武士道いろいろー2

 源頼朝と義経の武士道

平安時代末期から鎌倉時代初期の天下の覇者となった源頼朝の武将としての器量、これは、評価が分かれます。
頼朝ファンは政治家として立派だと説き、判官贔屓の義経ファンからみれば頼朝は疑い深い小心の悪玉です。
人は立場によって視点が変わり、感情もまた変わります。
私は今、いつ書きあがるとも断言できない戊辰戦争の底なしの泥沼にどっぷりと浸かっています。
北は北海道の函館戦争から西は、薩摩、長州と歩き回って、戊辰戦争に人は何を考えて動いたのかを調べました。
私は、戦いの歴史を書くつもりはありません。これは既に書き尽されています。
敗者の恨みつらみ、これも聞き飽きました。では、何を書きたいのか? 私は赤裸々な有るがままの人間を書きたいのです。
中国の古い歴史の中に出てくる「勝てば官軍」は、勝者が歴史を創る当然の権利であって、この真理は未来永劫変わりません。
この視点からみれば、奢れる平家を滅ぼした源頼朝が偉大で、それに逆らって逆麟に触れて淘汰された義経は、それが定めなのです。
ところで表題は武士道です。
武士道というモノサシで武将の純粋さを測るとしたら、これは誰がどう考えても義経に分があるのは当然のような気がします。
理由は、為政者は駆け引きにも長じ、政治的な観点から味方を欺くこともありますので武士道の純潔さからはほど遠くなります。
頼朝は源義朝の三男で、父の義朝が平治の乱で敗れると、母の乞いを受け入れた平清盛の命で伊豆国蛭ヶ小島へ流されます。伊豆で隠忍自重して力を蓄え、北条時政、北条義時などの坂東武士らを従えて平氏打倒の兵を挙げて戦い、一進一退の攻防の末、鎌倉を本拠として関東以東をを制圧し、義経ら弟達の力を借りて身内で平家打倒に功のあった木曽の源義仲をも倒し、平家一門を駆逐します。その上、誰よりも戦功の大きい末弟の源義経を追放の後、抹殺し、さらに平泉を攻めて奥州の雄・藤原氏を滅ぼして全国を平定して建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられて、少年時代から持ち続けた平家打倒と天下統一の夢を叶えました。
さて、天下人となった源頼朝と、それに滅ぼされた源義経、勝者は頼朝ですが、武士道を貫いたのは義経と私はみます。
これを戊辰戦争に当てはめると? それはこれからです。