織田信長にみる武士道-1
花見 正樹
天文3年(1534)5月12日、信長(幼名・吉法師)は、尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男として生まれました。
父・信秀は織田達勝傘下の3奉行の1人で豪肝勇猛、主家をも凌駕する勢いの城持ち奉行です。
信秀自分の住む城の他に、2歳の幼い吉法師のために那古野城をつくり、養育係に二人の家老を付けます。
信長の才能を見抜いた一番家老の林通勝は、幼い吉法師に英才教育を課し、武芸と学問をみっちり仕込みました。
信長の少年時代は、武芸、馬術、水泳、弓、鉄砲、鷹狩りと、めいっぱいの英才教育です。
信長は、13歳で元服して吉法師から三郎信長と名乗ります。
天文15年(1546)、14歳の吉法師は初陣を果たしました。隣国に侵入して火を放って民家を焼いただけとの説もあります。
天文16年の秋、父の織田信秀は美濃に侵入したところ、マムシの名がある斎藤道三に逆襲されて負け戦になりました。斎藤道三といえば主人を裏切って殺し、さらに美濃の国主・土岐氏をも謀殺してのし上がってきた海千山千の戦国大名です。
このマムシの道三を恐れた織田家家老が、道三の息女・濃姫と信長の政略結婚をまとめようと考えました。
天文18年(1549)春、美濃の国主・斉藤道三から信長に、国境に近い正徳寺での対面の申し出があります。道三は、織田信秀亡き後は、うつけ(バカ)者との評高き後継者の信長を殺せば尾張は手に入る、と考えたのです。
信長がうつけ者であるとの情報は、道三も聞いてはいましたが、自分の目でその程度を確かめたかったのです。
当日、道三は家来数人と早めに行き、村はずれのあばら家に潜んで信長一行の通過を眺めました。馬上の信長は食べ物を口に入れながら大声で家来と語らい、服装もまた思った以上に粗雑でした。噂通りのちゃんせん髷で半袴、腰に火打ち袋やひょうたんをぶら下げ、まるで山遊びにでも出かけるような態度です。
道三は家臣に、「噂以上のうつけじゃな」と、信長のうつけ振りに呆れたそうです。ところが、道三が何食わぬ顔で後から正徳寺に着くと、そこには、いつ着替えたのか正装の信長が待っていました。信長は髪もきちんと折り曲げて結び、柿色の長袴の腰に小刀を差し、堂々たる大名姿でした。
正式の挨拶があって盃を汲み交わし、二人の初対面は終わりますが、道三は家臣に語ります。
「以後、信長をうつけ者と呼ぶことは許さぬ。無念ではあるが、いずれ美濃はあの者に屈するであろう」
戦いでは容赦なく残虐な行為もした信長ですが、若い時から武士の心得として「礼節の心」は大切にしたようです。