山岡鉄太郎にみる武士道-3
花見 正樹
西郷は、幕府に囚われていた仲間の益満休之助が無事に帰還したことを喜び、益満から、幕府の使者を買って出た山岡が、案内役に益満を望んだことで牢内から釈放されたことと、山岡とは勤皇を旗印にする虎尾の会の仲間であることを話すと、西郷は深く頷いて山岡との会談を受諾します。
この時、すでに江戸襲撃を3月15日と決めていた西郷は、山岡が持参した勝海舟からの手紙で、山岡と図って益満を牢獄から救い出して薩摩藩に戻すために案内役にした経緯を知り、その好意に応えるべく真剣な態度で山岡との会談に臨みます。
西郷は最初から毅然として「今さら江戸攻撃は変えられん」と宣告しますが、山岡鉄太郎の真摯な態度に徐々に心を許し、ついに江戸城総攻撃を取りやめてもいいが、いくつかの条件はある」と言います。
その時、西郷が山岡鉄太郎に示した江戸城総攻撃回避の条件は次の通りです。
1、徳川慶喜を備前藩預けとする。
1、江戸城の無条件明け渡し。
1、全ての軍艦の引き渡し。
1、全ての武器の引き渡し。
1、城内居住の家臣は向島にて謹慎。
1、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物の調査と処罰。
1、暴発の徒がいる場合、官軍が鎮圧する。
これらの殆どは、既に大総督府軍議で決定していた事項をほんの少しだけ手直ししたものです。
これを見た鉄太郎は、すかさず将軍・慶喜の備前藩預けをみて強い口調で反発します。
「西郷殿は、薩摩藩主・島津の殿を他藩の預かりと言われても承知ですかか?」
しかし、これは山岡らしからぬ愚問です。
斉彬派の西郷は、島津久光には何度も殺されかけて天を共にせぬ仇敵の間柄ですから、鉄太郎と慶喜の仲とは距離感が違います。
それでも、山岡鉄太郎の主君・慶喜を想う真心に負けた西郷が妥協して、西郷が善処することで会談は無事に終了します。
帰路は、大総督府発行の手形がありますので山岡鉄太郎は無事に江戸に帰還して、直ちに勝海舟ら幕閣に結果を報告します。
ここからは勝海舟の出番となり、江戸田町の薩摩藩江戸藩邸で慶応4年3月13日から二日間、西郷、大久保一蔵ら薩摩藩側と、勝義邦、大久保忠寛、山岡鉄太郎ら旧幕府側との会談で、江戸城の無血開城が決定、後の条項は何ひとつ厳密に決めても守られないことが予測できることばかりです。
歴史の本などでは、この会談は、西郷と勝の二人による密室会談との著述を見かけますが、それはあり得ません。
西郷と大久保一蔵は表裏一体ですし、幕府の内情に一番詳しく幕府解体・公武一和を幕閣にありながら早くから望んでいたのが大久保忠寛(一翁)だからです。
それに、この会談の下準備をした山岡鉄太郎の同席を西郷が望まぬはずはありません。
さらに、勝と西郷は5年ぶりの再会ではありますが、5年前に勝が西郷に示唆した徳川幕府の脆弱さと幕府解体への助言が、西郷の討幕計画に役立っていることを思うと、この江戸城無血開城のシナリオは、遠い昔から出来上っていたような気もします。
西郷と勝、新政府と旧幕府の二人の大久保、それら4人の丁々発止の達者な会話を耳にしながら、発言もなくひたすら部屋の隅に控えていただけの山岡鉄太郎の心中はいかがなものであったか?
山岡鉄太郎はただ、おのれが仕える前将軍・徳川慶喜の身の安全と徳川家の存続を願っての命がけの行動だっただけです。
一途に主を思って命がけの行動を貫いた山岡鉄太郎の武士道は、勝海舟の陰に隠れて表には出ませんが、これはこれでいいのです。