新渡戸稲造の武士道
花見 正樹
新渡戸稲造が「武士道」を海外で書いた理由については様々な説があります。
新渡戸稲造著の「BUSHIDO(武士道)」は、明治33(1900)年に「Bushido: The Soul of Japan」の書籍名でアメリカで刊行されました。その後、日本に逆輸入されて普及し、やがて世界的名著となって広まりました。
この書籍を書くきっかけについては、新渡戸稲造がある日、外国の友人と宗教論争をした時にから「日本では学校で宗教教育はあるのか?」と質問されて言葉に詰まり、そこから考えて日本人の精神的支柱である武士道を書いた、とされています。
その著書の中で、武士道は、日本的精神の根幹を成すものである、と定義されています。
したがって、武士道という言葉自体が新渡戸稲造の著書によって海外から逆輸入されたもので、徳川幕府が明確化した士農工商と呼ばれる独特の身分制度の頂点に立つ倫理観に基づくものではありますが、江戸時代にはまだ一般的ではなかったのです。
江戸時代には、むしろ「武道」とか「武術」とか言われていて、文武両道の鍛錬として武士の覚悟を自覚に用いられています。
その自覚とは、仕事上の責任問題の解決方法の一つに切腹という死を以て報いる覚悟のことです。
その武士の厳しい掟や生き方が日本全体に広まって日本人そのものが、死をいさぎよしとする倫理観になったと推測できます。
とはいえ、武士以外には切腹という儀式で責任をとるということはありませんが、そのような覚悟をもたねばならぬ名主など村役人や侠客などそれぞれがそれに準ずる倫理観をもって自らを律していたのは間違いありません。
「武士道」という言葉自体が日本で最初に記された書物はそう古くなく、江戸時代初期に出た武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)の口述記禄「陽軍鑑」とされています。
ここでの武士道は、主君への忠誠とはほど遠く、個人的な生存術であり、武名を高めることが自分および一族の発展に寄与し、出世を有利にすることを主にしていて、武士とは己を髙く評価してくれる主君を求めて何度でも主君を変えてもよく、「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺訓をも肯定していて、後世の「武士は二君にまみえず」とは全く反対阿なのです。
さらに、「武者は、卑怯だの犬畜生と罵られても、勝つことこそ本意」という文言も遺されています。
これで見ると、戦いに明け暮れた乱世時代の武士は、「卑怯と罵られても戦いに勝つことこそ肝要」であると現実的なのです。
それが、徳川幕府の平和で戦いのない時代に入って武術は殺し合いから形式的なものに変わり、道徳大系としての「武士道」となります。
新渡戸稲造の語る「武士道」は、あくまでも江戸時代に入ってからの平和な時代の武術を指すものであることをご承知おきください。