坂本龍馬にみる武士道-7

坂本龍馬にみる武士道-7

花見 正樹

慶応3年(1867)11月15日、龍馬が暗殺された当時は新選組犯人説が有力でした。
その後、下総流山から拉致された新選組局長・近藤勇は、龍馬暗殺を疑われて斬首されています。
ところが明治3年になって、箱館戦争で捕虜になっていた元幕府見廻組・今井信郎が犯行を自供します。
与頭・佐々木只三郎ら6人が坂本と中岡を襲撃、その中に自分もいたと述べたのです。
現在ではこれが定説になっていますが、この時点での生存者は今井信郎ただ一人ですので、未だに謎は残ります。
刑を軽くするための司法取引ではなかったか、という人もいますし、売名行為だと断定する人もいます。
しかも、今井自身が最初は外での見張り役と自供、後に、実は「二階に行き龍馬を斬った」と証言を変えています。
薩摩藩、土佐藩の黒幕説も今もなお疑われています。
坂本龍馬は死亡時に、32口径のS&Wモデル1/25連発銃を懐中にしていたことも分かっています。
風邪をひいて厚い綿入れ半纏を着ていて動作が鈍り、すぐには拳銃を出せなかったと考えられます。拳銃をとりだしたとしても撃鉄を起こす動作がありますので、選び抜かれた手練れの暗殺者の鋭い剣風には間に合いません。
切りかかられてから、本能的に刀掛けから刀を取り上げ、とっさに次の攻撃を鞘で受けますが反撃は出来ませんでした。
拳銃も刀も使う間がなかったのは、刺客の攻撃が早かったのか、顔見知りだったのか、二つに一つです。
これが、柳生十兵衛や宮本武蔵だったら? 残念ながら龍馬はそこまでの剣術使いではありません。
熱狂的な龍馬ファンの間では、龍馬が剣豪であるかのような表現を聞きますが、龍馬が剣術の試合で勝った記録はどこにもありません。龍馬の千葉定吉道場での免許は、婚約者(不履行)の千葉佐那の裏書のある長刀(なぎなた)免許です。もっとも、当時の武士が、女子が学ぶ長刀の免許を得るなど考えられませんから、常識に捉われない龍馬はやっぱり「凄い」のです。
龍馬は、同じ日本人同士の殺し合いを極力避けたかったのは間違いありません。
大政奉還から公武一体での「新国家構想」こそ好漢・坂本龍馬の貫き通した「武士道」の意地だったのです。
この項終わり。
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