は、その華やかな経歴とは裏腹に、不遇でした。
忠震は、宇和島藩主伊達村年の玄孫で、伊達政宗の子孫でもあります。母は林述斎の娘で、おじに鳥居耀蔵がいます。
そんな血縁にある旗本・設楽貞丈の三男として文政元年(1818年)11月 21日、江戸芝愛宕下で生まれた忠震の通称は忠三郎です。
天保11年(1840年)5月に岩瀬忠正の婿養子となって家禄800石の家督を継ぎ、昌平坂学問所に入って成績優秀だったこともあり、嘉永2年(1849年)2月部屋住みより召し出されて西丸小姓番士、昌平坂学問所教授となります。
嘉永7年(1854年)、老中首座の阿部正弘にその才能を見出されて目付に抜擢され、講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造にも拘わり、外国奉行に任命され外交手腕を発揮します。
安政2年(1855年)に来はロシアのプチャーチンとの全権交渉で日露和親条約締結に臨みます。
次いで安政5年(1858年)にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスとの交渉で、井上清直と共に日米修好通商条約に自己責任で署名するなど、開国に積極的な外交官として活躍します。。
しかし、岩瀬忠震を重用した阿部正弘が過労で急死し、井伊直弼が大老に就任したことで情勢は一変します。
忠震は、将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派に属したため、、反対派の井伊直弼が一橋派の排斥を目論んだ安政の大獄で作事奉行に左遷され、次いで蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した後、文久元年(1861年)に不遇のまま病死して44歳の人生を終えます。
忠震が生涯の友として尊敬し親しんだのはその書簡からみて木村摂津守喜毅(よしたけ)ただ一人でした。
共に開国派であった忠震と木村喜毅は、外国の侵略に負けない強力な海軍の創設を目指していました。
幕府が強力な海軍を創るために日米修好通商条約特使に随伴派遣させた咸臨提督・木村喜毅と共通の国を守り民を守り家族を守るための国力高揚のための武士の意地が歴然としていて、武士道のあるべき姿を垣間見ることが出来ます。
岩瀬忠寛の墓所は、文京区の蓮華寺から豊島区の雑司ヶ谷霊園に改葬されています。
さらに、明治16年(1883年)に忠震の旧臣・白野夏雲によって墨田区東向島の白鬚神社に墓碑が建立されました。私(花見)はそこから徒歩数分の近くに住んでいたこともあり、岩瀬忠震の名にはごく自然に馴染んでいて、今でもアメリカと国交を開いたのは岩瀬忠震と記憶しています。