木村銃太郎、丹羽一学にみる武士道

木村銃太郎、丹羽一学にみる武士道

武士道の最も偉大で崇高なものは「命は義に依って軽し」という義と仁のために命を投げ出す心だと新渡戸稲造博士も認めています。
主君の為には命を惜しまない覚悟の忠節も大切ですが、私達の心の琴線に触れるのは、この義に触れた時のような気がします。
南北朝時代の楠木正成・正行親子、元禄時代の赤穂義士・・・その流れは幕末にも連綿として続いています。
武士道の根本が、義であるとしたら、幕末こそが武士道の華々しく花開いた最盛期で、そこから今でも細々と続いているのを感じます。
我々日本人の血の中のどこかに仁、義の心があるからこそ、大震災でも倒壊家屋荒らしなど外国では当然のような犯罪が少なく、むしろ救助のためのボランティアや救援金が続々と集まってくるのです。これこそ日本人の誇るべき特質で、これも武士道のお蔭です。
幕末への入り口となるペリー来航以来、尊皇攘夷論が湧きあがり、勤皇か佐幕かで国は真っ二つに割れ、勤皇であれ佐幕であれそれぞれが自己の信ずる武士道に賭けて命がけで戦い、義のために死んでいます。
この武士道の鑑(かがみ)は必ずしも個人の名誉だけではありません。
幕末の戊辰戦争で、藩を挙げて戦って壊滅した東北の二本松藩などは、潘そのものが武士道の塊のようなものです。
それが奥州二本松10万5百石の二本松藩、少年、老人も集めてわずか2千の将兵で真正面から臆することなく、数万の薩長連合軍を相手に戦い、潘の重役の殆どが城を守って討ち死にします。そこには壮絶なまでに凛とした義への思いがあり死をも恐れぬ勇気が漲っています。
南に隣接する三春藩が、奥羽列藩同盟に参加したにも拘らず、何の抵抗もなく降伏して新政府軍の先鋒を勤めて大軍で攻め入って来ると知って、藩の重役会議では戦うにも主力の軍勢は筆頭家老・丹羽丹波が率いて白河城の攻防戦に遠征中で不在、新政府軍の大軍が明日にも城下に迫るとの緊迫した情況での軍議だけに誰もが必死で鬼気迫る雰囲気で怒号が交差します。徹底抗戦を叫べば全軍壊滅を意味し、戦わずしての降伏は奥羽列藩同盟への裏切りとなる。退くも進むも地獄とあって軍議が拮抗して荒れているところに、仙台での列藩会議から二本松潘危うしの急報に接して馬を駆って帰潘した新任家老・丹羽一学が軍議の空気を察して穏やかな表情で決然と言います。
「我らは会津を救うために列藩同盟に加わった。今、それを裏切って敵の先鋒となって会津を攻め、今日までの友と殺し合う。それで武士の義が立つのか? それで、二本松武士の名を後世に残せるのか?」
ここは私が書き進めている戊辰内乱の一節ですが、史実はここから軍議が一変して徹底抗戦に踏切り、藩主の身内から勧められた和議の申し出を断って老人や少年兵まで駆り出しての徹底抗戦となります。
その少年隊を率いたのが22歳の青年将校・木村銃太郎です。
銃太郎は二本松藩砲術指南の家に生まれ、藩命で江戸の江川太郎左衛門に弟子入りして砲術を究めて帰潘し、12歳から17歳までの藩士子弟を門人にして将来の二本松武士を育成していました。この日、突然、戦地への出陣を命じられ、銃太郎はその教え子達を引き連れて、阿武隈川近い大壇口へ出陣し、新政府の大軍に対して一歩も引かぬ死闘のうちに被弾して瀕死の重傷を受け、副隊長の介錯を受けて絶命します。
教え子達を庇っての見事な戦いぶりは「敵ながら天晴れ」と敵将の板垣退助も、共に散った少年兵をも含めて賛辞を惜しまなかったと伝えられています。と、同時に、板垣退助は「全藩を挙げて命を惜しまず戦った二本松藩こそ武士の鑑」との言葉を残しています。
なお、前述の家禄六百石の新任家老・丹羽一学は城壁の銃狭間から銃で応戦し弾尽きると弓矢で戦い、白兵戦で敵を倒し、矢折れ刀尽きて自決して他の家老共々焼け行く城と運命を共にします。
私は、この二本松城の攻防に義に生きた武士の覚悟と潔さを見て、それぞれの墓前に詣でしばし瞑目の時を過ごしました。