世良修藏にみる武士道

世良修藏にみる武士道

新渡戸稲造「武士道」の「第二章・武士道の淵源」を眺めていると、英国を偉大にした石の話から、日本の要(かなめ)の大きさ、武士道の偉大さに触れています。
その上で、クエーカー教徒の言葉を借りて、戦闘が残虐で過ちだらけだとしています。しかし、それでもなお武士道には、その過ちの中からでも、美徳が生まれることを私達は知っている」と言っています。さらに、卑怯で臆病な者とされたら、健全な人間にとっては最悪の侮蔑だというのです。

武士道もそれと同じですが、年を経るにしたがって人間関係も広くなって、その正しいと信じた道に対する信念はそれ自身の正当化につながり、さらに高次元の道理に合った判断を求めるようになります。もしも、我が国の武士道を重要視する武士達の集団が次元の高い道徳的な心得なしに進められたとしたら、その武士達は、あまりにも武士道とかけ離れたレベルの低いものになったであろうと推察できます。
諸外国、とくにヨーロッパではキリスト教が騎士道に都合よく拡大解釈されて騎士道精神に迎合されています。
外国には「宗教と戦争と名誉とは、キリスト教騎士の魂がある」という説がありますが、日本においても武士道にもいくつかの起源があります。
武士道の淵源とは、その源を探ることですが、その源に仏教と神道があります。
まず仏教から考えますと、仏教は、武士道に人の運命や死に対する穏やかな安らぎの信頼の感覚、運命で定められた不可避なものへの諦め、危機を目前にしたときの覚悟と平静さ、生への執着への侮蔑と親近感などをもたらします。
つぎに、禅による悟りがあります。
剣術の達人・柳生宗野は、弟子に対して剣技の極意を得たら、つぎは禅に学べ」と教えました。
禅は、言葉による表現の範囲をこえた深い思考の世界に到達できる人間の精神的支柱となります。
神の世界は、それらを包括した森羅万象の領域を含む悟りの世界で、その先に武士道なるものが崇高な姿で正座しています。

というような意味を新渡戸稲造博士は語っているようです。

以前、私は戊辰戦争と武士道についてリンクして考えた頃もありました。しかし、世良修藏の悪行を見る限り、長州には武士道なしとなりますが、長州には吉田松陰、桂小五郎などがいますから、世良修藏は全くの例外としてみなければなりません。それでもなお、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代わって新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となって奥州入りしたのですから、今更、漁師の倅で武士ではないとはいい訳にもなりません。
生まれたのは土方歳三と同じ天保6年(い835)、周防国大島郡椋野村の庄屋に生まれ、17歳で萩藩の藩校・明倫館に学びました。
その後、時習館に学び、さらに江戸で儒者・安井息軒に学び、塾長代理をつとめたぐらいの学はあるのです。
その後、浦靱負の私塾・克己堂の兵学講師として仕官して浦家の家臣(陪臣)になり、そこから出世街道を駆けのぼります。
下関戦争の敗戦を機に高杉晋作の奇兵隊に入り、やがて、浦家の家臣である世良家の名跡を継いで、世良修藏となります。
江戸幕府による第二次長州征伐では第二奇兵隊を率いて幕府軍相手に勝利を収め、停戦後は萩の海軍局へ転出します。慶応4年(1868年)1月、幕府方との鳥羽・伏見の戦いに際して前線を指揮して新政府軍の勝利に貢献しています。
そんな実績のある世良修藏が、列藩同盟が起草した太政官建白書にある「貪婪無厭、酒色ニ荒淫、醜聞聞クニ堪ザル事件、枚挙仕リ兼」とある武士にあるまじき行為が重なり、ついに暗殺されますが、これは自業自得で何ら同情に値しません。
ただ、冥界の世良修蔵にも武士(実際は準士分)としての言い分もあると思います。その言い分を翻訳すればこうなります。
「好きなように好きなことを思いっきり仕尽くした身に何の悔いがある、武士道など知ったことか!」
この言葉を新渡戸稲造さんが聞いたら、烈火の如く怒るのか、ただ冷笑して無視するのか興味あるところです。