坂本龍馬にみる武士道-5
花見 正樹
龍馬は、親類の武市半平太を死に追いやった後藤象二郎と手を結ぶにあたって、亀山社中を「海援隊」との名称に変えて藩からの援助を約束させました。
これによって、総員50名からなる海援隊が、自主自立の方針から、運輸や海外交易、開拓事業から軍事に至るまでの全てが、土佐藩を助けることとなり、それによって隊員の給料が藩によって保障されることになります。
その海援隊が使う船は、大洲藩から1航海500両の契約で借りたイロハ丸という蒸気船です。
ところが、そのイロハ丸が瀬戸内海沖で紀州藩の大型帆船{明光丸」と衝突して沈没してしまったのです。
さあ大変です。
龍馬はあの手この手を使って、紀州藩側が悪いと厳しく追求し、船舶に積荷の銃火器類や金塊・陶器などを加えた8万4千両弱の賠償金を請求し、最終的に7万両を約束させます。
近年、その沈没船が引き上げられ、龍馬の主張した積荷は全く見当たりませんでした。
龍馬が主張した沈没船内の積み荷は、最初からなかったのか、後世の何者かが密かに引き上げたのか、二つに一つです。
もしも、龍馬の主張が嘘だったとしたら、龍馬にペテン師的要素があり、騙された紀州藩も迂闊(うかつ)だったのです。
私は時折、龍馬は元来が町人郷士の出、龍馬の生き方そのものが精いっぱいの武士道だった気もします。