足利尊氏にみる武士道

足利尊氏にみる武士道

花見 正樹

つい最近の歴史番組で、歴史作家の方が足利尊氏に触れて「地元の足利市の人は、逆賊と言われた尊氏の不人気に肩身が狭い思いをしていた」と発言されていました。
確かに、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏の悪名は、南朝に殉じて尊氏に敗れて自刃した楠木正成の潔い生き方と比べると仕方ありません。
しかも、勝てば官軍の倣いからみれば、北条一族に替わって朝廷政治に傾いた後醍醐天皇を追放して武家社会復活の室町幕府を築いたのは悪業とみるよりは功績とすべきとの考えもあって然るべきです。
それと、足利尊氏の生まれ故郷は足利ではなく、今の京都府綾部市で、私は尊氏が産湯を使った井戸の底も覗いていますしその井戸の水と同じ伏流水を使った地元酒造会社製造の大吟醸も頂いております。以上のごとく尊氏は京都府生まれ、足利市民が肩身を狭くする理由などどこにもありません。
では、綾部市民は肩身が狭いかというと、足利尊氏を生んだ土地として山﨑善也市長以下「綾部に尊氏あり」と、意気軒昂なのです。
足利尊氏は鎌倉時代末期から室町時代初期まで活躍した武人で、嘉元3年(1305)7月27日(88月18日)に丹波で生まれました。
幼名は又太郎、長じて高氏と名乗り、後醍醐天皇から名を授かれて尊氏となり、室町幕府初代征夷大将軍として在位20年に及びます。
父は足利貞氏、母は上杉清子、兄は高義、弟は直義と源淋(田摩御坊)です。
なお、足利高氏の高は、主家の北条高時の諱(いみな)の高を授けられたものです。
高時は、元弘3年(1333)に後醍醐天皇が伯耆の船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛して楠木正成と対峙したこともありますが、丹波国の篠村八幡宮(現京都府亀岡市)で倒幕を宣言して兵を集め、幕府に反旗を翻して六波羅探題を攻め滅ぼします。それに呼応した関東武士の新田義貞が鎌倉を攻めて北条幕府を壊滅します。
その北条滅亡の勲功第一とされた足利高氏は、後醍醐天皇の諱の尊治(たかはる)の一字を授かり、尊氏に改めますが、奇しくも尊氏は名付け親の二人、北条高時と後醍醐天皇を裏切ることになるのです。
足利尊氏、新田義貞、楠木正成などの活躍で王政復古を成し得た後醍醐天皇は、武士の台頭を防ぐために公家に厚く武家に薄い政治を行おうと建武の新政で独裁政治を敷きます。
しかし、これによって急速に人心を失った後醍醐天皇は、執権・北条高時の遺児・北条時行を奉じて蜂起した諏訪三郎等が鎌倉を落とした「中先代の乱」によって窮地に陥ったが、足利尊氏らの働きで20日天下の北条軍を撃破し乱を鎮圧します。
ところが、この乱を制圧した足利尊氏が、後醍醐天皇の武家に対する冷たい処置に反発していた尊氏は、鎌倉に留まって独自の武家政権の復活を図ります。
それに怒った後醍醐天皇は、尊氏討伐の軍を集めます。
その後醍醐天皇の動きを知った尊氏は、先手を打って少数の将兵を率いて上洛し、後醍醐天皇を比叡山へ追いやりますが、新田義貞や楠木正成らの後醍醐天皇側の軍に敗れ、一時は九州に逃げ落ちます。
しかし、後醍醐天皇から離れた多くの武士は尊氏の側に集りましたので、太宰府天満宮を拠点として軍団の建て直しを図った尊氏の元には次々と名だたる武将が集まり、たちまち大軍となりました。
尊氏率いる大軍は、湊川の戦いで新田義貞、楠木正成らを撃破して京都を制圧、後醍醐天皇は捕われの身になりました。
それでも後醍醐天皇は、手引きする者のおかげで無事に脱出し、吉野に籠もって南朝の創始を宣言します。
ここから南北朝の混迷時代が続きます。
一方、後醍醐天皇に反逆した足利尊氏は、新たに光明天皇を擁立して自らは征夷大将軍に任じて武家政権を開きます。
これが、15代のうち幕府所在地の京都を追われたのが7人、暗殺されたのが2人もいる戦国時代を生き抜いた波乱含みの室町幕府です。
さて、その後のことは省略で結論を急げば、主君・北条高時に牙を剝き、後醍醐天皇にも逆らった大逆罪の尊氏に「何の武士道ぞ!」という思いはあれど、腐敗した北条幕府を倒し、武士を弾圧して朝廷政治を推進した独裁者・後醍醐天皇を排除したのですから、武士からみれば足利尊氏こそ武士の中の武士、これが尊氏の行為を武士の鑑(かがみ)として尊氏の武士道を正当化する由縁です。