武士道とは死ぬ事と見つけたり

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 明けましてお目出とうございます。
本年も引き続き宜しくお付き合いください。

武士の本分を一言で表すのに次のような言葉があります。

「武士道とは死ぬ事と見つけたり」

これは、江戸時代中期の佐賀鍋島藩士・山本常朝が、藩士を相手に7年の歳月をかけて述べた武士としての心得「葉隠(はがくれ)」1寛を、同僚が十一巻にまとめたものの一節です。
この書では「朝毎に懈怠(けたい)なく死して置くべし)」ともあり、常に死ぬ覚悟で正しい決断をせよと説きます。

文中では、鍋島藩の藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として示します。
山本常朝は、当時の佐賀藩の主流である山鹿素行の提唱する儒学的武士道を「上方風の見栄張り武士道」として批判し、山鹿の説く日常の忠ではなく、実際の行動の中で「無我夢中の死にもの狂い」にこそ忠義が含まれている、と述べます。

赤穂事件では主君・浅野長矩(ながのり)の切腹後、すぐ仇討ちに出なかったことと、吉良義央を討って仇をとったにも拘らず、すぐに切腹せずにずるずる処分を待ったことをも非難している。理由は、すぐに敵討の行動を起こさなければ仇の吉良義央が病死することも考えられるし、仇を討った直後に腹を切らないと生に未練が残る場合もあるからだ、とします。

この考え方は、佐賀藩の主流の武士道とは大きく違っていたので、藩内では禁書とされましたが、上から徐々に認められ、やがて藩士に対する教育の書となり、鍋島論語と呼ばれて普及しました。しかし、批判も多く、佐賀藩の朱子学者の古賀穀堂は、佐賀藩士が「葉隠」一冊でことなれるとして学問に不熱心なのを嘆き、佐賀藩出身の大隈重信も「葉隠」は古い考え方だと批判しています。

「葉隠」は巻頭に、この書は読み終えたら火中に棄てるべしすべしと述べていることで、長い間、密書とされました。
7年の歳月をかけて語った座談の結論がたった一行の「武士道とは死ぬことと見つけたり」、凄い説得力です。

私も、これを座右の銘にして生き様にしたいと思います。