織田信長にみる武士道-4
花見 正樹
元亀3年(1572)10月、信長が足利義昭に送った17条の詰問文により、二人の関係の悪化は決定的になります。
武田軍が徳川領に侵入、信長も3千の援軍を送るが、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗します。
三河攻めの武田信玄が4月12日に病死、武田軍は甲斐に戻りますが、信玄の死は暫く伏せられていました。
信玄の死を知った信長は、再び二条御所に立て籠もって抵抗する足利義昭を破って追放、これで室町幕府は消滅します。
天正元年(1573)、三好三人衆の残党後、3万人の軍勢で越前に侵攻し朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃します。
信長は小谷城を攻略、浅井久政・長政父子を自害に追い込み、長政に嫁いでいた妹・お市とその娘らを引き取ります。
天正2年(1574)3月、信長は従三位参議に叙任されるために上洛します。
このとき信長は、正親町天皇に対して「香木の切り取り」を要請、天皇に勅命を出させれ了承させています。
天正3年(1575)3月、信長は石山本願寺に10万の大軍で押し寄せ、その周辺を焼き討ちにし皆殺しを図ります。
「なかぬなら 殺してしまへ ホトトギス」という歌は、詠み人知らずですが信長の性格をよく表しています。
こんな話もあります。美濃の山中に足の悪い男が街道沿いで物乞いをしているのを何度か目にした信長は、これを憐れみ、上洛の途上に近隣の村人を集め「この者に小屋を与え、飢えないようにせよ」と応分の金品を与えて要請したので、人々はみな感涙したといいます。
ポルトガルの宣教師フロイスは、信長の人となりをよく観察しています。
「信長は名誉心に富み、正義感が強く厳格であったが人情味と慈愛を示すこともあった。何事に貪欲でなく決断力に富み、老練でせっかち、激昂はするが、平素は温厚だった。酒を飲まず食を節し、きわめて率直で尊大であった。
彼は忍耐強く理性と明晰な判断力を有し、神仏や迷信的慣習を嫌った。
霊魂、来世などはないとした。彼はきわめて清潔で丹念で、対談でも遷延や長い前置きを嫌い、身分の卑賎な家来とも親しく話した。彼が格別愛好したのは茶の湯の器、囲碁、良馬、刀剣、鷹狩り、相撲だった。とくに相撲が好きで、身分の上下なく褌一つの裸体での相撲で、百姓でも強い者は家来に取り立てることもあった。彼がきわめて優秀な人物であり、非凡で賢明な統治者であったのは間違いない」
このように述べていますので、これだと、礼節を守り武技を磨く「武士道」の範疇(はんちゅう)から外れていません。
信長は、竹を割ったようなすっきりした面と、執念深く陰湿な性格と二面性があったような気がします。