中原兼遠と木曽義仲にみる武士道

 |

中原兼遠と木曽義仲にみる武士道

花見 正樹

中原兼遠(なかはらのかねとお)は、平安時代末期の信濃の国の木曽地方に本拠をもつ皇別豪族です。
皇別とは皇室につながる家系ということで、中原家は第3代・安寧(あんねい)天皇につながる名家で、兼遠の父・兼経は正六位下・右馬少允に任じられて朝廷に仕えたが、左遷されて信濃国佐久郡の牧長となり、兼遠の代に木曽谷に移り住み平穏に過ごしていました。
その木曽谷の平和を脅かす事件が起こります。
ことの起こりは、久寿2年(1155)8月の大蔵合戦と呼ばれる、源氏一族が敵味方に分かれて闘う内輪揉めの騒乱にあります。
この時、源義朝の長男の悪源太義平が、義朝の弟・源義賢を養子に迎えていた河越重隆を義賢諸共攻め滅ぼします。
その、戦いの舞台になった川越重隆の屋敷が「大蔵の舘」だったことから、この事変を「大蔵合戦」ともいいます。
この「大蔵合戦」で甥の源義平に討たれた源義賢の遺児・駒王丸(2歳)を誅殺する役が斉藤実盛に命じられました。
実盛は、駒王丸を憐れみ殺すに忍びなく、親しい間柄の中原兼遠に駒王丸を託します。
「ぜひ、父を失ったこの子を一軍の將に!」
「必ず・・・」
斉藤実盛から駒王丸を託された中原兼遠は、力強く頷きます。
これだけで男同士の信義が結ばれ、駒王丸は木曽源氏の頭領になるべく育てられます。
兼遠の子供には、樋口兼光、今井兼平、巴御前、落合兼行などの歴史に残る勇士がいます。
駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで兼遠の子供達と共に武芸や馬術、学問などを学んで成長し、木曾義仲と名乗る立派な武将に育ちます。
当時は、平家が全盛期を迎えていました。
清盛は、仁安2年(1167)に太政大臣にまで登りつめ、承安元年(1171)に娘の徳子を高倉天皇の妻に入内させた清盛は、知行国支配と日宋貿易を手にして財を築き、一族で公家10数名、殿上人30数名を占めて一大勢力を築いて、「平家にあらずんば人に非ず」とばかりに我が世の春を謳歌し、平家一族は栄華を極めていました。
これに不満を持つ者は多く、朝廷内部での反平家陰謀があり、治承元年(1177)には、藤原成親、平康頼、西光、俊寛らの多数の近臣が反逆を企てた罪で処罰され、後白河法皇も事件への関与を疑われています。
その翌年の治承2年(1178)11月、清盛の娘・中宮徳子が、高倉天皇の子・言仁(ときひと)親王を産みます。
清盛は、直ちに幼児の立太子を宣言し、当然ながら後白河法皇らの猛反発に遇います。
治承3年(1179)秋、近衛家問題にかこつけて清盛は兵を率いて京へ乱入、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、関白・基房を解任した上で配流し、さらに近臣40名近くを解官し、天下を乗っ取ります。
治承4年(1180)2月、高倉天皇が退位、清盛の娘・中宮徳子の産んだ言仁親王が3歳で即位し、第81代・安徳天皇になります。
それら一連の出来事が、隠忍していた源氏一族や反平家武士、反平家側公家の怒りを買っていました。
義仲27歳のこの治承4年の安徳天皇即位後、高倉天皇の兄宮・以仁王(もちひとおう)と源頼政が、平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏や豪族に蜂起を促す令旨を発します。義仲を頭領にして中原一族も挙兵を準備しますが、その前に、らの策謀が平氏側に洩れ、追討軍に攻められ、準備不足の以仁王と頼政軍は、宇治平等院の戦いに敗れ、二人は敗死し、反乱軍は早々と鎮圧されます。
しかし、これを契機に木曽軍をはじめ、諸国の反平氏勢力が一気に挙兵して、全国的な勢いで平家打倒の治承・寿永の乱が始まります。
治承4年9月、義仲は兵を率いて北信から上野へと転戦し、平家打倒に立ち上った源氏方武士の救援や助力で戦い、約2ケ月で木曽に戻ります。
木曽軍が本格的に挙兵するのは、治承5年(1181)6月です。
この年、息子、娘らの晴れ姿を見た中原兼遠は、病の身に笑みを浮かべ静かに息を引き取ります。
小県郡において、木曾、佐久、上州源氏など約3千騎を集めて挙兵した義仲軍は、越後から攻め込んできた平家側軍勢を横田河原の戦いで破ります。
木曽の源義仲は養父の期待に応えて、強く逞しい一軍の將に育っていたのです。
そのまま義仲軍は越後から北陸道へと進み、越中の倶利伽羅峠では、平維盛率いる約10万の平氏北陸追討軍を破ります。
続く篠原の戦いにも勝った義仲軍は、破竹の勢いで京都を目指して軍を進めます。
都では防御し難しとみた平氏一族は、幼い安徳天皇を擁して西へ逃げます。
だが、入京した木曽軍の評判は悪かった。数年続きの飢饉による飢餓と平氏の乱暴狼藉で荒廃した都の治安は回復するどころか、木曽軍の食料調達と宿舎の強奪で、治安はますます悪くなったのです。
ここから義仲の運命は下り坂に入り、留まることなく坂道を滑落して、巴ら中原一族と共に、身内のはずの頼朝軍に討たれます。
中原兼遠の子・樋口兼光、今井兼平、巴御前、落合兼行等は、義仲と運命を共にして勇猛果敢に戦って死んでゆきます。
義仲は死して歴史の表舞台からは外れますが、養父・中原兼遠共々、武士(もののふ)の道に恥じない人生でした。


孔子にみる武士道


孔子にみる武士道

                               花見 正樹

 新渡戸稲造の「武士道」を熟読すると、氏が孔子の教えに傾倒し過ぎるのに戸惑います。
なにしろ、武士道そのものが「孔子の教え」とも説いています。
「武士道の源泉は孔子の教えにあり」
これが、新渡戸稲造の「武士道」の骨子です。
ここまで断言されると、どうしても、孔子そのものと武士道を合せてみる必要に迫られます。
では、新渡戸稲造は、なぜ、そこまで孔子と武士道を結び付けたかを考えてみます。
神道や朝廷、主君や郷土に対しての愛国心や忠誠心、絶対的な服従の心は一体どこから出ているのか?
とくに、命をも惜しまない主君への忠誠心など、そこまで徹底するにはどのような教育がなされたのか?
それらを考えるカギが、新渡戸稲造説の通り、全て孔子にあるのかも知れません。
これらが、宗教の力ではないのは確かです。
なぜなら、日本古来の神道は、中世のキリスト教やアラーの神と違って、信仰上の何の約束事も規定しなかったからです。
武士道の源泉が神道にないとすると、一体どこから仁と義と忠に厚い武士道なるものが形作られたのか、気になります。
なぜ、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となっている、と新渡戸稲造は断言できたのか?
新渡戸説を肯定した上で、孔子を見つめ直すと、確かにその骨格が見えてきます。
孔子はまず、五つの倫理的な関係を述べています。
すなわち、治める者と治められる者との上下差を君臣として孔子は区別し、礼を尽くすように孔子は説きます。
しかし、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、孔子以前から日本人として認知していますので、孔子の教えは確認にすぎません。
冷静沈着で才能豊かな孔子の政治向きで道徳的な格言の数々は、支配階級である武士にとって都合のいいものだった、とも言えます。
さらに、孔子の保守的な語調が、日本の武人統治者にとって、必要不可欠のものとしてピタリと適合したのです。
それだけではありません。孔子についで、弟子の孟子がさらに武士道に大きな権威を及ぼしています。
孟子のいう民衆にも主権を与えるかのような人道的な理論は、思いやりのある武人にはことのほか好まれます。
しかし、この理論は既存の秩序を乱す危険もありますので、為政者からは破壊的な考え方として疎んじられてきました。
しかし、心ある武士の心の中にしっかりと住み着いていたのです。
こうして、孔子と孟子の書物は人々に、議論の余地のある最高の教科書になってゆきました。
武士道に目覚めた人々は、この二人の儒学者の古典を読み解くことで、さらにその意を強くしたのです。

孔子は、紀元前552年9月、古代中国春秋時代の魯の国の昌平郷辺境の村(現在の山東省曲阜(きょくふ)市)の軍人の次男として生まれました。父は70歳を超えていて、母は16歳の身分の低い巫女でした。
その父は、孔子が3歳のときに逝き、若い母も病没、孔子は親類や村人に育てられて成長します。
孔子の履歴を大雑把に列記してみます。

孔子が3歳の時に父が逝き、母とともに曲阜(きょくふ)に移住したが、17歳の時に母も病没、苦学して礼学を修め、やがて礼学の大家となって弟子も増え、一時は弟子3千人とまでいわれています。
孔子の学問は、地方の郷党に学んでいて誰か特定の師について学んではいない。それでいてずば抜けて何でも知っていた。
紀元前534年、19歳のとき、孔子は宋の幵官(けんかん) 氏と結婚し、翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が生まれます。
紀元前525年、28歳のとき、孔子は魯に仕官して、倉庫を管理する委吏になり、次に牧場を管理する乗田という役につきます。
紀元前518年、35歳のとき、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っています。この年、孔子は周の都の洛陽に遊学します。
紀元前517年、36歳のとき、身辺多忙で居住地を変えたりしたが魯に戻って弟子をとり教育することに励みます。
紀元前505年、48歳のとき、季桓子に仕えていた陽虎が反旗を翻して魯の実権を握り、孔子を招聘するが、実現しません。
紀元前502年、51歳のとき、陽虎は三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こすが、三桓氏連合軍に敗れて隣国の斉に追放されます。
紀元前501年、52歳のとき、宋・晋を転々とした後、孔子は晋の趙鞅に召抱えられ、定公に中都の宰に取り立てられます。
紀元前500年、53歳のとき、定公は斉の景公と和議の会見時に、斉の舞楽隊が武器を隠し持つのを見破ります。
この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任、さらに外交官も兼ねることになります。
紀元前498年、55歳のとき、孔子を裏切って弟子を奪った弟子の少正卯を誅殺します。
孔子が提案した軍事作戦の城壁破壊作戦がほぼ成功、一部は失敗に終わります。
紀元前497年、56歳のとき、国政に失望して官を辞し、弟子とともに諸国遍歴の旅に出ます。
紀元前484年、69歳のとき、魯に帰国します。
紀元前483年、70歳のとき、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を提言しますが実現しません。
紀元前481年、72歳のとき、斉の簡公が宰相の田恒に弑殺されたのを機に、再び斉への進軍を勧めますが哀公は聞き入れません。
紀元前479年、74歳、不遇の中で死去、曲阜(きょくふ)の城北の泗水(いすい)のほとりに葬られました。

前漢の史家・司馬遷(しばせん)は、その功績を讃え「王に匹敵する」と評しています。
孔子が世に出た頃は、各地の有力な諸侯や国が領域国家の形成へと向かってしのぎを削り、農民や兵の予備軍を含む人口の増加や領地の拡大にやっきとなって争い、実力主義が横行して、旧来の都市国家を形成する同系種族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつありました。そのなかにあって、孔子は、周の国本来の秩序ある国家への復古を理想として、身分制秩序の回復と再編を目指します。その先には義と仁による仁道政治があります。3千人におよぶ孔子の弟子たちは、孔子の教えを思想として教団を作り、それぞれが戦国時代に儒家として、諸子百家として自立して一家をなしました。
その中から選ばれた「孔子門下10哲」と師・孔子との語録をまとめたものが「論語」です。
身の丈2メートルを超え、文武両道に優れながらよき主に恵まれなかった孔子の一生は、不遇ではありましたが、歴史から顧みれば多くの学者を輩出した門下生から見ても、その統率のきいた指導力は、一国の宰相と同格かそれ以上とみられます。
ある人は孔子を「義の人」と言い、ある人は「仁の人」とみます。
その全てをみて新渡戸稲造は、孔子の教えこそ武士道である、と断じたものと思われます。


諏訪三郎盛高にみる武士道


諏訪三郎盛高にみる武士道

花見 正樹

私の若い頃に書いた「戦乱の谷間」にという短編小説は、鎌倉の北条幕府壊滅後の挿話です。
その中に登場する主要人物は3人、その内の一人が諏訪三郎盛高です。
古典文学集「太平記巻第十」に登場するのは2人、亀寿丸こと北条時行と、今回の主人公・諏訪三郎盛高です。
小説の中のもう一人の人物については、思い入れもあって、そのん人の居城だった長野県の池田町の山城跡まで登ったことがあります。
ここでは、木曽義仲四天王の一人・樋口次郎の末裔には触れませんが、今でもその人物は目に浮かびます。
さて、諏訪三郎盛高ですが、この人は、北条幕府執権北条高時の弟・北条四郎左近入道泰家に仕えた北条方屈指の武将です。
北条幕府の滅びるのは、足利尊氏が裏切って朝廷側につき、六波羅を滅ぼしたのが主因ですが、北条幕府の栄華と奢りは幕府内の腐敗を呼んでいましたから自業自得、いずれは滅びる命運だったのです。
鎌倉に攻め入った新田軍の猛攻に、郎党の殆どを失った諏訪三郎盛高は、泰家の最期のお伴にと泰家の屋敷に戻ります。
すると泰家が意外なことを言います。
「わが北条が亡ぶは、兄・相模入道(高時)殿の不徳ゆえ止むを得ぬが、それでも一門には善行を積む者もいて再興の機もあろう。お前に相模殿の次男・亀寿丸殿を任せる。時が来たら再興の志を果たせ」
「兄の万寿殿は?」
「相模入道殿が、五大院右衛門宗繁(むねしげ)に預けられたと聞いたから心配ない」
盛高は「死を定むるは易く、謀(はかりごと)は難し」と思ったが、主君の命には逆らえず涙を抑えて亀寿丸のいる葛西谷の隠れ家に馬を走らせます。
女房衆とそこにいた亀寿の母・二位殿の御局は盛高を見て安堵したように「これからは?」と嬉しげです。
ここで盛高は亀寿を「落ち延びさせる」と口から出かかるのを抑えます。敵にそれが伝わったら追っ手が迫ります。
そこで、亀寿も死んだことにすべく嘘をつきます。
「大殿(高時)が、亀寿殿もともに冥途へと言いますので、お迎えに参りました。万寿殿はすでに敵に殺されました」
すると御局や乳母、女房達が亀寿を囲んで放しません。
「そんな酷いことを! 敵の手で死ぬなら諦めますが、亀寿を連れて行くなら私どもを殺してからにしてください」
と涙ながらに訴えます。
盛高も涙ぐみますが気を取り直して、「武士の家に生まれた以上覚悟も必定、大殿がお待ちです。御免!」と、力づくで亀寿を奪って抱き抱えて外へ走り出て馬の鞍に乗せ、自分はその後ろに跨って馬を走らせます。背後から泣き声が追い、振り向くと亀寿の乳母がはだしで必死で追ってくる姿が見えます。乳母は、馬が見えなかなっても倒れては起き、懸命に追いますが、力尽きて倒れ、這うようにして近くの家の井戸に身を投げてその一生を終えます。
その後、三郎盛高は亀寿共々、下人姿に身をやつして信濃へ落ちてゆきます。
この時の亀寿の年齢は、太平記でも定かではなく、史書でも5~10歳とまちまちです。
私は、その2年後に鎌倉討伐軍を率いて戦う北条時行を考えて、鎌倉落ちを10歳としました。

私の小説「戦乱の谷間に」は、この逃避行時の険しい落ち武者狩りとの争いと、その2年後の鎌倉攻めに触れています。
三郎盛高は、一族の諏訪上社前大祝・諏訪頼重の協力を得て、亀寿丸を信州南部、八ヶ岳山麓に匿って北条再起を図ります。
諏訪三郎盛高、諏訪頼重に呼応して祢津・滋野氏ら諏訪一族や関東武士が揃って蜂起したのは、建武2年(1335)の6月、鎌倉を一気に奪い返したのが7月。これを「中先代の乱」といいます。
わずか20日間の天下で、強大な足利軍の対大軍に包み込まれて、殆どが戦死しますが再び天下を取り戻したのは間違いのない史実です。
この主君の命にしたがって、命を投げ出した諏訪神社の一族、諏訪三郎盛高の義に生きた姿に「武士道」を感じるのです。
さて、表題の「諏訪三郎盛高にみる武士道」は、ここまでです。

しばし、時間がある方は、オマケの下記雑文にも御目通しを・・・

では、この戦いを主導したのは?
歴史書が語る諏訪三郎盛高だったのか?
幼いながら亀寿丸こと北条時行だったのか?
私が「戦乱の谷間」を書き上げて数年後、親しい友人の小林永周講師(開運・心霊スポット担当)から意外なことを聞きました。
「北条時行の墓が東北にある」というのです。
そういえば、北条泰家の領地が奥州にあるのは聞いたことがあります。
そこで調べました。
なんと、この「中先代の乱」の首謀者は、諏訪三郎盛高の主人で執権・北条高時の弟・北条泰家、らしいのです。
私が不勉強で、これを見逃していたのです。したがって、私の短編小説「戦乱の谷間」は没、書き直しです。
では、南朝元弘3年(1333)の北条一族滅亡時に、菩提寺である東勝寺に集まって自刃した800人超とも言われる主従の焼死体の中には、執権代理まで務めた北条四郎左近入道泰家はその場にいなかった・・・厳しい敵の目を欺いてどうやって生き延びたのか?

亀寿丸を家来の諏訪三郎盛高に託した後、北条泰家は、戦い破れて血だらけで戻った腹心の部下二十余人を呼び寄せます。
「わしは奥州に落ちて、一度は天下を取り戻してから見事に死んで見せる。そこで、ここは奥州の出身の南部太郎と伊達六郎の二名を道案内に連れて行く。他の者は見事に自害して館に火をかけよ。わしが率先して自害したように誰かわしの甲冑を着せ」
部下二十余人は「御定に従います」と言い、主人の命に従います。
主人に選ばれた南部太郎と伊達六郎は、敵の死者から新田家の家紋である大中黒の笠符(かさじるし)をつけた甲冑や笠を奪い、新田方の雑兵に身をやつし、泰家本人は血の付いた衣類で身を包み重傷を装って、これも新田方の雑兵に化けた力持ちの中間に吊り輿を担がせ、手負いの新田側武士が郷里に急ぎ帰ると装って、堂々と敵陣の中を武蔵まで落ち伸び、そこからまた変装して奥州にと旅立ちます。
主人が去ってすぐ、残った二十余人の武士は、戦いの場に戻って触れ回ったのです。
「主君、左近入道様ははや御自害あそばされた。家来衆はみな御供申せ。早くせんと屋敷が燃え落ちるぞ」
かくして、館に火をかけ、次々に腹を切ったのは三百余人、みな炎に包まれて自害します。
腹の座った泰家は、領地の奥州糠部郡(岩手県北部?)で英気を養ったのち、別人に化けて京に上り、名を変えて西園寺家に仕え、鎌倉の新幕府打倒の人集めを始めます。そして、建武2年の6月に奥州、武蔵、信州に触れを回して謀反を起こし、自らが亀寿丸こと北条時行や部下の諏訪三郎盛高を補佐して、新田義貞が守る鎌倉に攻め入り、一気に天下を取り戻します。
その天下を覆すのは、足利尊氏率いる大軍で、激しい戦いは数日で終わり、北条泰家、三郎盛高は討ち死に、諏訪頼重は自刃、北条時行はいずこにか逃れた、とされます。なお、敗軍の将兵は、死していても顔の皮まで剥がされたとあり、戦いの結末はいつも残酷です。


安部貞任と源義家にみる武士道


安部貞任と源義家にみる武士道

花見 正樹

安倍貞任(あべ のさだとう)は、平安時代中期の奥州安倍一族の武将で、六尺をゆうに超す2メートル近い巨漢だったようです。
父の安倍頼時は、奥州六郡を支配する豪族の頭領で、貞任は、砦とも城ともいえる厨川柵(くりやがわのさく)の守護を任されています。
それゆえに、通称は安倍厨川次郎貞任と呼ばれていました。厨川柵は、岩手県盛岡市の西に位置し、栗谷川とも記されていて、10メートルを超す断崖絶壁の自然の要塞の地に砦が築かれ、見るからに難攻不落の構えを見せていたようです。
その支配範囲は広範囲で、現在の盛岡市天昌寺町付近を中心に南は紫波町方面までの距離で円を描くほど広かった様子です。
貞任の妹聟に、藤原経清がいて、その子・藤原清衡が、安倍家滅亡のあと、奥州藤原氏を名乗ることになります。
当時は、京都の朝廷から送り込まれた奥州討伐の藤原登任(なりとう)軍と小競り合いを長年にわたって戦い続け、ついに奥羽鎮圧軍が安倍軍に壊滅的な敗北を喫します。
この悲観的な状況に苛立った朝廷側が奥州討伐軍の後任に陸奥守として選んだのが源頼義です。
源頼義が、息子の八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人を引き連れて奥州の騒乱平定に、鎮守府将軍として奥州入りしたのは永承6年(1051年)のことでした。それまでの陸奥守であった藤原登任(のぶとう)が奥州六郡を支配する安倍一族と戦って敗れたための後任としての赴任でした。
頼義一行が陸奥守として陸奥の政庁・多賀城に着任すると、その無敵の武名のを恐れた安倍一族の首領の安倍頼時(頼良より改名)が、早くも恭順の意を示して降伏します。
しかも、その翌年には、後冷泉天皇の祖母・上東門院・藤原彰子の病気快癒祈願で大赦が行われ、安倍一族の朝廷への反逆罪も赦されます。
これで両軍とも完全に戦いを止め、奥州に平和な時代が戻りました。
こうして、頼義の陸奥守在任中は何事もなく過ぎ、任期満了の天喜4年(1056年)には、安倍頼時の主催で惜別の饗応も受け、一族揃って無事に帰路に着きます。
その帰路のことでした。
阿久利川河畔にて野営の陣を敷いての一夜、夜陰に乗じて小人数の暴徒が陣を襲って乱暴狼藉におよび重軽症者が出たのです。
この阿久利川事件を境に状況は一変します。
これに「犯人は頼時の嫡男・貞任」と讒言をしたのが安倍側と思われていた陸奥権守の藤原説貞(ときさだ)の子・藤原光貞でした。
この言葉を真に受けた源頼義は、頼時に貞任を引き渡すように求めます。頼時は当然「濡れ衣である」と断じて拒否した上に、いつでも戦えるように軍備を整え、頼義の軍と対峙します。
怒った頼義は軍勢を衣川の関へと進め、いよいよ戦いが始り一進一退の攻防が続きます。
やがて朝廷からも頼時追討の宣旨が下り、戦いは激しさを増します。
この間のあれこれは省略・・・
戦いのさ中、安倍頼時が戦死し、貞任が跡を継いで安倍一族の首領となり、ますます猛攻を仕掛けてきます。
そのうち頼家軍は、安倍軍に惨敗します。
冬が近づいた寒い季節、頼義は貞任討伐を焦って、将兵約2千で安倍軍の拠点とする河崎柵に攻め込みます。ところが、対する貞任軍は精兵4千人を隠していて、一気に迎え討ち包み込んで相手を殲滅する策に出ます。
この歴史に残る黄海(きのみ)の戦いで、安倍軍に散々に打ち破られ死者累々の大敗で、大将の頼義も危ういところでしたが、わが子・義家の活躍で九死に一生を得てほうほうの態で脱出します。
黄海の戦いで受けた損害は甚大であったが、数年の準備期間を経て軍備を整え、頼家は軍を七つに分け、敵から寝返った将兵も交えて総勢1万3千の大軍で、再び安倍軍討伐に向って総攻撃を開始した。
その後は、頼義軍が優位に戦って・・・いきなり衣川です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古今著聞集「衣のたて」原文より。

伊予守源頼義の朝臣、貞任・宗任らを攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。鎮守府を発ちて、秋田の城に移りけるに、雪、はだれに降りて、 軍の男どもの鎧みな白妙になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、
きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」
と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、
衣のたてはほころびにけり
と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、
年を経し糸の乱れの苦しさに
と付けたりけり。そのとき義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。
----------------

義家が衣川の館(たち)に、着衣の縦糸のほつれをかけて「衣のたちはほころびにけり」と詠んでいます。
それに対して貞任は、身内の裏切りを察して、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返します。
これは、「何年も同じ衣を着ていると糸も弱るように、組織も統率が乱れる」とされます。

義家は、河内源氏出身で七歳で元服、若年時から武勇に秀でて強弓を引き、藤原道長の四天王となり、八幡太郎義家と呼ばれていました。
これは、元服したのが石清水八幡宮だったからという説もあります。
その後、貞任は敗死しますが、この時の連歌は、命がけの戦いでの中だけに凄い余裕です。
どちらも立派な武士(もののふ)として、これからも語り継がれることでしょう。


厩戸皇子(聖徳太子)にみる武士道


厩戸皇子(聖徳太子)にみる武士道

花見 正樹

武士(もののふ)という概念でいえば、王族・貴族の下で働く戦闘を業とする身分の低い家来を武士といいます。
その戦闘集団を律するのが武士道と考えれば、用明天皇の第二皇子である厩戸皇子(うまやどのみこ)を武士の座に加えるのはあまりにも失礼な気もします。
しかも、武士道を書いた新渡戸稲造先生が5千円札で、厩戸王(聖徳太子)は、昭和5年の超高額紙幣百円に登場して以来、千円、五千円、一万円紙幣と7度にわたって紙幣の肖像画になり、五百円の収入印紙にもなってお金の代名詞、格が違います。
なのに、武士道全集の第八巻に、物部守屋大連(ものべのもりやおおむらじ)との戦いに、蘇我馬子軍の武将として活躍したことが載っているのですから、皇族でありながら武士(もののふ)とみられても仕方ありません。この戦闘は、日本書紀の巻二十一にも載っています。
なにしろ厩戸皇子(聖徳太子)といえば、574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)に生まれ、622年4月8日(推古天皇30年2月22日)に逝去しますが、その業績は立派なもので、さまざまな偉業も成し遂げています。
ただし、この業績は厩戸皇子としてではなく、聖徳太子の実績です。

日本で初めての女帝・推古天皇(すいこてんのう)の摂政で天皇を補佐して国政を取り仕切った。
「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」をつくり、能力があれば身分に関係なく出世できる道を開いた。
日本で最初の成文法「十七条の憲法」を制定した。
日本の将来を考え、国威を示すために遣隋使(けんずいし)」を中国に派遣した。
世界最古の木造建築「法隆寺(ほうりゅうじ)」を建てます。
一度に10人の陳情を聞き分けて明確に解答した。
日本書紀では、聖徳太子に「兼知未然」、予知能力があったと記されている。
聖徳太子は京都千年の繫栄を予言、自分の死後二百年内に皇族がここに都を作ると述べた。
聖徳太子は、当時全盛の中国の煬帝に「日出ずる国の天子より、日没する国の天子に書を贈る」として激怒させた。

かくも突出した偉人・聖徳太子も現代の冷徹怜悧な歴史学者には敵いません。
「聖徳太子は存在しない」と、無情にも教科書からもその名が消えることになりました。
学説では、聖徳太子が実在した史料は皆無、「厩戸王の死後に創られた伝説」となったのです。
その主論は、
1、推古王朝は、摂政一人では何も出来ず、身内の蘇我一族の力を借りた共同体で運営とされていた。
2、冠位十二階制定は、多くの協力者の意見を取り入れた合作である。
3、憲法十七条は、厩戸王(聖徳太子)死後になって作成された。
4、遣隋使は、厩戸王(聖徳太子)が派遣した小野妹子ら以前から、派遣されていた。

それにしても変ですね。拾遺和歌集には聖徳太子作と称する次の歌が載っています、
「しなてるや 片岡山に飯に飢ゑて 臥せる旅人あはれ親なし」
人情味溢れる歌ですが、どなたかの偽作でしょうか?
厩戸皇子は、推古天皇のもとで叔父の蘇我馬子ら一族と協力して政治を行いつつ、国際的には遣隋使を派遣して中国の文化や制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めて国政の安定を図り、天皇中心の中央集権国家体制を確立します。
その厩戸皇子が命がけで戦ったのは14歳の伸び盛りでした。
遣隋使や僧侶の持ち込んだ中国伝来の仏教を国政に取り入れて、神道とともに厚く信仰し興隆につとめようとした蘇我馬子と、それに反対して仏像を片っ端から破壊したのが強大な軍事力を抱える物部守屋大連だったから大変です。
大連(おおむらじ)とは、古墳時代からヤマト王朝の軍事担当役職で、軍を率いて外部の敵と戦うのが仕事ですから、いわば武士のはしりで、武士(もののふ)という呼称も、「物部の歩」からとったとする説もあるぐらい強大な力を誇っていて、戦いでは蘇我一族は勝ち目はなかったのです。
それが、仏教問題と皇位継承が絡んで激しく対立し、厩戸皇子などの活躍でついに守屋一族は攻め滅ぼされます。
用明天皇2年(586年)、前年に敏達天皇崩御に次ぎ、その父・橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこと)が用明天皇として即位していたが、突然死去、その後の皇位を巡って仏教崇仏派の蘇我馬子と仏教排除派の物部守屋が激しく対立します。
その皇位を巡る争いが戦いになると、すかさず蘇我馬子は、守屋が次期天皇に推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺し、諸豪族や諸皇子を集めて守屋討伐の戦いを挑みます。
14歳の厩戸皇子も自分の家来を率いてこの軍に加わります。
蘇我軍は、河内国渋川郡の守屋屋敷を攻めますが、さすがに軍事役が主業である物部一族の将兵は精強で手強く、いくら攻めても頑強に抵抗して蘇我軍を撃退します。
これを見た厩戸皇子が決戦を挑む決心をし、白膠(ぬるで)の木を切って小刀で仏像を彫り、勝利すれば各地に仏塔を建てて仏教を広めると誓い、軍を鼓舞して守部砦に攻め込みます。その勢いに圧されて守部軍は散りじりになって山に逃げます。
その隠れ場所を突き止めた厩戸皇子は、部下の迹見赤檮(とみのいちい)に祈りを籠めた矢を与えて、大木の茂みに隠れた守部を射るよう命じ、矢は見事に守部を射抜きます。こうして栄華を誇った守部一族は壊滅します。
その後、厩戸皇子は戦いに際して祈った誓願を守り、難波に四天王寺を建立しました。
蘇我一族が推した推古天皇の御世は36年の長きに渉り、厩戸皇子は推古30年に斑鳩(いかるが)の里で数奇な生涯を終えます。
行年49歳、その半生を政務を執り行う摂政として君臨した厩戸皇子は、聖徳太子の名を借りずとも強い信念を秘めて武士道を貫いた偉大な人物とみて、ここに取上げました。
(実は、私が大好きだったのにご縁が薄かった聖徳太子の肖像画入り紙幣を懐かしんでの個人的回想です)

 


神武天皇にみる武士道

 武士道の謎ー2

神武天皇にみる武士道

花見 正樹

3月11日は何の日? と聞かれたら東北大震災の日と殆どの人が答えます。
しかし、ここでは違います。正解は、神武天皇がお亡くなりになった日(暦違いの矛盾は無視)です。
神武天皇は、若い時から戦いに明け暮れて、苦戦での撤退はありますが結果的には連戦連勝、生涯不敗で人生を終えます。
では、何歳でお亡くなりになったのか?
私(花見)は以前、長寿の研究をしていました。その頃お会いした泉重千代さんは118歳で死去し、日本一長寿と発表されています。
ところが、日向の国の磐余彦(いわれひこ)が、西日本を平定して大和の国の王として神武天皇を名乗ったのが初老の52歳、この年が神武元年。お亡くなりになったのが神武76年3月11日で、ご逝去年齢は127歳・・・私の記憶では間違いなく長寿日本一です。
これは神話だから架空の話だという歴史学者もいます。しかし、100%架空である証拠も未だに発見されていません。ならばその真偽は未来の歴史研究家にお任せして、ここでは実在の人物として話を進めます。
日本書紀での神武天皇の正式名は、「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、古事記では

「神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)」、幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱(いみな)は
「彦火火出見(ひこほほでみ)」と、様々な名があります。

天皇、八十梟帥(やそたける)を国見丘くにみのをか)に撃ちて、破りて斬りたまかき。このときに天皇の御意(みこころ)、必ず克(か)ちなむとおもひ給へり、乃ち御歌よみしたまはく、「神風(かむかぜ)の、伊勢の海の大石にや、い延(は)い廻(もと)へる、細螺(しただみ)の、細螺(しただみ)の、吾子(あご)よ、吾子(あご)よ、細螺の、い延ひ廻へり、撃ちてしやまむ、撃ちてしやまむ。
(注・柵螺(しただみ、キシャゴ、ゼゼガイ)は、直径2センチほどの淡褐色や灰青色の波状紋がある巻貝の一種で装飾にも用います)。

東征を決めた磐余彦は、兄の五瀬命(いつせのみこと)と共に一軍を率いて日向(現・宮崎県)の高千穂から筑紫に進み、さらに豊国の宇沙(現・大分県宇佐市)に進んで宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売(うさつひめ)兄妹を従属させ、筑紫の岡田宮(現・福岡県芦屋町付近か)、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや・現:広島県府中市周辺)、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや・現:岡山県玉)と、征服した豪族を従えてさらに東征、戊午年の2月に浪速国に進軍、3月は河内国に入って戦い、さらに4月には龍田へ進軍しますが、ここからが苦戦になります。
道が険阻な上に、大和国以前の原住民の長である長髄彦(ながすねひこ)が各地豪族の戦士を集めて待ち構えていて激しい戦闘になり、一時撤退します。この戦いで、磐余彦の兄・五瀬命は矢に射られて重傷を負い、紀伊国竈山で死去します。
その後も一進一退の戦いで苦戦が続き、磐余彦の東征は挫折したかに思えた時、天照大御神の計らいによって熊野の高倉下が、磐余彦に霊剣を授け、さらに、険絶な山路の案内にと天照大御神が磐余彦に贈られた八咫烏(やたのからす)が大活躍、よやく莵田(現・奈良県宇陀市)の地に入ることが出来ました。
そこに城を築き、磐余彦はこの地の強豪・八十梟帥(やそたける)や兄の磯城(えしき)らを討ち、12月、ついに人生で最強の敵・長髄彦との決戦になります。しかし、激しい戦闘で双方の使者が増えるだけで敗色濃厚、さすがの磐余彦も万事窮します。
その時、一天にわかに書き曇り霙(みぞれが)降ってきました。その霙と共に大きな鵄(とび)が飛来し、磐余彦の持つ弓の先に止まったのです。その瞬間、鳶が金色に輝いて光を発し、暗かった天地を眩しく照らし、優勢だった長髄彦の軍は大混乱に陥って同士討ちまで始める始末。この機に乗じて長髄彦の軍は反撃に転じて、ついに長髄彦の軍を殲滅し、近畿一帯の制圧に成功します。
磐余彦は3月、畝傍(うねび)山の東南の橿原(かしはら)の地(現・奈良県橿原市)を都と定め、辛酉年の正月、神武と名乗って日本で最初の天皇となります。時に52歳、同年に結婚もしています。
磐余彦(神武天皇)にとって、強敵・長髄彦との死闘はよほど骨身に応えたらしく、その心境を歌に遺しています。
その一つを「武道全集第十一巻」から引用してここに載せます。

長髄彦を撃ちたまかしときに、御歌よみしたまはく、
みつみつし、久米の子等が、粟生(あわふ)には、韮(かみら)一本(ひともと)、其のが根茎(もと)、其根芽、繋ぎて、撃ちてしやまず。
こうして戦いに明け暮れて、もののふの道を貫き、大和朝廷を築いた神武天皇は、波乱に富んだ127歳の人生を、一代で都を築いた橿原の地で閉じたのです。

磐余彦(神武天皇)の遺した他の歌には、もののふという文字も残されています。その行動的で激しい気性からみて私は、神武天皇の武士道とは、{戦い抜くこと}とみました。
なにしろ紀元前660年頃、弥生時代初期のことですから記述に曖昧な点はご容赦ください。

神武天皇が、なぜ武士道全集に載っているのか? 何となく納得して頂けましたか?
この一文をみてもまだ神武天皇の存在を否定される方も、次回は納得されるはず・・・ご期待ください。

 


武士道の謎ー1

新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、復刻版・本体5千円。
お問い合わせ。ご注文は”えむ出版企画”<mbook@cl.cilas.net>、へ。

「武士道」の謎ー1

花見 正樹

「武士道」の著者・新渡戸稲造先生は岩手県盛岡市の出身です。
私は、30年來テレビ岩手に出演している関係で盛岡市内の盛岡市先人記念館にも時折立ち寄ります。
そこで、地元出身の顕彰者の遺稿などが陳列される記念展が開かれますので、そんな時に顔を出すのです。
その顕彰者一覧表をざっと眺めただけでも、次のような名前が目に映ります。
ここに新渡戸稲造先生を含む12人をアイウエオ順に並べましたが、あなたは何人ご存知ですか?
石川啄木(たくぼく・歌人)
金田一京助(言語学者、民族研究家)
里見弴(とん・小説家)
楢山佐渡(南部藩悲劇の筆頭家老)
南部利剛(としひさ・第12代盛岡藩藩主)
新渡戸稲造(いなぞう・教育者、思想家)
野村胡堂(こどう、小説家、音楽評論家)
原敬(たかし・内閣総理大臣)
宮澤賢治(けんじ・童話作家、詩人)
山口青邨(せいそん・俳人、工学博士)
山田美妙(びみょう・小説家、詩人、言文一致体の先駆者)
米内光政(みつまさ・内閣総理大臣)

この中に、開運村と関係が深い著名人が一人います。
それは、日本の文学界の草分け的存在である山田美妙先生です。
その山田美妙先生のお孫さんが、開運村・日本文芸学院会長の推理作家・加納一朗講師、曾孫が作家&詩人の山田篤朗講師なのです。
話は、また「武士道」に戻ります。
新渡戸稲造先生著の訳本の復刻版は、開運道の宗像信子講師の経営する”えむ出版”刊です。
この新渡戸稲造先生本の出版を機に新たな「武士道全集」が企画された、と推測できる古書籍が、私の雑然とした書棚の奥に埃を被って寝込んでいました。

明治時代から編纂されて昭和になって世に出た限定版の「武士道全書」です。
ここには戦国時代から近代までの国や武将の遺訓や家訓(かきん)や戦陣訓などがびっしり詰め込まれています。
改めて読み直してみると、「武士道精神」は神武天皇の御世から「武士の道」として連綿として歌に詠まれ、武士道に類する仁と義と滅私奉公の精神を柱とする内容は「武道」などの読み名でどこでも使われていたことが分かります。
その一例をあげます。

命をばかろきになして武士の道よりおもき道あらめやは・・・ 津守国貴(つもりのくにたか・南北朝時代、摂津の住吉神社神官)。
いのちより名こそ惜しけれ武士の道ほかにふべき道しなければ・・・ 新納忠元(にひろただもと。戦国時代薩摩藩島津家4武将の一人)。
たひらけき御代にはあれども武士の道おこたらぬますら雄のとも・・・ 富士谷成章(ふじたになりあきら・江戸時代中期の柳川藩国学者)。

ここでの武士は、もののふ、とも読みます。

次に元禄時代、浅野家の敵討に関して、武士道の文字が出て参ります。
「武士道ノ御仕置被仰付候」
武田氏の「甲陽軍鑑」にも、
「萬展転シテ、第一ハ義理ニ遠シ、就レ中 武士道不案内ナル申分ナり」
このように、全集の第一巻をパラパラと一瞥しただけで、いかに武士道という文字は昔からごく普通に使われていたのかが分かります。
すると、なぜ新渡戸稲造先生の「武士道」が初出のように日本国内でも珍しがられたのか? それが謎になります。
次回は、新渡戸稲造先生が著した内容を、皆さまご存知の著名人がいかに多く歌や文に遺しているか、それを立証します。


大鳥圭介にみる武士道

大鳥圭介にみる武士道
花見 正樹

新渡戸稲造先生の「武士道」の四章では、は「勇気と忍耐」について語っています。
「勇気とは義のために行われるものでなければならない。そうでなければ、徳の中に数えられる価値はない」と、言います。
孔子の有名な論語に誰でも知っているこんな言葉があります。
「義を見てせざるは勇なきなり」
この言葉と対して、
「生きるべきときは生き、死ぬべきときは死ぬことこそ、真の勇気である」
との言葉があります。
武士道では、「勇とは正しきことを為すこと」とし、むだな猪突猛進の行為は賞賛されません。
戦場に飛び込み、討ち死にするのはたやすきことなれど、匹夫の勇の無駄死には武士道に背きます。
潔い武士の死を美徳とする私たちは、連戦連敗で逃げ回って生き延びた武将を賞賛することはありません。
ところが、中には例外もあるのです。
それが大鳥圭介です。
私たち歴史好き仲間の間では、大鳥圭介の評判は芳しくありません。
大鳥圭介といえば、最新装備で武装した国内最強の歩兵部隊である伝習隊を率いて各地を転戦し、薩長主体の奥羽征討軍と戦って連戦連敗、それでも真剣に戦うことを止めようとしない史上稀な負け癖のついた闘将というイメージです。
それでいて戦闘意欲満々、会津国境の母成峠で虎の子の伝習隊が壊滅してもまだ諦めずに北に逃げ、函館五稜郭での戦いでも最後まで大逆転を信じて徹底抗戦を叫んでいたのもこの人です。
本人は真剣でしょうが、何となく可笑しいのは、スペインの騎士道を風刺したドン・キホーテを思わせる存在だからかも知れません。
しかも、函館で敗戦し牢獄生活2年半、死罪を免れた途端、頭を切り替えて国のためにと割り切って命がけで働きます。
四十歳からの大鳥圭介は、外国の産業視察から帰国以来、日本の近代工業を築き、教育や美術に力を注ぎ、工部省入りしたあと、工部美術学校長、工部大学校長、学習院長、華族女学校長などを歴任、さらに清国在勤全権公使や朝鮮国駐節公使など幅広い活躍をします。
さすがの福沢諭吉も、新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚を名指しで裏切者呼ばわりしながら、大鳥圭介だけは見逃すのですから、人から憎まれないという徳が身についていたのかも知れません。それとも、福沢諭吉からみて、大鳥圭介は相手にされなかったのか? それも謎です。
播州赤穂の山際の小村の医師の家に生まれ、江川塾で砲術を学び、江川家手代の中浜万次郎から英語を学んだのをきっかけに幕府に急接近して、やがて旗本となり内乱に巻き込まれて日本の陸軍の基礎となる伝習隊を育て、やがては日本の産業と教育文化に大きく貢献した大鳥圭介・・・武士道からみて、少々横道に逸れたにしても、義に生きた一流の怪男児であるのは間違いありません。


河井継之助にみる武士道

河井継之助にみる武士道

村長

新渡戸稲造の武士道第十一章に克己心について触れた項目があります。
武士は、むやみに感情を表に出すべきではない。不平不満を口にせず不屈の勇気をもって耐える訓練も必要とするのです。
さらに、自己の喜怒哀楽を顔に現わして他人の平穏な心をかき乱すことがないようにすべきだ、とします。
ここまでを当てはめれば、多くの優れた敗軍の将を思い浮かべることが出来ます。
なかでも、越後長岡藩牧野家の家臣・河井継之介の人間性豊かな和睦への努力と戦場への決意など和戦両様の構えに心ある武士としての適切で冷静な対応を感じます。
河井継之介は、藩内切っての改革派で、慶応元年(1865)の郡奉行から町奉行と昇格する度に、大幅な藩政改革に着手し、風紀粛正や農政改革、灌漑工事や兵制改革など藩内のあらゆる改革を体を張って実施します。
そんな河井継之介が本領を発揮するのは、戊辰戦争勃発後の薩長土連合の奥羽征討軍との和睦交渉での対応です。
徳川幕府に大政奉還されて、攻めるべき目標を失た薩長土連合軍は、相手を幕府から会津潘に切り替えて無理矢理朝敵に仕上げます。
その会津進行への足掛かりに越後に侵攻したところで、長岡藩との交渉になります。
藩内は、非戦恭順派と徹底抗戦派に割れて一発即発の殺伐な情況になりますが、継之助は中立停戦を主張、藩内の両派を抑えて、薩長土連合軍に、会津藩との和睦調停交渉に臨みます。
交渉は、小千谷の奥羽征討軍本陣に近い慈眼寺において、新政府軍監・土佐潘の若い岩村精一郎との間で行われました。
河井継之助は長岡藩は中立を宣言、奥羽への侵攻停止を訴えて嘆願書を出したが、ここまで連戦連勝で来た岩村精一郎には中立など考えられず嘆願書も受け取らず申し出を拒絶、河井の和平中立の意図を理解できるわけもなく、降伏して会津藩討伐の先鋒になれと一方的に奥羽征討軍の要求を突きつけます。河井継之助が返事を渋ると、岩村が高圧的な態度で席を立って交渉は決裂、話し合う余地もありません。
それでも河井継之助は何とか話し合おうと夜まで粘りますが、岩村は会おうともしません。
これで和解を諦めた継之助は潘に戻り、軍議で長岡藩の徹底抗戦を議決し、奥羽列藩同盟にも加わって北越戦争へと突入します。
長岡藩内恭順派の世襲家老が交戦状態前に出奔したこともあり、藩主の絶対的信頼の元に継之助は開戦の全権を掌握します。
家老上席・軍事総督として戦いに突入した継之助は、近代的な訓練と最新兵器で武装した長岡藩の将兵を巧みに用い、開戦当初から奥羽征討軍の大軍と互角以上に戦います。その後、長岡城を巡る攻防戦で一進一退を繰り返すうちに継之助が左膝に銃弾を受けて重傷を負い、そこから絶対的な敵の兵力に押されて長岡潘が不利になり、長岡城が陥落して、継之助らは山深い八十里峠越えで会津へと向かいます。
継之助は峠を越えて会津藩領に入って只見村で休みますが、ここで体調が悪化し、ついに命尽きます。
中立和順の道を閉ざされ、降伏して会津攻めの先鋒を勤めるを潔しとせずに戦う道を選んだ河井継之助・・・地元では降伏帰順していれば土地は荒らされなかったとの説から継之助を悪人とみる人もいますが、多くの人は河井継之助の正義と勇気に心を惹かれます。
私も、只見村取材行で八十里峠の山道に踏み入り、河井継之助終焉の家を訊ねて、少ない兵力で奥羽宇征討の大軍を蹴散らした河井軍略の妙が、継之助が怪我をしなかったらどうなったか? 河井継之助の武士道の神髄を知りたいような気もします。


木村銃太郎、丹羽一学にみる武士道

木村銃太郎、丹羽一学にみる武士道

武士道の最も偉大で崇高なものは「命は義に依って軽し」という義と仁のために命を投げ出す心だと新渡戸稲造博士も認めています。
主君の為には命を惜しまない覚悟の忠節も大切ですが、私達の心の琴線に触れるのは、この義に触れた時のような気がします。
南北朝時代の楠木正成・正行親子、元禄時代の赤穂義士・・・その流れは幕末にも連綿として続いています。
武士道の根本が、義であるとしたら、幕末こそが武士道の華々しく花開いた最盛期で、そこから今でも細々と続いているのを感じます。
我々日本人の血の中のどこかに仁、義の心があるからこそ、大震災でも倒壊家屋荒らしなど外国では当然のような犯罪が少なく、むしろ救助のためのボランティアや救援金が続々と集まってくるのです。これこそ日本人の誇るべき特質で、これも武士道のお蔭です。
幕末への入り口となるペリー来航以来、尊皇攘夷論が湧きあがり、勤皇か佐幕かで国は真っ二つに割れ、勤皇であれ佐幕であれそれぞれが自己の信ずる武士道に賭けて命がけで戦い、義のために死んでいます。
この武士道の鑑(かがみ)は必ずしも個人の名誉だけではありません。
幕末の戊辰戦争で、藩を挙げて戦って壊滅した東北の二本松藩などは、潘そのものが武士道の塊のようなものです。
それが奥州二本松10万5百石の二本松藩、少年、老人も集めてわずか2千の将兵で真正面から臆することなく、数万の薩長連合軍を相手に戦い、潘の重役の殆どが城を守って討ち死にします。そこには壮絶なまでに凛とした義への思いがあり死をも恐れぬ勇気が漲っています。
南に隣接する三春藩が、奥羽列藩同盟に参加したにも拘らず、何の抵抗もなく降伏して新政府軍の先鋒を勤めて大軍で攻め入って来ると知って、藩の重役会議では戦うにも主力の軍勢は筆頭家老・丹羽丹波が率いて白河城の攻防戦に遠征中で不在、新政府軍の大軍が明日にも城下に迫るとの緊迫した情況での軍議だけに誰もが必死で鬼気迫る雰囲気で怒号が交差します。徹底抗戦を叫べば全軍壊滅を意味し、戦わずしての降伏は奥羽列藩同盟への裏切りとなる。退くも進むも地獄とあって軍議が拮抗して荒れているところに、仙台での列藩会議から二本松潘危うしの急報に接して馬を駆って帰潘した新任家老・丹羽一学が軍議の空気を察して穏やかな表情で決然と言います。
「我らは会津を救うために列藩同盟に加わった。今、それを裏切って敵の先鋒となって会津を攻め、今日までの友と殺し合う。それで武士の義が立つのか? それで、二本松武士の名を後世に残せるのか?」
ここは私が書き進めている戊辰内乱の一節ですが、史実はここから軍議が一変して徹底抗戦に踏切り、藩主の身内から勧められた和議の申し出を断って老人や少年兵まで駆り出しての徹底抗戦となります。
その少年隊を率いたのが22歳の青年将校・木村銃太郎です。
銃太郎は二本松藩砲術指南の家に生まれ、藩命で江戸の江川太郎左衛門に弟子入りして砲術を究めて帰潘し、12歳から17歳までの藩士子弟を門人にして将来の二本松武士を育成していました。この日、突然、戦地への出陣を命じられ、銃太郎はその教え子達を引き連れて、阿武隈川近い大壇口へ出陣し、新政府の大軍に対して一歩も引かぬ死闘のうちに被弾して瀕死の重傷を受け、副隊長の介錯を受けて絶命します。
教え子達を庇っての見事な戦いぶりは「敵ながら天晴れ」と敵将の板垣退助も、共に散った少年兵をも含めて賛辞を惜しまなかったと伝えられています。と、同時に、板垣退助は「全藩を挙げて命を惜しまず戦った二本松藩こそ武士の鑑」との言葉を残しています。
なお、前述の家禄六百石の新任家老・丹羽一学は城壁の銃狭間から銃で応戦し弾尽きると弓矢で戦い、白兵戦で敵を倒し、矢折れ刀尽きて自決して他の家老共々焼け行く城と運命を共にします。
私は、この二本松城の攻防に義に生きた武士の覚悟と潔さを見て、それぞれの墓前に詣でしばし瞑目の時を過ごしました。