上杉謙信(景虎)にみる武士道
花見 正樹
上杉景虎は、戦国時代(安土桃山時代)の著名な武将で「越後の虎」とも「越後の龍」とも呼ばれていました。
享禄3年(1530)1月21日に生まれ天正6年(1578)3月13日に49歳で没しています。
幼名・長尾虎千代から景虎、上杉政虎、輝虎、謙信、と名を変えていて、さらに別名として平三、宗心(臨済宗名)などがあり、謙信の名は、出家してからの法号名です。
長尾氏は、本家・上杉家の下で越後国の守護代を務めたいた名家です。
景虎は、兄・晴景の養子となって長尾の家督を継ぎ、次いで関東管領上杉憲政から家督を譲られ、上杉政虎と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎます。
その後、将軍・足利義輝より輝の字を譲り受けて、上杉輝虎とも名乗ります。
以後、謙信と称します。
謙信の初陣は15歳、その後、生涯で70回以上も戦場に出ていて、敗けたのは2回だけで、その1回は、川中島の甲斐との戦いで上杉軍が疲労困憊していた隙を、北条氏康の大軍に襲われたもので、戦って敗けたのは1回だけです。
それに比べて、武田信玄は49回の戦闘で11回、織田信長は23回戦って9回敗けたとされていますので、景虎の強さが際立っているように思えるのです。
謙信は、長期に渉って内紛の続いた越後の国を統一し、産業を興して国を繁栄させ、他国への援助も惜しまず、周辺地域の秩序回復のために力を尽し、生涯を戦いに明け暮れています。
この上杉謙信は義に篤く、私欲のためには戦わず、大義名分のない戦いには全く関心を示しません。
それだけに領地拡大のためには手段を選ばないrd私欲のためにがなく義に篤いく戦いには大義名分を重視していました。川中島の戦いは村上義清や小笠原長時の、関東出兵は関東管領上杉憲政を助けるための戦いであり、己の利益を追求するものではありませんでした、こうした謙信の姿勢が、領土拡大のためにあらゆる手を使った他の戦国大名から見ればあまりにも無欲過ぎて不気味に感じて怖かったと思えます。
上杉謙信自身が自らを「毘沙門天」と称して正義のために戦った上に、深田で鍛えた半農半士の越後軍団の強さも抜群でした。
上杉謙信は幼少時から兵学を学び、城攻めや野戦時の戦い方を学んだのも強みです。
その博識と抜きんでた戦闘力を以て揺るぎない地歩を築いていたのです。
こうして様々な角度から見た時、義と仁に篤い上杉謙信自身の生き方が武士道そのものに思えてくるのです。