織田信長にみる武士道-3
花見 正樹
この戦いの後、今川を離れた三河の松平元康は名も徳川家康と変えて独立します。
これからの信長は、家康と手を結んで「清州同盟」とし、今川に敵対します。
この軍事同盟によって、信長は美濃国攻略に専念し、家康も駿河の今川家に抵抗氏真らに対抗することが出来ました。
永禄4年(1561、信長は美濃を攻めて大勝利します。
永禄7年(1564)には、北近江の浅井長政と同盟を結び、信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせています。
永禄8年(1565)、三好一族と松永久秀が将軍・足利義輝を暗殺、第14代将軍に輝の従弟の足利義栄を擁立します。
永禄11年(1568)秋、信長は大義名分として将軍家に足利義昭を奉って、強大な武力を背景に上洛を開始します。
信長は、足利義昭を第15代将軍に擁立、義昭から勧められた副将軍も断り、恩賞も望まずに尾張へ戻ります。
永禄12年(1569)1月、信長が尾張に戻った隙を狙った三好軍や美濃の斎藤軍が共謀して足利義昭の御所を襲います。
それを待っていたかのように信長は動き、明智光秀軍を義昭の御所に出向させて反乱軍を一掃します。
元亀元年(1570)、信長の上洛命令を無視した朝倉義景を攻め、徳川家康も浅井・朝倉連合軍を撃破します。
信長は、浅井父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を漆でかためて金箔を張った薄濃(はくだみ)にして酒宴に披露しています。
これは、戦った敵の勇気や覇気に敬意を表し酒に溶かして飲み込む、という中国の故事に倣ったものと言われます。
幕末においても薩摩藩などにおいては、討ち取った敵方の勇者豪傑の生肝を食する風習が残っていますが、これも同様の意味です。
元亀2年(1571)、信長は朝倉・浅井に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにして僧兵、浪人らの皆殺しを謀ります。
これを「禍根を後に遺さず」と勝利への正道とみるか、残虐非道の鬼畜の行状とみるかは、説の別れるところです。
この件に限らず、諸將が生き残りを賭けた殺し合いに明け暮れた戦国時代の武士道は、勝利への執念に満ち満ちて、勝ち抜き抜くことが武将の一義であって、江戸徳川幕府時代にみる太平の世の礼節を尊んだ武士道とは全く異なっていたのも止むを得ないことです。