織田信長にみる武士道-5


織田信長にみる武士道-5

花見 正樹

天正3年(1575)4月、武田勝頼は2万の軍勢で徳川に寝返った奥平貞昌の長篠城を攻めます。
しかし、武田軍が長篠城を攻略出来ずにいる間に信長が3万、徳川軍が8千の兵で合流し、反撃します。
5月21日、設楽原(しだらがはら)に防御柵を巡らせた3万8千の織田・徳川連合軍と、2万の武田騎馬軍団の戦いが始まります。これが世にいう長篠の戦いで、1千丁以上の火縄銃での織田・徳川連合軍の圧勝でした。
これを機に甲斐の武田家は滅亡に向かいます。
7月、正親町天皇から信長に官位が与えられますが信長がこれを固辞し、家臣への授与を願い出ます。
天皇が信長の申し出を認め、明智光秀、丹羽長秀ら10人ほどに官位と高位の姓が与えられました。

8月、長篠の戦いに勝った勢いで信長軍は越前に侵入し、内部分裂していた越後の国の大名や一揆衆を掃討します。
越前国を一度は織田領とした上で、越前八郡の全てを重臣の柴田勝家に与えました。
天正3年(1575)秋、信長は権大納言、さらに、右近衛大将という征夷大将軍に匹敵する官職に叙任します。
信長はこの就任にあたって公卿を動員し、御所内にて将軍就任式の儀礼を執り行います。
これ以後、信長は人々から「上様」と呼ばれることになります。
当時、将軍・足利義昭が未だに近衛中将でいたから、近衛大将の信長は、将軍より上位ということになります。
これを機に信長は、嫡男の信忠に織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲ります。
ただし、織田政権の政治・全軍を総括する立場にあるのは、あくまでも信長です。

天正4年(1576)1月、琵琶湖湖岸(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に安土城の築城を開始します。
安土城は天正7年(1579)に完成しますが、その姿は五層七重の豪華な城でした。
信長は安土城に移り住み、ここを拠点にして天下統一を目ざします。
4月、本願寺の反乱があり明智光秀を大将とした3万の大軍が出動、数か所に分散して敵に備え砦を築きます。
ところが伏兵の襲撃で織田軍は千人以上の戦死者を出す大敗を喫し、7千人が天王寺砦に立て籠もります。
本願寺軍は1万5千の兵でこれを包囲して攻勢を強め、織田軍は窮地に陥ります。
これを知った信長は、自らが3千の兵を率いて、天王寺砦を包囲する敵の大軍に襲いかかります。
白刃を振るう信長自身も負傷するという激しい戦闘になりますが、織田軍は信長の出陣で士気が高まり圧勝します。
信長は、戦いの最前線に立って雑兵とも斬り合いました。その姿は、まさに鬼神と人は言います。

天正6年(1578)4月、信長は突然、右大臣・右近衛大将の官職を辞します。
7月、毛利軍が上月城を攻略します。
11月、信長は、水軍の将・九鬼嘉隆の推奨する鉄甲船を採用し、これで毛利水軍を撃破し完勝します。
天正7年(1579)5月15日、信長は明智光秀に3日間、安土城を訪れた徳川家康の接待役を命じます。
その最中に、備中高松城攻めの羽柴秀吉より援軍の依頼があり、信長は直ちに光秀に援軍を命じます。
光秀の接待に不満をもった信長が、光秀の役を解いたのか、秀吉の危機を救いたかったのか真相は分かりません。

5月29日、信長も中国遠征の準備のためもあって上洛して本能寺に逗留します。
6月2日、本能寺の信長を、秀吉への援軍に行くはずの明智光秀の大軍が襲撃、信長は戦った末に自刃します。
火を放たれた本能寺は織田軍の武器弾薬庫でもあったことから信長の死体は爆砕されて消失しました。
享年満48歳、人生50年と謡い天下統一を目前にしての無念な死であったことと思われます。
信長は、將としては天下統一を目指し、一人の武士としても自分の信念を貫き通しました。