山岡鉄太郎にみる武士道-2

山岡鉄太郎にみる武士道-2

花見 正樹

戦いを指揮すべき徳川慶喜が逃亡したため大阪城に籠もっていた幕府軍は、船で江戸に撤退します。
初戦に勝った西軍は、徳川慶喜追討令、会津藩・松平容保(かたもり)、桑名藩・松平定敬(さだたか)、幕閣大名ら27人の官職を剥奪し、その各藩京都藩邸を没収という一方的な処分をはっぴょうします。
しかも、諸藩に対して西軍の最前線で幕府軍と戦うことと軍資金の提供を迫り、逆らえば賊軍として討伐すると脅します。
さらに、諸外国の代表には、幕府軍への武器弾薬などの供与や援助を、軍事協力しないように要請します。
諸外国代表は、西軍を新政府と認めるのはまだ早い、戦闘の結果が出るまでは局外中立と宣言します。
江戸に逃げた徳川慶喜は、山内容堂らに新政府軍との和睦斡旋を依頼します。
主戦派の小栗忠順(ただまさ)らは、反撃ときょうとb奪回の良策を献策しますが、賊軍の汚名を被るのを恐れた慶喜は、小栗忠順を罷免し、恭順派の勝義邦と大久保忠寛を登用します。
恭順派を中心とした新幕閣は、官位を失った松平容保、松平定敬、板倉勝静らに江戸城への出入りを禁じ、慶喜自らは上野寛永寺大慈院に移って恭順の姿勢をとります。
それでも西軍の強硬派・西郷隆盛は、江戸城を武力で奪取して幕府を屈服させ、幕府を支えた慶喜を始め、松平容保、松平定敬らを厳罰に処すことを主張、江戸城攻撃の日を3月15日と主張、それを通します。
一方、長州藩の木戸孝允らは、江戸城攻撃は当然としても、徳川慶喜個人に恨みはない、として寛典論を主張、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城ら諸侯が、この木戸孝允の寛典論に賛成しますが、西郷は頑としてそれを受け入れません。
西軍は、東海道、東山道、北陸道の三方面から江戸攻撃へと迫り江戸攻撃が刻々と迫っていますが、幕府軍の主戦派は江戸城内には入れませんから、市街戦で戦うしかありません。このままでは江戸中が戦火に燃え落ちることになります。
火の海になって住民はみな焼け出されてしまいます。
勝義邦は、これを逆手にとって、江戸を戦火から守るという理由で、江戸城を死守せずに明け渡すという策に出ます。
勝義邦は、主戦派の新選組や本格的軍隊の伝習隊を江戸から遠ざける策に出ます。
その上で、西軍との交渉を考えます。
それとは別に、薩摩出身の第13代将軍徳川家定正室の天璋院は、旧知の仲の西郷・大久保の両名に慶喜助命の嘆願書を送ります。
さらに、第14代将軍徳川家茂正室の静寛院宮・和宮も、かっての婚約者である東征大総督有栖川宮や朝廷側の人脈を通じて、将軍・慶喜の助命と徳川家存続の歎願を何通も出しています。
これらの嘆願書を手元に集めた西郷隆盛は、非公式ながら他言無用として、天璋院にだけは「歎願の旨承諾」と返信しています。
江戸攻撃の日が刻々と迫る中、勝義邦は西軍への使者を考え、その白羽の矢を高橋泥州に向けます。その時、泥州は徳川慶喜を護衛していて離れるわけにいかず、泥舟の義弟である精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦します。
歴史では以上のようになっていますが、私(花見)は、慶喜の苦悩を身近で見ている高橋泥州が義弟の山岡鉄太郎に相談し、それを受け山岡鉄太郎が西軍との交渉に行くことになり、幕府の総参謀である勝義邦の邸を訪問して助言と許可を得たと見ています。
これで勝と山岡の思いは一致し、西郷と面識のない山岡鉄太郎は、勝によって西郷の人物の大きさを知り、誠意を以て理を尽すせば筋は通ることを確信します。
そこで鉄太郎は、案内人として江戸市内攪乱の首謀者として獄舎に入っている薩摩藩の益満休之助の解放を要求します。
ここでも歴史は都合よく、勝家に匿われていた益満を、勝が山岡の護衛に付けたとなっています。
どう考えても、これは勝海舟得意の冗談?としか思えません。
江戸で乱暴狼藉を働いた敵藩の首謀者を、幕府の責任者が自宅に保護と称して匿いますか?
ともあれ、清河八郎主宰の「虎尾の会」の仲間である益満の案内で山岡鉄太郎は、幾重にも重なる敵陣を突破して無事に駿府の大総督府へ到着、直ちに下参謀・西郷隆盛の宿泊とする館に乗り込み、西郷との面談を求めます。
つづく