真田信繁(幸村)の武士道

真田信繁(幸村)の武士道

花見 正樹

真田信繁と本名で聞くとピンと来ない人でも、真田幸村といえば誰でも分かります。
信繁は、真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として生まれました。、永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)との説もありますが死没した日ははっきりしています。
その死は、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の大坂夏の陣での奮戦での討ち死にとして語り継がれています。
その墓所はそれぞれ縁の深い、長野市の長国寺、京都市の妙心寺塔頭養徳院、宮城県白石市の田村家墓所、秋田県由利本荘市の妙慶寺の4ケ所にまたがっています。
信繁は、戦国大名・真田昌幸の次男(長男は信之)として生まれ、通称は左衛門佐で、源二郎、源次郎の名も用い、幸村の名は後世になって伝えられています。
真田氏は、信濃国小県郡の土豪で、一族は甲斐国・武田晴信(信玄)に帰属し、越後の上杉謙信との抗争などで活躍し、信繁の父・昌幸は、武田家の足軽大将として武田庶流・武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで長兄と次兄が戦死したため、真田氏を継いで真田昌幸の名に戻っていて、信繁も真田氏の一員として育っています。
天正7年(1579年)には武田・上杉が和睦し越後との抗争は収束したが、一方で相模の後北条氏との同盟が破綻します。
そんな時、天正10年(1582年)春、織田・徳川連合軍との戦闘で武田氏が滅亡、真田氏は織田信長に恭順します。
真田氏は上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡などの所領を安堵、信繁は人質として、関東管領として厩橋城に入った滝川一益のもとに送られます。その数か月後の起きた本能寺の変により信長が横死すると、空白になった甲斐の国・武田遺領を巡って、上杉氏・後北条氏、徳川氏三者の勢力争いが始ります。
滝川一益も軍を率いて関東を離れますが、その際に信繁も同行し、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡します。その後、信繁はひとじちのまま越後に送られます。
その頃、真田一族は上杉氏に帰属して、天正13年(1585年)の第一次上田合戦において徳川氏と戦って勝利しています。
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると信繁の父・真田昌幸はこれに帰属し、大名として処遇されます。
その後、信繁は人質として大坂に移りますが、そこで豊臣家臣の大谷吉継の娘を妻に迎えます。
天正17年(1589年)12月に秀吉の小田原征伐が号令されると、翌年、真田昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと共に松井田城・箕輪城攻めにかかります。
一方の信繁は、大谷吉継の陣に入り、石田三成の指揮下で忍城を攻めます。
文禄3年(1594年)11月、信繁は、岳父・大谷吉継の縁もあって従五位下左衛門佐に叙任され、さらに豊臣姓を下賜されています。その上、信繁は秀吉の馬廻衆として、父・真田昌幸とは別に1万9000石という高い知行を与えられ、大坂・伏見に立派な屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されます。
秀吉の死後、その信繁に、兄との別離という悲しい事件が起こります。
慶長5年(1600年)、徳川家康が、同じ五大老の一人だった会津の上杉景勝を討伐すべく兵を起こして動きます。
すると、それに乗じて留守を預かる五奉行の一人・石田三成が挙兵し、急ぎ戻った徳川軍と関ヶ原で対峙します。
この戦いで信繁と父・信幸は秀吉の恩義から西軍に加勢し、兄の真田信之は妻が家康の家臣・本多忠勝の娘(小松殿)であることから、東軍について兄弟がここから敵味方に袂を分かつことになります。
徳川家康の三男・徳川秀忠軍は、中山道制圧を目指して3万8千の大軍で、真田昌幸・信繁親子が籠る上田城を攻めます。
ところが、真田昌幸・信繁親子の巧みな軍略に攻めあぐねた徳川秀忠軍は、ついに上田城を落とせず、家康の命で急ぎ上洛するが、天下分け目の関ケ原の大戦に遅れるという失態を犯しています。
西軍が破れたことによって、真田昌幸・信繁親子は本来なら死罪を命じられるところだが、信之とその義父・本多忠勝の取り成しによって高野山配流で済みますが、父・昌幸は蟄居中に死去、信繁は出家します。
慶長19年(1614年)になって、鐘に刻んだ「国家安康」の文字を巡って、豊臣家壊滅を狙う家康の無法な言い掛りに端を発した方広寺事件から悪化した徳川氏と豊臣氏との争いが始ります。
軍勢で大きく劣る豊臣軍は、全国の浪人を集める策に出て、出家した九度山の信繁の元にも使者が訪れます。
それに呼応した信繁は、真田を慕う旧臣や足軽を集めて嫡男大助幸昌と共に大坂城に入ります。
信繁の軍は、鎧を赤で統一して「真田の赤備え」といあわれ、敵に恐れられる存在になります。
その暮れの大坂冬の陣では、信繁ら浪人組は籠城案に反対し、京都を支配下に抑え、近江国瀬田の瀬田橋付近で徳川軍を迎え撃つ策を主張しますが、豊臣家古参の大野治長らに反対され、軍議は籠城策で決定します。
籠城が決まった直後から信繁は、大阪城の一角に出城を築き、そこを真田丸と名付けて真田軍の拠点にします。
この真田丸の築造現場を見た大野治長ら豊臣方武将は、これを築いた信繁が徳川方に寝返ることを疑って警戒していたという逸話があります。
しかし、そんな噂を吹き飛ばすように、大阪冬の陣の戦闘での真田信繁軍の活躍は目覚ましく、ことごとく寄せ手の大軍を撃退し、その武名を天下に轟かせます。
冬の陣の講和後、この真田丸は堀埋め立ての案と共に取り壊されてますが、それを一番望んだのが家康でした。
堀を埋められ真田丸を取り壊され、浪人に去られて戦力激減の豊臣方に再戦の力はありません。
やがて、準備万端で再び大阪城を攻めた徳川家康軍の前に、豊臣軍は善戦空しく敗れ去ります。
夏の陣で武名を馳せた真田信繁の元には、徳川家康から寝返りを条件に「信濃一国を与える」とありましたが、信繁は敢然とこれを断り、わずか数千の将兵で数万の徳川軍と渡り合い、散々に敵を苦しめて見事に散ります。
この真田信繁の活躍は、黒田長政によって作成された「大坂夏の陣図屏風」でも知られ、版画の錦絵、江戸中期の文集「真田三代記」、江戸時代後期の島津家伝承「薩藩旧記」にある「真田は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、などと記されています。夏の陣で本陣まで攻め込まれた家康が「切腹での自決まで考えた」という説は、家康本陣を守った藤堂高虎の一代記「高山公実録」にも「御旗本大崩れ」と記されていて事実だったようです。
いずれにしても、豊臣秀吉の恩顧に応えて義の一念を貫いて敢然と散った真田信繁(幸村)の見事さこそ武士道の鑑というべきです。