大石内蔵助良雄にみる武士道
花見 正樹
大石良雄こと通称・内蔵助(くらのすけ)は江戸時代前期の武士で、播磨国赤穂藩の筆頭家老です。
今では誰でも「赤穂事件」で知られますが、この事件を世間に広めたのはこれを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎の仮名手本忠臣蔵だったことも歴史上の事実です。
大石一族は、近江・三上山の百足退治で有名な藤原秀郷(ひでさと)の末裔である小山氏の系列です。
一族は代々近江国守護のもと栗太郡大石庄(現・滋賀県大津市大石)の役所にいたため、大石姓を名乗るようになりました。
その後、大石家は応仁の乱に巻き込まれて没落し、遠縁の小山氏が大石家を再興、大石良信の代には豊臣秀次に仕えたが秀次の切腹後、良信の次男・大石良勝(良雄の曽祖父)が浪々の身から播州赤穂の浅野家に仕官し、大坂夏の陣での戦功から家老に取り立てられ、代を継いで大石内蔵助良雄につながるのです。
良雄は延宝7年(1679)に21歳で赤穂藩の筆頭家老になり、貞享4年(1686)には但馬豊岡藩家老・石束毎公の娘・りく(18歳)と結婚し、以後、長男・松之丞(後の主税良金)、長女・くう、次男・吉之進(吉千代)、次女・るり、と5人の子を得ています。
元禄14年(1701)3月14日、良雄の主君・浅野長矩は、江戸へ下向する東山天皇の勅使の接待役を幕府より命じられていたが、その接待指南役・高家肝煎・吉良上野介義央に対して、儀式が始まる直前に松之大廊下において刃傷におよびます。
傷は眉間を切っただけで命に別状はなかったが、朝廷との儀式を台無しにされた将軍・徳川綱吉の怒りに触れ、大名としては異例の即日切腹で赤穂浅野家を改易断絶処分にし、一方の吉良上野介には何の咎めもなかったのです。
幕府の意向は「喧嘩両成敗」ではあるが、吉良上野介が抜刀しなかったために、この事件は「喧嘩」とは認められず、吉良側には咎めがないと判断し、一方的な処置になったものです。
しかし、主君・浅野内匠頭のみ切腹に処せられ御家断絶に処せられ浪々の身になる浅野家家臣達は当然ながら反発します。
筆頭家老・大石内蔵助は、主君の弟・浅野大学を擁しての浅野家再興の道も考え、籠城抗戦を訴える藩士達を抑え、幕府の申し入れ通りに赤穂城を明け渡す事にします。
しかし、その浅野大学の閉門が決まって播州浅野家再興の道が閉ざされると、大石内蔵助は方針を一転して吉良邸に討ち入る事を表明します。その後のことは省略しますが、大石は江戸に下るとすぐ仲間を招集し討ち入りの手筈を整えます。
元禄15年12月14日 (1703年1月30日)、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首級を討ちとります。
この時討ち入りに参加した大石以下47名は、吉良の首を泉岳寺に眠る主君・浅野内匠頭の墓前に供えて敵討の奉告をします。
この泉岳寺への引き上げの途上、伝令役として隊を離れた足軽の寺坂吉右衛門を除く四十六人は、幕府の命に従って各藩預けとなった後、全員が切腹して果てます。
従来は、肉親や親族が殺害されたための敵討だったのが、前代未聞の主君の仇討ちではあったが、義に基づいた快挙であるとしてこの赤穂事件は、武士道の鑑として現代もなお語り継がれています。
なお、この義挙?を指揮した大石良雄を、南北朝時代の忠臣・楠木正成(くすのぎまさしげ)に再来とする記述を見たことがありますので次回の「武士道」は楠木正成を予定しています。