河井継之助にみる武士道

河井継之助にみる武士道

村長

新渡戸稲造の武士道第十一章に克己心について触れた項目があります。
武士は、むやみに感情を表に出すべきではない。不平不満を口にせず不屈の勇気をもって耐える訓練も必要とするのです。
さらに、自己の喜怒哀楽を顔に現わして他人の平穏な心をかき乱すことがないようにすべきだ、とします。
ここまでを当てはめれば、多くの優れた敗軍の将を思い浮かべることが出来ます。
なかでも、越後長岡藩牧野家の家臣・河井継之介の人間性豊かな和睦への努力と戦場への決意など和戦両様の構えに心ある武士としての適切で冷静な対応を感じます。
河井継之介は、藩内切っての改革派で、慶応元年(1865)の郡奉行から町奉行と昇格する度に、大幅な藩政改革に着手し、風紀粛正や農政改革、灌漑工事や兵制改革など藩内のあらゆる改革を体を張って実施します。
そんな河井継之介が本領を発揮するのは、戊辰戦争勃発後の薩長土連合の奥羽征討軍との和睦交渉での対応です。
徳川幕府に大政奉還されて、攻めるべき目標を失た薩長土連合軍は、相手を幕府から会津潘に切り替えて無理矢理朝敵に仕上げます。
その会津進行への足掛かりに越後に侵攻したところで、長岡藩との交渉になります。
藩内は、非戦恭順派と徹底抗戦派に割れて一発即発の殺伐な情況になりますが、継之助は中立停戦を主張、藩内の両派を抑えて、薩長土連合軍に、会津藩との和睦調停交渉に臨みます。
交渉は、小千谷の奥羽征討軍本陣に近い慈眼寺において、新政府軍監・土佐潘の若い岩村精一郎との間で行われました。
河井継之助は長岡藩は中立を宣言、奥羽への侵攻停止を訴えて嘆願書を出したが、ここまで連戦連勝で来た岩村精一郎には中立など考えられず嘆願書も受け取らず申し出を拒絶、河井の和平中立の意図を理解できるわけもなく、降伏して会津藩討伐の先鋒になれと一方的に奥羽征討軍の要求を突きつけます。河井継之助が返事を渋ると、岩村が高圧的な態度で席を立って交渉は決裂、話し合う余地もありません。
それでも河井継之助は何とか話し合おうと夜まで粘りますが、岩村は会おうともしません。
これで和解を諦めた継之助は潘に戻り、軍議で長岡藩の徹底抗戦を議決し、奥羽列藩同盟にも加わって北越戦争へと突入します。
長岡藩内恭順派の世襲家老が交戦状態前に出奔したこともあり、藩主の絶対的信頼の元に継之助は開戦の全権を掌握します。
家老上席・軍事総督として戦いに突入した継之助は、近代的な訓練と最新兵器で武装した長岡藩の将兵を巧みに用い、開戦当初から奥羽征討軍の大軍と互角以上に戦います。その後、長岡城を巡る攻防戦で一進一退を繰り返すうちに継之助が左膝に銃弾を受けて重傷を負い、そこから絶対的な敵の兵力に押されて長岡潘が不利になり、長岡城が陥落して、継之助らは山深い八十里峠越えで会津へと向かいます。
継之助は峠を越えて会津藩領に入って只見村で休みますが、ここで体調が悪化し、ついに命尽きます。
中立和順の道を閉ざされ、降伏して会津攻めの先鋒を勤めるを潔しとせずに戦う道を選んだ河井継之助・・・地元では降伏帰順していれば土地は荒らされなかったとの説から継之助を悪人とみる人もいますが、多くの人は河井継之助の正義と勇気に心を惹かれます。
私も、只見村取材行で八十里峠の山道に踏み入り、河井継之助終焉の家を訊ねて、少ない兵力で奥羽宇征討の大軍を蹴散らした河井軍略の妙が、継之助が怪我をしなかったらどうなったか? 河井継之助の武士道の神髄を知りたいような気もします。