武士道の謎ー2
神武天皇にみる武士道
花見 正樹
3月11日は何の日? と聞かれたら東北大震災の日と殆どの人が答えます。
しかし、ここでは違います。正解は、神武天皇がお亡くなりになった日(暦違いの矛盾は無視)です。
神武天皇は、若い時から戦いに明け暮れて、苦戦での撤退はありますが結果的には連戦連勝、生涯不敗で人生を終えます。
では、何歳でお亡くなりになったのか?
私(花見)は以前、長寿の研究をしていました。その頃お会いした泉重千代さんは118歳で死去し、日本一長寿と発表されています。
ところが、日向の国の磐余彦(いわれひこ)が、西日本を平定して大和の国の王として神武天皇を名乗ったのが初老の52歳、この年が神武元年。お亡くなりになったのが神武76年3月11日で、ご逝去年齢は127歳・・・私の記憶では間違いなく長寿日本一です。
これは神話だから架空の話だという歴史学者もいます。しかし、100%架空である証拠も未だに発見されていません。ならばその真偽は未来の歴史研究家にお任せして、ここでは実在の人物として話を進めます。
日本書紀での神武天皇の正式名は、「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、古事記では
「神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)」、幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱(いみな)は
「彦火火出見(ひこほほでみ)」と、様々な名があります。
天皇、八十梟帥(やそたける)を国見丘くにみのをか)に撃ちて、破りて斬りたまかき。このときに天皇の御意(みこころ)、必ず克(か)ちなむとおもひ給へり、乃ち御歌よみしたまはく、「神風(かむかぜ)の、伊勢の海の大石にや、い延(は)い廻(もと)へる、細螺(しただみ)の、細螺(しただみ)の、吾子(あご)よ、吾子(あご)よ、細螺の、い延ひ廻へり、撃ちてしやまむ、撃ちてしやまむ。
(注・柵螺(しただみ、キシャゴ、ゼゼガイ)は、直径2センチほどの淡褐色や灰青色の波状紋がある巻貝の一種で装飾にも用います)。
東征を決めた磐余彦は、兄の五瀬命(いつせのみこと)と共に一軍を率いて日向(現・宮崎県)の高千穂から筑紫に進み、さらに豊国の宇沙(現・大分県宇佐市)に進んで宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売(うさつひめ)兄妹を従属させ、筑紫の岡田宮(現・福岡県芦屋町付近か)、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや・現:広島県府中市周辺)、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや・現:岡山県玉)と、征服した豪族を従えてさらに東征、戊午年の2月に浪速国に進軍、3月は河内国に入って戦い、さらに4月には龍田へ進軍しますが、ここからが苦戦になります。
道が険阻な上に、大和国以前の原住民の長である長髄彦(ながすねひこ)が各地豪族の戦士を集めて待ち構えていて激しい戦闘になり、一時撤退します。この戦いで、磐余彦の兄・五瀬命は矢に射られて重傷を負い、紀伊国竈山で死去します。
その後も一進一退の戦いで苦戦が続き、磐余彦の東征は挫折したかに思えた時、天照大御神の計らいによって熊野の高倉下が、磐余彦に霊剣を授け、さらに、険絶な山路の案内にと天照大御神が磐余彦に贈られた八咫烏(やたのからす)が大活躍、よやく莵田(現・奈良県宇陀市)の地に入ることが出来ました。
そこに城を築き、磐余彦はこの地の強豪・八十梟帥(やそたける)や兄の磯城(えしき)らを討ち、12月、ついに人生で最強の敵・長髄彦との決戦になります。しかし、激しい戦闘で双方の使者が増えるだけで敗色濃厚、さすがの磐余彦も万事窮します。
その時、一天にわかに書き曇り霙(みぞれが)降ってきました。その霙と共に大きな鵄(とび)が飛来し、磐余彦の持つ弓の先に止まったのです。その瞬間、鳶が金色に輝いて光を発し、暗かった天地を眩しく照らし、優勢だった長髄彦の軍は大混乱に陥って同士討ちまで始める始末。この機に乗じて長髄彦の軍は反撃に転じて、ついに長髄彦の軍を殲滅し、近畿一帯の制圧に成功します。
磐余彦は3月、畝傍(うねび)山の東南の橿原(かしはら)の地(現・奈良県橿原市)を都と定め、辛酉年の正月、神武と名乗って日本で最初の天皇となります。時に52歳、同年に結婚もしています。
磐余彦(神武天皇)にとって、強敵・長髄彦との死闘はよほど骨身に応えたらしく、その心境を歌に遺しています。
その一つを「武道全集第十一巻」から引用してここに載せます。
長髄彦を撃ちたまかしときに、御歌よみしたまはく、
みつみつし、久米の子等が、粟生(あわふ)には、韮(かみら)一本(ひともと)、其のが根茎(もと)、其根芽、繋ぎて、撃ちてしやまず。
こうして戦いに明け暮れて、もののふの道を貫き、大和朝廷を築いた神武天皇は、波乱に富んだ127歳の人生を、一代で都を築いた橿原の地で閉じたのです。
磐余彦(神武天皇)の遺した他の歌には、もののふという文字も残されています。その行動的で激しい気性からみて私は、神武天皇の武士道とは、{戦い抜くこと}とみました。
なにしろ紀元前660年頃、弥生時代初期のことですから記述に曖昧な点はご容赦ください。
神武天皇が、なぜ武士道全集に載っているのか? 何となく納得して頂けましたか?
この一文をみてもまだ神武天皇の存在を否定される方も、次回は納得されるはず・・・ご期待ください。