武田信玄(晴信)にみる武士道

武田信玄(晴信)にみる武士道

花見 正樹

上杉謙信といえば武田信玄・・・まるでセットのように語られます。
甲斐の武田信玄は、越後の上杉謙信と並び称され「甲斐の虎、越後の龍」などとも呼ばれます。
戦国時代(室町時代後期)の大永元年(1521)11月3日に生まれ、元亀4年(1573)4月12日に53歳で没しています。
天文5年(1536)に16歳で元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜り、「晴信」と改めます。
元服後に、今川義元の斡旋で左大臣・三条公頼の娘・三条夫人を継室として迎えています。
晴信の元服直後の出陣は、天文5年11月、父・信虎が攻めあぐねていた信濃国佐久郡海ノ口城主平賀源心との戦闘で、困難を極めた攻城戦で、晴信は家臣の将兵を鼓舞し自らが率先して城内に攻め込み、この城を一夜にして落城させたと言われます。
それからは家臣の信頼を集め、天文10年には父・信虎の駿河追放によって、晴信は武田家第19代の家督を継いでいます。
晴信は家督継承と同時に、それまで父・信虎が同盟していた駿河の今川氏、上野国および扇谷の上杉氏、信濃諏の訪氏と離反、
信濃諏訪領への侵攻を開始します。
天文11年(1542)には諏訪氏庶流の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始して、和睦後に諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を掌握します。
その後、破竹の勢いで信濃国長窪城主・大井貞隆、上伊那・高遠城に侵攻して高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を倒します。
晴信は、ただ戦うだけでなく、父・信虎時代に対立していた後北条氏と和睦し、その後も今川氏と後北条氏の対立を仲裁して、両家に恩を売り、甲相駿三国同盟へと西方の不安をなくします。
晴信は、今川・北条との関係が安定したことで信濃侵攻を本格化させます。
天文16年(1547)には志賀城の笠原清繁を攻め、さらに小田井原で上杉・笠原連合軍と戦って大勝します。
晴信は、領国支配にも配慮し甲州法度之次第(信玄家法)を定めます。
天文17年(1548)2月には宿敵・信濃国北部に勢力を誇る宿敵の葛尾城・村上義清と上田原で激突して、晴信は初めて敗れ、重臣・板垣信方、甘利虎泰ら多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負って甲府・湯村温泉で1ケ月の湯治をしたといいます。
この機に乗じて小笠原長時が諏訪に侵入、それを傷癒えた晴信が塩尻峠に迎え撃ち、小笠原軍を撃破して撃退します。
この恨みを晴らすべく晴信は小笠原領に侵攻しますが、小笠原長時は林城を放棄して村上義清のもとへ遁走します。
勢いに乗った晴信は、村上義清の支城である砥石城を攻めますが、武田軍はまたも大敗を喫します。
しかし、天文20年(1551)4月、武田に与した真田幸隆の戦略で砥石城が落城、これによって武田軍が優勢になり、天文22年(1553)の戦いで村上軍を撃破、村上義清は主城の葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡します。こうして晴信は北信を除き信濃をもほぼ平定します。
ただ、これによって眠っていた「越後の龍」を目覚めさせてしまいます。
その天文22年(1553)4月、村上義清や北信豪族の要望で立ち上った景虎(上杉謙信)は信濃に出兵します。
以来、甲越対決の端緒となる戦いがはじまるのです。
このときは景虎方が武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避け、景虎もまた軍を積極的に動かすことなく両軍ともに撤退して戦いを避けます。
その後、景虎の支援を受けた武田側の大井信広が謀反を起こし、直ちに晴信はこれを鎮圧、小競り合いが始ります。
晴信は信濃進出に際して、駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めて和睦しており、安心して長尾景虎と対峙することが出来ます。
その後、信玄は北信侵攻を続けますが、謙信の上洛もあり、大きな戦闘にはなりませんでしたが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いが一連の戦いの中で最大の激戦となり、武田軍は副将・武田信繁や諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身も負傷する始末です。
この第四次川中島合戦を契機に武田軍の信濃侵攻は一段落します。
武田信玄は方向転換で、西上野侵攻を開始します。
だが、上杉旧臣の長野業正の抵抗で結果ははかばかしくありません。それも、長野業正が永禄4年(1561)に死去すると、に武田軍は長野軍を激しく攻め、永禄9年(1556)9月、ついに箕輪城は陥落し武田軍は上野国まで進出します。
元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちに際して、信玄は信長を「天魔ノ化身」と非難罵倒し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させるべく図り、信長への敵意を顕わにします。
さらに正親町天皇の弟宮で天台座主の覚恕(かくじょ)法親王も甲斐へ亡命、仏法の再興を信玄に懇願します。
信玄は覚恕を保護すると共に、元亀3年(1572)10月に信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発して、諏訪から伊那を経て遠江に向かいます。
この先は、三方ヶ原の戦いで徳川軍に大勝、さらに進軍中に体調を崩し、急遽甲斐に引き上げる途上・信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)の三河街道上で死去します。
信玄の勝頼や家臣への遺言が遺されています。
「我が死を3年間秘し、遺骸を諏訪湖に沈める事、信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」
勝頼はこの遺言を守ろうとしたが、信玄の死は全国に知れ渡り、織田信長との決戦が近づくのですが、信頼が越後の上杉謙信を頼った形跡はありません。信玄の死を知った謙信は「よき友を喪った」と号泣したと聞きます。
信玄の一生は、国土と領民の安泰のために信ずる道を進む、この武士道には納得せざるを得ません。