大鳥圭介にみる武士道
花見 正樹
新渡戸稲造先生の「武士道」の四章では、は「勇気と忍耐」について語っています。
「勇気とは義のために行われるものでなければならない。そうでなければ、徳の中に数えられる価値はない」と、言います。
孔子の有名な論語に誰でも知っているこんな言葉があります。
「義を見てせざるは勇なきなり」
この言葉と対して、
「生きるべきときは生き、死ぬべきときは死ぬことこそ、真の勇気である」
との言葉があります。
武士道では、「勇とは正しきことを為すこと」とし、むだな猪突猛進の行為は賞賛されません。
戦場に飛び込み、討ち死にするのはたやすきことなれど、匹夫の勇の無駄死には武士道に背きます。
潔い武士の死を美徳とする私たちは、連戦連敗で逃げ回って生き延びた武将を賞賛することはありません。
ところが、中には例外もあるのです。
それが大鳥圭介です。
私たち歴史好き仲間の間では、大鳥圭介の評判は芳しくありません。
大鳥圭介といえば、最新装備で武装した国内最強の歩兵部隊である伝習隊を率いて各地を転戦し、薩長主体の奥羽征討軍と戦って連戦連敗、それでも真剣に戦うことを止めようとしない史上稀な負け癖のついた闘将というイメージです。
それでいて戦闘意欲満々、会津国境の母成峠で虎の子の伝習隊が壊滅してもまだ諦めずに北に逃げ、函館五稜郭での戦いでも最後まで大逆転を信じて徹底抗戦を叫んでいたのもこの人です。
本人は真剣でしょうが、何となく可笑しいのは、スペインの騎士道を風刺したドン・キホーテを思わせる存在だからかも知れません。
しかも、函館で敗戦し牢獄生活2年半、死罪を免れた途端、頭を切り替えて国のためにと割り切って命がけで働きます。
四十歳からの大鳥圭介は、外国の産業視察から帰国以来、日本の近代工業を築き、教育や美術に力を注ぎ、工部省入りしたあと、工部美術学校長、工部大学校長、学習院長、華族女学校長などを歴任、さらに清国在勤全権公使や朝鮮国駐節公使など幅広い活躍をします。
さすがの福沢諭吉も、新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚を名指しで裏切者呼ばわりしながら、大鳥圭介だけは見逃すのですから、人から憎まれないという徳が身についていたのかも知れません。それとも、福沢諭吉からみて、大鳥圭介は相手にされなかったのか? それも謎です。
播州赤穂の山際の小村の医師の家に生まれ、江川塾で砲術を学び、江川家手代の中浜万次郎から英語を学んだのをきっかけに幕府に急接近して、やがて旗本となり内乱に巻き込まれて日本の陸軍の基礎となる伝習隊を育て、やがては日本の産業と教育文化に大きく貢献した大鳥圭介・・・武士道からみて、少々横道に逸れたにしても、義に生きた一流の怪男児であるのは間違いありません。