武士道いろいろー1

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 佐藤義清、木村喜毅に見る武士道

奥州平泉の雄・藤原秀郷の子孫で鳥羽院に勤め、弓馬剣術に秀でた北面の武士(院御所の北面に詰め上皇の身辺警護をする)として知られた佐藤義清(のりきよ)が突然、武士を捨てた上に、泣き縋る幼い娘を蹴倒し家族のを振り切って法号「円位」と名乗って出家したのは23歳の男盛りでした。18歳ですでに左兵衛尉という役職にあった義清は、そのまま勤めれば高位の要職に就くのは間違いありません。それを捨てたのですから周囲は驚きます。
そのような出世の道ある武士の座を捨てるには、それなりの強い止むに止まれぬ動機があったはずです。
後に噂されたのは、義清が鳥羽天皇の愛妻で中宮の待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との秘められた悲恋です。所詮は添えない恋と承知していても、その煩悩の火は燃え盛るばかり、その炎を消すには神仏に頼るしかなかったのです。さらに同じ時期に親しい従弟の佐藤範康(のりやす)の急死も影響したのではないか、この二点が佐藤義清が出家した要因であるとされています。
義清こと「円位」は、西に極楽浄土ありと聞いて「西行」と名を改め、歌人としても知られるようになります。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる
面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて
なげけとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな
待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ
古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮
吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな
さて問題はこれからです。
確かに西行の歌は、恋の歌が多く、それが失恋の歌が多いとのことで上記のような言い伝えになったのかも知れません。
しかし、義清の出家の理由はそれだけではなさそうです。そこで、時代背景を考えてみました。
当時はまだ政務での表舞台では藤原一族が権勢を振るっていましたが、武力に勝る平家一族の不気味な圧力にじわじわと追い詰められて世相は不安定で海賊や山賊など野党が白昼から群れを成して荘園を襲うなど天を恐れぬ世の中で、その上、京の都に大家があり、東大寺僧と興福寺僧が武力衝突、筑前の僧徒らが大宰府を焼くなど僧兵の跋扈が目に余る状態で、平家だけが武力で海賊を退治したりで手柄を上げ、義清の先輩左兵衛尉の平家定が海賊の統領以下海賊を一網打尽にして従属させたのも歴史に記録され、藤原の衰退と平家の台頭、この時代の流れの急激な変化も義清の出家と何らかの関係があるのではないか? 私はそう考えました。
これは、私が今、戊辰戦争を書いていて、日本の海軍創設の功労者は、元海軍奉行の木村喜毅だと思うからです。それに勝海舟、榎本武揚、肥田浜五郎、小野友五郎、坂本龍馬などが絡みます・
その、木村喜毅が江戸城開城後、ふいと世を捨てたのです。これも妙な話です。
日本の歴史を通じて、木村喜毅ほど日本の海軍造りに本気で熱中した武士は他にはいません。
木村喜毅は、日本を外国の脅威から守るために自分が総監として育成した長崎海軍伝習所出身の訓練生に実戦並調練を課そうと、私財三千両(2億円以上)を投じて咸臨丸でアメリカに渡りました。その上でさらに海軍の重要性を知って、幕府に検索して、6万人の海軍に370隻の軍艦を造って沿岸の重要拠点に配置させようとします。それが、勝海舟の「五百年かかる」との意見などで呆気なく却下され、自分も重要ポストを罷免されて失意のまま自邸に籠もります。その後、江戸城無血開城時には勘定奉行として復職し、徳川幕府の財産管理に携わり、その後、歴史の表舞台から姿を消しますが、その出処進退に、西行の決意と同じ翳りを感じます。
国のため私財を投げうって国防を考えた心意気が誰にも認められなかった口惜しさと虚しさは、西行と同じく出家したいような心境だったはずです。その証拠に、芝新銭座の自邸からの隠遁に府中の寺を選んでいます。佐藤義清と木村喜毅、これはこれで見事な武士道での進退と私は考えます。