木村喜毅にみる武士道

 

木村喜毅(よしたけ)にみる武士道

花見 正樹

幕末三舟と聞けば歴史好きなら誰もが勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥州の名を挙げます。
では、幕末五舟とは? ここで田邊蓮舟、木村芥舟と出たら完全に歴史通ですが、ほぼ無理なようです。
この幕末期の五人はそれぞれが立派な活躍をした人物ですが、一般的な知名度では、この中で勝海舟だけがずば抜けています。
勝海舟の場合は、文武両道に優れて女好き、自由奔放に生きましたから、人生の楽しみ方でも五人の中では群を抜いているようです。
これに比して木村芥舟の場合はエリート街道まっしぐらですし、山岡高橋の義兄弟は武士の見本のような硬骨漢です。
ましてやここで語る木村芥舟こと木村摂津守喜毅などは謹厳実直ひたすら新しい国家建設に情熱を傾け私財を投じます。
この相反する性格の海舟こと勝義邦と木村喜毅では水と油、全く異質のコンビですが、この二人が約140日間、波高き太平洋上で過ごすのですから世の中、何が起こるか分かりません。勝義邦は、軍艦奉行・木村喜毅提督の下で教授方頭取として幕府軍艦・咸臨丸で初の太平洋横断に成功して歴史に名を刻みます。
木村家の祖は初代・昌高が第3代将軍家光の三男で甲府藩主・徳川綱重に仕えています。
昌高の子・木村家2代目の政繁は、徳川綱重の子で第6代将軍・徳川家宣に従って旗本に列します。
政繁の子で木村家3代目の茂次からは代々浜御殿添奉行・同奉行を務め、代々の将軍と親しい関係を続けることになります。
木村喜毅は文政13年(1830)2月27日に生まれ、幼名を勘助といいます。
幼いころから聡明で体も大きく、老中・水野忠邦に見いだされて12歳時に17歳として父・喜彦に連れられ浜御殿奉行見習として江戸城初出仕を果たしています。
その後は、12代将軍徳川家慶の寵恩を受け、さらに老中・阿部正弘に目を掛けられて西の丸目付に登用されますが、喜毅を陰で支えてくれたのは就学時代の先輩である岩瀬忠震(ただなり)で、老中・阿部正弘の下では岩瀬忠震、大久保忠寛(一翁)、木村喜毅、永井尚志(なおゆき)らがとくに重用され、喜毅は目付のまま長崎表御用取締として、長崎奉行の職務監察に当たることになります。
安政4年(1857)に長崎に赴任した喜毅は長崎海軍伝習所取締に就任、生徒の住環境改善や航海訓練海域の拡大による訓練生の操艦技術向上を図り、伝習所教官のオランダ軍人・ペルス・ライケン、カッテンディーケらの信頼を得ます、
安政6年(1859)5月に海軍伝習所が閉鎖され、江戸に戻った喜毅は目付に復帰、外国御用立合、神奈川開港取調、軍艦奉行並と次々に役職が上がっていきます。
そして迎えた万延元年(1860)、前年に締結された日米修好通商条約の批准のためにアメリカに派遣される正使・新見正興一行が乗る米艦ポーハタン号の護衛として、咸臨丸が派遣されることになり喜毅が軍艦奉行として咸臨丸提督に就任します。
喜毅は海軍伝習所所長時代の訓練生、浦賀奉行所、江川塾から人選し、勝義邦を艦長並の教授方頭取に抜擢、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、山本金次郎、中浜万次郎、鈴藤勇次郎、浜口興右衛門、小野友五郎らに、義兄の御殿医・桂川甫周に頼まれた書生の福沢諭吉を従者に加えています。水夫やアメリカ軍人ら総勢96人を乗せた咸臨丸は、浦賀からサンフランシスコまでを無事に航海し、遅れて到着した正使一行共々、熱烈な歓迎を受けて帰路に就きます。
この間に国内では、安政の大獄と言われる過酷な処罰を行った大老・井伊直弼が水戸浪士らに江戸城桜田門外で襲われて惨死、世情は荒れに荒れていました。
帰国後の木村喜毅は軍艦奉行に復帰し、直ちに列強に劣らぬ幕府海軍の創設のために骨身を惜しまず活動し、軍制改革によって幕府海軍長官となり、軍艦組を創設します。
海軍長官としての木村喜毅は、初の国産蒸気式軍艦「千代田形」の建造を開始、アメリカとオランダにも軍艦を発注、海軍軍人の育成に、
榎本武揚らを海外研修に出します。
さらに喜毅は、日本周辺海域防備のため、大型艦隊を各地に配備するために艦船の大量建造、海兵の募集を幕府に献策しますが、その壮大な構想に驚いた幕府閣僚の猛反対に遭って却下されます。幕閣が恐れたのは、身分に関係なく能力で階級が上がる西洋式軍隊制度によって、士農工商制度の崩壊だったのです。喜毅は自ら望んで軍艦奉行を辞職しますが、幕府に請われて再出仕して開成所頭取、目付、外国御用立合、海陸備向掛などを歴任します。
さらに、兵庫開港問題で老中と対立して罷免されますが、また幕政に復帰し軍艦奉行並となります。
そこで、ようやく小栗忠順や勝海舟の応援を得て、海軍の西洋式・階級俸給制度の導入に成功、海軍の基礎が出来上ったのです。
その後、鳥羽伏見の戦いが勃発、将軍が敵前逃亡して大坂から江戸に逃げ帰っては幕府軍に勝ち目はありません。
薩長土連合軍の江戸城総攻撃は、将軍警護の山岡鉄太郎の命がけの交渉などで避けることが出来、喜毅は勝手方兼任の勘定奉行として、江戸城開城の際には幕府の事務処理を務め、役目を終えて府中に去ります。
この木村喜毅の凄さは、咸臨丸での渡米の際、乗組員たちへの手当てを幕府に要求して容れられず、自分の書画骨董を処分して3千両(約2億円)もの大金を咸臨丸に積み込み、全員に報奨金や服装・土産代に分配し残らず使い切り、幕府から渡された渡航費用の5百両はそっくり返したところにあります。木村喜毅は私財を投げうって人を育て、外国に学んで日本の海軍創設に尽しました。その私欲のない潔い生き方にも感動しますが、将軍・徳川慶喜の進退に合わせた身の処し方にも武骨ながら芯の通った武人の魂を感じます。
この木村喜毅に関しては、同じ「歴史の舘」内「歴史こぼればなし」で連載中の「咸臨丸物語」をご覧ください。
その著者、宗像善樹講師の奥方が木村喜毅のご子孫で、「お休み処」内「史話秘話名所名物・雑学ルーム」担当の宗像信子講師です。


中岡慎太郎にみる武士道

中岡慎太郎にみる武士道

花見 正樹

中岡慎太郎は天保9(1838)年5月6日に土佐国安芸郡北川郷柏木村の大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれます。
17歳で間崎哲馬に学問を学び、18歳で武市半平太に剣術を学びます。
20歳で結婚、24歳のとき武市半平太が結成した土佐勤皇党に参加して本格的に志士活動を始め、長州の久坂玄瑞などと交流します。
文久3年(1863)8月の京都の政変後、土佐藩内の尊王派に対する弾圧から逃れて脱藩して、長州藩に逃げます。
その後、三条実美の衛士となり、各地の志士たちとの連絡役などを引き受けます。
元治元年(1864)から石川誠之助の変名を遣い、薩摩の島津久光暗殺を画るが未遂、禁門の変、下関戦争と長州側で戦います。
やがて、尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に傾倒し、旧友の坂本龍馬と共に長州の桂小五郎、薩摩の西郷吉之助らを説得して薩長同盟を目指し、慶応2年(1866)1月の薩長同盟締結に結実させます。
さらに、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助らと、土佐の後藤象二郎、福岡藤次、坂本龍馬らと倒幕・王政復古への薩土盟約も締結させ、それに安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大させます。
この中岡・坂本の努力で作り上げた薩摩、長州、安芸、佐賀の軍事同盟は、旧態依然とした土佐藩内の兵制改革をも促し、意識改革や藩政改革をも進めることになります。
中岡慎太郎は、長州の高杉晋作が結成した奇兵隊を参考に、土佐でも陸援隊を組織して自らが隊長となります。
その慎太郎も、慶応3年11月15日(12月10日)、京都四条の近江屋において坂本龍馬と共に何者かに襲われて瀕死の重傷を負い、その二日後に息絶えます。享年30歳、あまりにも若過ぎる死です。
武士道からみた中岡慎太郎の実像は、慎太郎を知る第三者の評価が参考になります。
西郷隆盛は 「ともに語り合える一流の人物にして、節義の士なり」
坂本龍馬は 「中岡と事を謀るが往々にして論旨が異なるを憂う。然れども中岡と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」
板垣退助は 「坂本龍馬よりは、ある面で優れていた。中岡慎太郎は西郷、木戸と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた」
他に、岩倉具視、香川敬三らも激賞するが、これらは信用に足るものではないと判断して割愛します。
拙著「小説・坂本龍馬異聞」では、武力討幕に反対する龍馬を慎太郎が斬りますが、慎太郎の一途さならあり得ることです。
私は、中岡慎太郎は自分の道を真っ直ぐ進んだ武士道に叶う立派な武士であったことを認め、その早い死を惜しみます。


徳川慶喜にみる武士道-1

徳川慶喜にみる武士道-1

花見 正樹

私が新渡戸稲造の「武士道」現代版を呼んで半世紀、本物の復刻版を見て2年目、もっとも「武士道」と遠い幕末の著名人がこの方です。
義という面では自分に尽した松平容保を見捨てて自己保身に走った時点でアウトですし、仁としては多くの武将を捨てて大坂から夜逃げしたことで人情の機微も人の道も捨てたと解釈されても仕方ありません。しかも、その時はまだ征夷大将軍で武士の頂点にいたのですから武士道らしき言動が全くないとしたら余りにも惨め過ぎます。
そこで、鎌倉時代は三浦一族の神官であったわが先祖が徳川政権下ではしがない会津の郷士でしかなかった現実を踏まえると、神様のような存在の徳川様の論評などとんでもないことで打ち首どころか獄門張りつけですが、弁護なら100叩き程度で許されるはずです。
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府において第15代将軍として在職約1年で日本の武家政治の幕を閉じます。
天保8年(1837)9月29日、江戸小石川の水戸藩江戸屋敷において水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれます。
幼名は松平七郎麻呂で生後すぐ水戸に送られ、藩校・弘道館で学問・武術を学び、11歳で請われてを御三卿の一橋家の世嗣として家督を相続、名を慶喜とします。
嘉永6年(1853)に黒船来航、将軍・家慶の病死と混乱が続き、その跡を継いだ第13代将軍・家定が病弱のため、将軍継嗣問題が揉めますが、水戸の徳川斉昭と共に慶喜を推した薩摩の島津斉彬や老中・阿部正弘が急死したため、紀州藩の徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直が大老就任を機に将軍継嗣は南紀派の推す慶福(家茂)と決定します。
その井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、水戸藩の徳川斉昭、福井藩主・松平慶永、慶喜らの詰問を受けます。
それに対して直弼は、斉昭への隠居謹慎処分などいわゆる安政の大獄で反撃し多くの人命も奪います。
その結果。安政7年(1860)3月3日、水戸浪士らに桜田門外で殺され、慶喜は謹慎を解かれます。
文久2年(1862)、島津久が薩摩藩兵を伴って江戸に入って幕政に介入、松平春嶽を政事総裁職にした上に慶喜を将軍後見職に推し、久光自身も幕府と朝廷側との協力体制側にも力を貸すことに成功します。
これを機に幕閣内で力を得た一ツ橋慶喜と松平春嶽は、京都守護職の設置など幕政改革を積極的に進めます。
慶喜は将軍後見職の立場で上京し、朝廷側と攘夷の実行について協議した折に、従来通りに国政を江戸幕府に任せなければ、政権を朝廷に返上するがどうか? と無理難題のつもりで脅しますが朝廷側は素知らぬ振りで幕府側に攘夷の実行を迫ります。
元々勤皇思想の強い慶喜ですから天皇には逆らえません。朝廷側は慶喜の弱腰を見て、これを機に幕府に対して攻勢を強めます。
異国嫌いの孝明天皇から攘夷の実行を迫られた慶喜が江戸に戻って横浜鎖港を図ると、これに反発した開国派の松平春嶽が政事総裁お職を辞すなど、幕閣内の足並みも乱れます。
それでも慶喜は攘夷実行の方策として横浜鎖港方針を確定させます。
その後の政変で長州藩ら尊皇攘夷派が排斥され、公武合体派諸候と幕閣による参預会議のため再び上洛した慶喜は、横浜鎖港に反対する島津久光、松平春嶽、伊達宗城らを罵倒する暴挙に出て会議をも崩壊させる強硬手段に出ます。
その後、慶喜は将軍後見職を辞任、朝臣側に近い禁裏御守衛総督に就任して周囲を驚かせます。
しかし、慶喜が進めた横浜鎖港は、慶喜の後ろ盾になるべき水戸藩が天狗党の乱をめぐる幕閣内の対立に巻き込まれて慶喜の兄・直克も失脚し、慶喜が図った横浜鎖港は頓挫します。
その慶喜の勤皇攘夷思想を根本から変える事件が起こります。
元治元年(1864)7月に起きた長州藩によるクーデターです。この戦いで御所の守備軍を指揮した慶喜は、鷹司邸を占領していた長州藩軍を果敢に攻撃して、自ら抜刀して長州兵と地上での白兵戦を行っています。
この戦いで慶喜は勤皇攘夷派への融和的態度を棄て、一緒に戦った会津藩や桑名藩への信頼関係が深まることになります。
聡明で変わり身の早い慶喜は、自分の後ろ盾でもあった水戸藩天狗党の武田耕雲斎らも切り捨て、勤皇派の長州征伐を蹴った薬させ、幕府にとり長年の懸案事項であった諸外国に対する安政五カ国条約の勅許を得るために奔走し、慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、それを認めない場合は慶喜自らの切腹と幕軍の強硬暴発に言及し、遂に勅許を得ることに成功します。
ここにおいて、京都に近い兵庫港を除く主要港の開港への道筋はつきます。
慶応2年(1866)に幕府は第二次長州征伐戦を行いますが、坂本龍馬の仲介で結ばれた薩長同盟で薩摩軍の参加がない幕府軍は連戦連敗、その最中に将軍・家茂が大坂城で急死します。すかさず慶喜は休戦を決意、朝廷や会津藩の休戦反対の声を押し切って休戦の詔勅を得て長州藩と休戦協定を締結します。長州藩としてもこれ以上の国力の疲弊は免れたかったのです。
家茂の後継として将軍に幕閣や諸大名から推された慶喜は、これを何度も固辞し、徳川宗家は相続したが将軍職就任は拒み続けます。
かつて実父の水戸藩藩主・徳川斉昭にも「将軍には成らない。幕閣にあって国を支えるのが自分には向いている」と手紙で述べています。
しかし、他に人材のいないことから12月に入って将軍に就任したことから、周囲からは散々辞退した将軍職を受諾したのは、恩を売った形への「政略」とみる人も多く、慶喜の先を見通す聡明さがしばしば策士の策にとられているようです。
こうして将軍になった慶喜は、迷うことなく幕閣を開国体制へと本格的に移行させてゆきます。
慶喜は、会津藩と桑名藩を重く用い、朝廷との密接な連携を保ちながら、慶喜は京都と大阪を拠点に、多くの閣僚や幕臣を上洛させて、実質的には機内で幕府を開いているかのようでもありました。
また、将軍職に就いた慶喜は、これまで長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣ともよく話し合い連携して改革を推進しました。
慶喜は、フランス公使・レオン・ロッシュと強い信頼関係を結び、彼を通じてフランスから240万ドルの援助を受けて、横須賀製鉄所や造船所、修船所を建設します。
さらに、ジュール・ブリュネら軍事顧問団を招いて幕軍の軍制改革を行い、古い慣習を棄て、老中の月番制を廃止、陸軍総裁、海軍総裁、会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁の役職を設置して国政の近代化にも乗り出します。
また、実弟を含めて幕臣の子弟らをパリの万国博覧会に派遣、欧州留学なども奨励して日本の国際社会への参加を急ぎます。
この慶喜主導の開国政策を嫌った薩長が、武力倒幕路線に進むことになり、それを危ぶむ坂本龍馬の船中八策の建策により、慶喜は薩長討幕派の行動に先手を打って慶応3年(1867)10月14日、政権返上を奏上、翌日に勅許されて大政奉還が成立します。

つづく

 


山岡鉄太郎にみる武士道-3

山岡鉄太郎にみる武士道-3

花見 正樹

西郷は、幕府に囚われていた仲間の益満休之助が無事に帰還したことを喜び、益満から、幕府の使者を買って出た山岡が、案内役に益満を望んだことで牢内から釈放されたことと、山岡とは勤皇を旗印にする虎尾の会の仲間であることを話すと、西郷は深く頷いて山岡との会談を受諾します。
この時、すでに江戸襲撃を3月15日と決めていた西郷は、山岡が持参した勝海舟からの手紙で、山岡と図って益満を牢獄から救い出して薩摩藩に戻すために案内役にした経緯を知り、その好意に応えるべく真剣な態度で山岡との会談に臨みます。
西郷は最初から毅然として「今さら江戸攻撃は変えられん」と宣告しますが、山岡鉄太郎の真摯な態度に徐々に心を許し、ついに江戸城総攻撃を取りやめてもいいが、いくつかの条件はある」と言います。
その時、西郷が山岡鉄太郎に示した江戸城総攻撃回避の条件は次の通りです。
1、徳川慶喜を備前藩預けとする。
1、江戸城の無条件明け渡し。
1、全ての軍艦の引き渡し。
1、全ての武器の引き渡し。
1、城内居住の家臣は向島にて謹慎。
1、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物の調査と処罰。
1、暴発の徒がいる場合、官軍が鎮圧する。

これらの殆どは、既に大総督府軍議で決定していた事項をほんの少しだけ手直ししたものです。
これを見た鉄太郎は、すかさず将軍・慶喜の備前藩預けをみて強い口調で反発します。
「西郷殿は、薩摩藩主・島津の殿を他藩の預かりと言われても承知ですかか?」
しかし、これは山岡らしからぬ愚問です。
斉彬派の西郷は、島津久光には何度も殺されかけて天を共にせぬ仇敵の間柄ですから、鉄太郎と慶喜の仲とは距離感が違います。
それでも、山岡鉄太郎の主君・慶喜を想う真心に負けた西郷が妥協して、西郷が善処することで会談は無事に終了します。
帰路は、大総督府発行の手形がありますので山岡鉄太郎は無事に江戸に帰還して、直ちに勝海舟ら幕閣に結果を報告します。
ここからは勝海舟の出番となり、江戸田町の薩摩藩江戸藩邸で慶応4年3月13日から二日間、西郷、大久保一蔵ら薩摩藩側と、勝義邦、大久保忠寛、山岡鉄太郎ら旧幕府側との会談で、江戸城の無血開城が決定、後の条項は何ひとつ厳密に決めても守られないことが予測できることばかりです。
歴史の本などでは、この会談は、西郷と勝の二人による密室会談との著述を見かけますが、それはあり得ません。
西郷と大久保一蔵は表裏一体ですし、幕府の内情に一番詳しく幕府解体・公武一和を幕閣にありながら早くから望んでいたのが大久保忠寛(一翁)だからです。
それに、この会談の下準備をした山岡鉄太郎の同席を西郷が望まぬはずはありません。
さらに、勝と西郷は5年ぶりの再会ではありますが、5年前に勝が西郷に示唆した徳川幕府の脆弱さと幕府解体への助言が、西郷の討幕計画に役立っていることを思うと、この江戸城無血開城のシナリオは、遠い昔から出来上っていたような気もします。
西郷と勝、新政府と旧幕府の二人の大久保、それら4人の丁々発止の達者な会話を耳にしながら、発言もなくひたすら部屋の隅に控えていただけの山岡鉄太郎の心中はいかがなものであったか?
山岡鉄太郎はただ、おのれが仕える前将軍・徳川慶喜の身の安全と徳川家の存続を願っての命がけの行動だっただけです。
一途に主を思って命がけの行動を貫いた山岡鉄太郎の武士道は、勝海舟の陰に隠れて表には出ませんが、これはこれでいいのです。


山岡鉄太郎にみる武士道-2

山岡鉄太郎にみる武士道-2

花見 正樹

戦いを指揮すべき徳川慶喜が逃亡したため大阪城に籠もっていた幕府軍は、船で江戸に撤退します。
初戦に勝った西軍は、徳川慶喜追討令、会津藩・松平容保(かたもり)、桑名藩・松平定敬(さだたか)、幕閣大名ら27人の官職を剥奪し、その各藩京都藩邸を没収という一方的な処分をはっぴょうします。
しかも、諸藩に対して西軍の最前線で幕府軍と戦うことと軍資金の提供を迫り、逆らえば賊軍として討伐すると脅します。
さらに、諸外国の代表には、幕府軍への武器弾薬などの供与や援助を、軍事協力しないように要請します。
諸外国代表は、西軍を新政府と認めるのはまだ早い、戦闘の結果が出るまでは局外中立と宣言します。
江戸に逃げた徳川慶喜は、山内容堂らに新政府軍との和睦斡旋を依頼します。
主戦派の小栗忠順(ただまさ)らは、反撃ときょうとb奪回の良策を献策しますが、賊軍の汚名を被るのを恐れた慶喜は、小栗忠順を罷免し、恭順派の勝義邦と大久保忠寛を登用します。
恭順派を中心とした新幕閣は、官位を失った松平容保、松平定敬、板倉勝静らに江戸城への出入りを禁じ、慶喜自らは上野寛永寺大慈院に移って恭順の姿勢をとります。
それでも西軍の強硬派・西郷隆盛は、江戸城を武力で奪取して幕府を屈服させ、幕府を支えた慶喜を始め、松平容保、松平定敬らを厳罰に処すことを主張、江戸城攻撃の日を3月15日と主張、それを通します。
一方、長州藩の木戸孝允らは、江戸城攻撃は当然としても、徳川慶喜個人に恨みはない、として寛典論を主張、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城ら諸侯が、この木戸孝允の寛典論に賛成しますが、西郷は頑としてそれを受け入れません。
西軍は、東海道、東山道、北陸道の三方面から江戸攻撃へと迫り江戸攻撃が刻々と迫っていますが、幕府軍の主戦派は江戸城内には入れませんから、市街戦で戦うしかありません。このままでは江戸中が戦火に燃え落ちることになります。
火の海になって住民はみな焼け出されてしまいます。
勝義邦は、これを逆手にとって、江戸を戦火から守るという理由で、江戸城を死守せずに明け渡すという策に出ます。
勝義邦は、主戦派の新選組や本格的軍隊の伝習隊を江戸から遠ざける策に出ます。
その上で、西軍との交渉を考えます。
それとは別に、薩摩出身の第13代将軍徳川家定正室の天璋院は、旧知の仲の西郷・大久保の両名に慶喜助命の嘆願書を送ります。
さらに、第14代将軍徳川家茂正室の静寛院宮・和宮も、かっての婚約者である東征大総督有栖川宮や朝廷側の人脈を通じて、将軍・慶喜の助命と徳川家存続の歎願を何通も出しています。
これらの嘆願書を手元に集めた西郷隆盛は、非公式ながら他言無用として、天璋院にだけは「歎願の旨承諾」と返信しています。
江戸攻撃の日が刻々と迫る中、勝義邦は西軍への使者を考え、その白羽の矢を高橋泥州に向けます。その時、泥州は徳川慶喜を護衛していて離れるわけにいかず、泥舟の義弟である精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦します。
歴史では以上のようになっていますが、私(花見)は、慶喜の苦悩を身近で見ている高橋泥州が義弟の山岡鉄太郎に相談し、それを受け山岡鉄太郎が西軍との交渉に行くことになり、幕府の総参謀である勝義邦の邸を訪問して助言と許可を得たと見ています。
これで勝と山岡の思いは一致し、西郷と面識のない山岡鉄太郎は、勝によって西郷の人物の大きさを知り、誠意を以て理を尽すせば筋は通ることを確信します。
そこで鉄太郎は、案内人として江戸市内攪乱の首謀者として獄舎に入っている薩摩藩の益満休之助の解放を要求します。
ここでも歴史は都合よく、勝家に匿われていた益満を、勝が山岡の護衛に付けたとなっています。
どう考えても、これは勝海舟得意の冗談?としか思えません。
江戸で乱暴狼藉を働いた敵藩の首謀者を、幕府の責任者が自宅に保護と称して匿いますか?
ともあれ、清河八郎主宰の「虎尾の会」の仲間である益満の案内で山岡鉄太郎は、幾重にも重なる敵陣を突破して無事に駿府の大総督府へ到着、直ちに下参謀・西郷隆盛の宿泊とする館に乗り込み、西郷との面談を求めます。
つづく


山岡鉄太郎にみる武士道-1


山岡鉄太郎にみる武士道-1

花見 正樹

戊辰戦争における江戸城無血開城と江戸を戦火から守ったのは間違いなく山岡鉄太郎です。
鉄太郎は天保7年6月10日(1836年7月23日)に江戸本所に蔵奉行で木呂子村知行主・小野朝右衛門高福の四男として生まれました。母の磯は、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女で、ご先祖に鹿島新当流の祖・塚原卜伝を持つという出自です。
その血を受けたのか鉄太郎は、幼少時より剣の道に目覚め、9歳にして久須美閑適斎より直心影流を学び、10歳の弘化2年(1845)に、父が飛騨郡代となって飛騨高山に転居、岩佐一亭に書を学び、井上清虎より北辰一刀流剣術を学びます。
嘉永5年(1852)に父の死で江戸に戻り、20歳の安政2年(1855)に講武所に入り、千葉周作に剣術、山岡静山に槍術を学びます。山岡静山の急死で、静山の実弟・高橋謙三郎(泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚して山岡家に入り、山岡鉄太郎となります。
安政3年(1856)に講武所の世話役となり、安政4年(1857年)、清河八郎、高橋謙三郎ら15人と尊王攘夷を旨とする「虎尾(こび)の会」を結成します。
文久2年(1862)、清河八郎の建策で幕府により浪士組が結成されると、取締役に命じられ、文久3年(1863)年明け早々に、将軍・徳川家茂(いえもち)の護衛の先供として、浪士組を率いて上洛します。
ところが、浪士組結成の立役者である清河八郎が「尊皇攘夷こそ我らが本意である」と宣言して朝廷からの勅諚を得てしまいます。
その清河の動きに気づいた幕閣は、横浜寄留の外国兵隊に不穏な動きがあり警備のために、と称して浪士組の江戸帰還を命じます。
江戸に呼び戻された清河八郎は、同行の浪士組世話役・佐々木只三郎らによって暗殺され、虎尾の会の仲間であった山岡鉄太郎は、短い期間ではありますが謹慎処分を受けます。
その後、質実剛健で剛毅な性格の山岡鉄太郎は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見のい戦勃発後も、精鋭隊歩兵頭格として幕府軍隊強化のために力を尽します。

慶応3年(1867)10月の大政奉還以来、将軍・徳川慶喜の立場は微妙に揺れ動きます。
新設予定の諸侯会議の議長にとの案も、討幕派の公家・岩倉具視や大久保利通と西郷隆盛らの薩摩組の主導で潰され、12月に入っての王政復古の大号令と小御所会議の決定で、慶喜の官職と領土の返上が命じられます。
思いもかけない事態に追い込まれた慶喜は、大坂城に退き対策を練ります。
公武合体・公議政体派の前土佐藩主・山内容堂、前越前藩主・松平春嶽、前尾張藩主・徳川慶勝らの巻き返しで、慶喜の立場はかなり回復しますが、すでに、討幕の密勅が薩摩と長州に下されていて、江戸薩摩邸の江戸市中破壊工作も活発化していました。
薩摩藩は、この破壊工作を江戸薩摩藩邸駐在の益満休之助と伊牟田尚平に命じます。この二人は、山岡鉄太郎の「虎尾の会」仲間です。
さらに薩摩藩は、相楽総三ら浪士を集めて江戸市内の商家や裕福な町民などを狙って強盗押し込み放火などの破壊工作を始めます。
しかも白昼堂々と群れを為して悪事を働いた浪人達は大手を振って薩摩藩邸に逃げ込むのですから放置は出来ません。
これに怒った江戸市中警備の庄内藩が、相手の挑発に負けて12月25日、ついに我慢できずに薩摩藩邸に砲弾を撃ち込みます。
これを待っていた薩摩藩の西郷隆盛は、直ちに同盟を結んだ長州藩や朝廷側と思われる西国諸藩に檄を飛ばし、朝廷の許しなく作った偽の錦の御旗を前面に押し出して、「討薩表」を携えて京の制圧を目指して進軍する幕府の大軍を迎え討ちます。
ここに戊辰戦争の火ぶたは切って落とされ、錦旗を飾す西軍は官軍、それに歯向かう幕府軍は賊軍、この図式が出来上がります。
戦況は早くから戦闘態勢を整えて満を持していた薩摩・長州軍の圧勝に終わります。
幕府軍が朝敵となったことと、脆くも敗退したことで、淀藩や津藩などが離反し、まだ初戦に敗れただけの6日、幕府軍の総大将でもあるべき将軍・慶喜は、味方の将兵を見捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へと逃走してしまいます。この慶喜の不甲斐ない遁走によって、鳥羽・伏見の戦いは終りました。      つづく


 清河八郎にみる武士道

清河八郎にみる武士道

花見 正樹

東京都日野市には一風変わった建物があります。
その名は「日野市立新選組のふるさと歴史館」、です。
市内には、日野宿本陣、日野宿交流館、高幡不動尊金剛寺、大昌寺、土方歳三資料館、井上源三郎資料館、佐藤彦五郎新選組資料館など、副長・土方歳三を中心にした新選組ゆかりの数々が遺っていて、1日で史蹟観光を楽しめるのも事実です。ただし、資料館によっては第1第3日曜日の正午から午後6時まで開館というケースがありますから要注意です。
平成26年の夏、暑い日に訪れた「日野市立新選組のふるさと歴史館」で開かれた巡回特別展「新選組誕生と清河八郎」というイベントがありました。

パンフレットを見ると、この年は新選組が結成されて150年目で、新選組の誕生に大きな役割を果たした清河八郎の没後150年、それらを記念して山形県庄内の清河八郎記念館と共催での巡回特別展開催となっています。
私の記憶では日野市立新選組のふるさと歴史館企画コーナーでは、「新選組誕生前夜 ・新選組の“生みの親”清河八郎の軌跡 」とあったように記憶しています。
私は、新選組が好きとか幕府が好きとかではなく、歴史の中に息づく青春群像が好きで時代小説を書いています。
したがって、江川英龍、大原幽学、木村喜毅、清河八郎、土方歳三など、その生きざま死にざまや価値観がたまらなく好きなのです。
天下国家を論じ、国の未来を憂いて多くの志士の心に改革の火種を植え付けて死した清河八郎、この生きざまも好きです。
私は、かなり若い頃に庄内を訊ねて清川神社に詣でて以来、世間の一部からは変節の策士などと誤解されている清川八郎を気の毒に思いました。勤皇攘夷を旗印に、国を憂うる全国の志士達に伝導して歩いた清河八郎の真意を知りたいと思う人は沢山いるはずです。

心ならずも偉業半ばに散った一世一代の快男児の真の姿を太陽の下にさらし、多くの人にその真意を知って頂きたいと思うのです。

上述の「日野市立新選組のふるさと歴史館」での巡回特別展「新選組誕生と清河八郎」が、昔、若い頃に立ち寄ったことのある山形県東田川郡庄内町の清川神社境内にある清川八郎記念館と共催であるのを知ったことで、私は庄内の清川行きを即断しました。
雪が降る季節は、休館になるのを知っていますから、その年の10月下旬、友人(本HP坂本龍馬コーナーの小美濃清明講師)と共に、紅葉真っ盛りで色彩鮮やかな出羽の山々を眺めながらのドライブで、清川神社と清河八郎記念館を訪れました。


また、すぐ近くの齋藤家の菩提寺・金華山歓喜寺にも立ち寄り、清河八郎とお蓮さん、齋藤家のお墓に詣でて手を合わせ、ご一族のご冥福とこれからの皆様のご繁栄を祈りました。
ところが驚いたのは、斎藤家の広い墓地敷地内に、戊辰戦争で戦死した藩兵や民兵の墓、天保飢饉の際に齋藤家の蔵米を運び出して処分を受けたとされる農民を悼んで齋藤家が建てた「義民(15名)之慰霊碑」などがあるのです。これを見ただけで、私は目頭が熱くなり裕福だった齋藤家の温情と地域住民にいかに気を遣ったかが理解できたました。


歓喜寺の創建は、天正7年(1579)に旨光上人が開山したとも聞きますが、境内は2400㎡と広く、本堂、庫裏、開山堂、位牌堂などの諸堂を配置したいかにも歴史のある古刹という感じで住職さんの穏やかなお顔を拝見しただけで、戊辰戦争での庄内藩基地になった歓喜寺で西軍を撃破して清川から追い落としたとの言い伝えも神仏の力と代々のご住職が持つ仏力の影響もあるような気がしました。

幕末にその名を残した清河八郎は天保元年(1830)10月10日、庄内藩領の国田川郡清川村の裕福な酒造業で郷士の齋藤治兵衛と亀代夫妻の長男として生まれました。幼名は元司(もとじ)名は正明です。
幼児期から天賦の才を発揮して周囲を驚かしたり、腕白坊主ぶりで困らせることもありましたが、14歳から論語や孟子、易経や詩経を学び、17歳から剣術を学んで文武両道への道を歩み始めます。
その年、元司の人生を変える出会いがあります。東北巡遊中だった30歳の藤本鉄石(後の天誅組総裁)が齋藤家を訪れたのです。
清川に滞在した鉄石の教えで江戸遊学を思い立った元司は、弘化4年(1847)に18歳で江戸に出て、江戸古学派の東條一堂に師事して頭角を現し、東条一堂塾の三傑に数えられるようになり、4年後の嘉永4年(1851)には塾頭に推挙されます。
さらに八郎はその年に北辰一刀流・千葉周作の玄武館に入門し、翌年には初目録、安政5年(1858)に中目録、万延元年(1860)には早くも北辰一刀流兵法免許を得て、剣の道でも一流になります。
学問も、それと同時並行で、昌平坂学問所、安積艮斎(あさかごんさい)塾、昌平坂学問所を経て、安政元年(1854)には、江戸神田三河町で「清河塾」を開きます。弱冠25歳、この時、名を改め、当初は故郷の名をとって清川八郎と名乗りますが、すぐに日本三大急流の最上川から大河の意をとって「清河八郎」とします。
安政4年(1857)に八郎は、火事で失った清河塾を、駿河台淡路坂に再開します。
この頃、千葉道場で知り合った幕臣で尊皇攘夷論者の山岡鉄太郎とその義兄・高橋泥舟とも親しく交わります。
徐々にまた門弟も集まりますが、またしても火事で塾の建物を失います。
それでも八郎はめげません。
安政6年(1859)、神田お玉が池に3度目の清河塾を開きます。
その清河八郎は北辰一刀流の免許皆伝で、剣術も教えましたから、「清河塾」は江戸で初めての文武両道の道場となり、清河八郎は文武兼備の英士として名を知られてゆきます。

清河八郎が憂国の志士として活動し始めるのは、万延元年(1860)に大老・井伊直弼が、江戸城桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受けて惨殺された事件に触発されてからと思われます。
私は、清河八郎は少年時代から易経を学んでいることから、先を読むことも、ある程度は予知能力をも身につけていたと考えています。
八郎は、桜田門外事件の1ヶ月前、国難に対処するには勤皇攘夷を軸に、虎の尾を踏む危険をも省みず、と「虎尾の会」を結成します。
連判状に名を連ねるのは、山岡鉄太郎、松岡万、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助、美玉三平、安積五郎、池田徳太郎、村上俊五郎、石坂周造、北有馬太郎、西川練造、桜山五郎、笠井伊蔵・・・八郎を入れて16名、ここには坂本龍馬はいません。巷間には 坂本龍馬もこの会に連座している、という文章を見ますが、私はまだ確認していません。
八郎と龍馬が同じ巻紙に名を連ねているのは、北辰一刀流・玄武館での稽古試合名簿で見ました。
「虎尾の会」の諸氏は直ちに行動に移すと言い、血気盛んですが、八郎は時期尚早と必死に皆を抑え、このままでは幕府の密偵に探られるから一時「虎尾の会」を解散することも考えます。
そんな矢先、その年の暮れに、益満、伊牟田、樋渡らが、米国ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺してしまいます。
役人の探索で清河塾が疑われ、八郎は捕吏に監視され、翌文久元年(1861)、幕府の罠にはまることになります。
運命の5月20日、水戸藩士主宰の書画展の帰路、その前日に逮捕状が出ていたことで捕吏に囲まれます。一人を切り捨ててその場は逃れますが、八郎は追われる身となり、虎尾の会同志数人や妻のお蓮、弟の熊三郎らが連坐したとして捕われて投獄されてしまいます。
ここから八郎の逃亡生活が始まると同時に、勤皇攘夷から討幕の方向へと舵を切ります。
京の公卿・中山家に接近し、九州遊説で真木和泉や川上彦斎、宮部鼎蔵や平野国臣らとも親しくなり今後の策について話し合っています。
その結果、文久2年(1862)の薩摩藩主・島津久光の上洛まで待ち、久光が倒幕の狼煙を挙げたのを見届けて、全国各地の尊攘派志士に呼びかけ、京都で一挙に挙兵して倒幕に走ることで結論が出ます。
だが、この時はまだ肝心の島津久光の本心が、自分も幕閣の中枢に入っての公武合体であることを誰も見抜いていませんでした。
その後、京都伏見の寺田屋に集結した過激な薩摩藩士を、久光が派遣した説得士との間で上意討ちの乱闘という悲劇になり、清河八郎が画策した薩摩藩を柱にした討幕への戦いは不発に終わりました。
孝明天皇も公家・岩倉具視を通じての公武合体に心を動かし、勅旨が江戸に下って将軍家茂の上洛と公武一和の機運が盛り上がります。
その機を八郎は逃がしませんでした。
密かに江戸に戻った八郎は、将軍家茂が上洛するには、屈強な護衛団を必要としている情報を入手して、すかさず策を練り、仲間の山岡鉄太郎を通じて幕府政事総裁の松平春嶽(しゅんがく)に「急務三策」と題する腕の立つ浪士組募集の建白書を提出します。
これは、攘夷の断行、浪士組参加者の大赦免罪、文武に秀れた剣士の重用、この3項目です。
幕府は、この八郎の建白書に、渡りに舟とばかりに飛びつきます。これで、将軍上洛の護衛が万全になります。
この浪士組編成によって、不逞浪士の懐柔策にもなり、獄中の志士や同志の大赦、八郎自身も自由の身になれ、さらに今後の同士集めにもなる一石4鳥の妙策となります。
その浪士組募集が成る経緯は省略しますが、浪士組一行が京都に到着して壬生村へ入った夜、八郎は浪士組全員を新徳寺の本堂へ集め、「われらの本分は尊皇攘夷にある。幕府ではなく天皇と日本のために立ち上がり、外国勢力を打ち払う!」と尊皇攘夷論を説きます。
突然の話に驚いた浪士たちは困惑して何も言えません。そこで八郎はすでに用意してあった血判状を広げ、各人の署名と血判を集めましたが、たった一人、虎尾の会の同志・池田徳太郎だけが署名せず、八郎の早業を諫めています。
八郎は翌日、代理人を立てて京都御所の学習院へ血判状を提出し、朝廷側も揉めたようですが目出度く受理され、浪士組宛ての勅諚を賜ります。これには、血判を捺した当の浪士組全員が感激して涙を流す者もいます。なにしろ、身分の低い浪士ごときが天皇のお言葉を賜るなどは前代未聞の出来事で、夢の中でもあり得ないことです。
その頃、江戸では、横浜で起きた薩摩藩士が藩主の行列を横切った英国人を殺害した生麦事件の賠償問題が難航していました。
英国側は、島津久光を引き渡す、こちらが提示した賠償金を差し出す、このいずれかが実行されない場合は軍艦を差し向け武力に訴えるが戦う用意は? という強硬なもので、幕府の外国奉行は判断に窮して、上洛中の将軍の決裁を求めて早駕篭で使者を二条城に送ります。
これを伝え聞いた八郎は、攘夷の実行こそ我らが目的と喜び勇み、朝廷に2回目の破約攘夷によって生麦事件の賠償金拒絶による開戦の建白書を上奏します。これは、外国嫌いの孝明天皇にとって有無はありません。直ちに勅諚が下ります。
その勅諚を手にした八郎は、江戸へ戻る旨を山岡鉄太郎に伝え、浪士組全員に報告するために集会を開きました。
この八郎の突然の江戸への帰還に反対して京都に残留したのは、芹沢鴨、近藤勇ら24名となります。
これを知った浪士組引率の責任者・鵜殿鳩翁は驚きながらも芹沢・近藤の意見に耳を傾け、京都守護職で会津藩主である松平容保(かたもり)公の承諾を得て、浪士残留組は会津藩預りということになって壬生浪士組から新撰組、さらに新選組となっていきます。
江戸に戻った清河八郎の評判は高く、浪士をまとめて天皇からの勅諚を得たという噂は世に広まっていて、浪士組参加希望者は門前列を成す勢いですが、それを幕府が黙って見逃しているはずはありません。
しかし、浪士組は攘夷戦争に備えて東帰、との勅諚がある以上、手を出せません。
かといって、幕府は、朝廷の命ずる破約攘夷実行で英国と戦争するわけにもいきません。
江戸期間後の2ケ月近くを無為に過ごした八郎は、浪士組だけでの横浜外人居留区襲撃を画策し始めます。
その間にも、浪士組に入隊希望の剣士監視が続々と参集しますので、八郎傘下の戦力は数百人となって膨れ上がっていて、すでに幕府でも制御できない状態で、清河八郎の存在は、幕府にとって危険人物となってしまったのです。
すでに身内は囚われの身となり、風の便りでは、お蓮も獄中で病に伏して逝き、母も厳しい折檻で痛ましい姿とか。
八郎は自分のために多くの犠牲者を出したことを悔いますが、もう後戻りは出来ません。
幕府は、清河八郎に刺客を送ることになります。
こうして運命の四月十三日の朝がやってきました。
八郎は少し風邪気味だったとも伝えられています。
若くして易占に親しんだ八郎は、すでに死期を悟っていたようです。


多分、この朝易を立てたら現れる卦は「震為雷」、八郎の好んで用いた家紋です。
この卦は、雷の重なりで易卦のなかでも極めて激しくい卦の一つです。
「稲妻が走り雷鳴が轟き天下争乱の中で泰然と我が道を往く」
もう一つの解釈は、この卦が「雷鳴千里を轟かす」の易意から考えました。
「天下に名を轟かす偉業を為す」
思えば、齋藤治平衛豪寿(ひでとし)の長男として元司が産声を上げた時、雷鳴が轟き稲妻が走ったといいます。
一代の快男児の幕開けは激しく、幕を閉じるのは音もなく静かなのかも知れません。
この日は、郷里の先輩でもある上山藩・金子与三郎邸に招かれていました。
八郎は銭場で身を清めて、世話になっている山岡家の隣家の高橋泥舟邸に立ち寄ります。
泥舟がすぐ八郎の顔色を見て、外出をしないように進言します。
曖昧に返事をした八郎は、筆立てを出して、泥舟の妻のお澪(みお)に告げます。
「白扇がありましたら二本ほど所望します」
お澪が手渡す白扇を広げると八郎が墨痕鮮やかにさらさらと歌を書きます。

魁(さきが)けてまたさきがけん死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道

くだけてもまたくだけても寄る披は  岩かどをしも打ちくだかん

この歌を見た泥舟が、辞世の歌と知って驚き、強く足止めをします。
「今日は絶対に家を出てはいかん」
妻にも見張りを言いつけて、泥州は登城の途につきます。
そのうち、山岡の妻で泥舟の妹のお英(ふさ)と、その妹のお桂が朝の挨拶と称してお喋りにやって来ます。
聞くと、鉄太郎が、銭湯帰りの八郎が高橋家に寄るはずだから、行って茶でも飲んで、八郎を外出させるな、と言ったそうです。
鉄太郎も登情前に、何となく八郎の異変に気付いていたのです。
八郎はそれには触れず、お澪に再び白扇を二本求め、ただちに筆をとります。
「君はただ尽くしませ臣(おみ)の道 妹(いも)は外(ほか)なく君を守らむ」
同じ歌を白扇に書き、お英とお桂に手渡して、出された茶を飲んでいると、山岡邸の門前に金子与三郎の迎え駕篭が来たようです。
「では、行って来ます」

八郎は、引き留める女達の手を振り払って山岡邸に戻り、支度して家を出ます。
服装は、黒羽二重の紋付き羽織に仙台平の鼠色縦縞袴に黒旅に草履です。
腰の愛刀は、備前三原正家で刀身に「がんまく」の字があるので「四字がんまく」と呼ばれる業物です。
麻布の上山藩邸で金子ら数人に歓待された八郎は、勧められるままによく食べよく飲みよく喋っりました。
八郎は夕方になって藩邸を辞し、駕篭を断って、夕風に酔いを醒ましながら麻布一ノ橋を渡り始めました。

ここまでで記述を止めます。
私は、佐々木只三郎が1対1で真剣勝負を挑んでくれたら、八郎も堂々と受けて立ち、歴史に残る好勝負になったと思います。たとえ、上から暗殺を命じられたとしても武士の情けはあって然るべきかと思います。

「清河八郎は、すごい人だった。このまま生きてくれたら国は大きく変わったのに・・・」
誰もがこの怪物とも言われた清河八郎を大人物と認めて一目置いていたのです。
清河八郎の目指した「回天報国」、世を変えて国に報いるために一命を賭した生きざまこそ武士道の本筋であると信じます。


岩瀬忠震(ただなり)にみる武士道

岩瀬忠震(ただなり)にみる武士道

花見 正樹

岩瀬 忠震(ただなり)の知名度は一般的に地味ですが、水野忠徳(ただのり)、小栗忠順(ただまさ)と共に徳川幕府の要職にあって「幕末三俊」といわれ、優れた外交手腕を発揮して列強各国との折衝に尽力した幕臣で、島崎藤村の小説「夜明け前」にも登場します。
忠震(ただなり)は、文政元年11月21日(1818年12月18日)に旗本・設楽家の三男として江戸芝愛宕下の設楽邸に生まれ、称は設楽篤三郎(とくさぶろう)です。
設楽家は、宇和島藩主伊達村年の直系で、伊達政宗の子孫にもあたり、篤三郎の母は林述斎の娘で、おじに悪名高い鳥居耀蔵がいます。
設楽篤三郎は、若くして学問に優れ、天保11年(1840年)に岩瀬忠正に請われて家禄8百石の岩瀬家に婿養子に入り岩瀬忠震となります。
天保14年(1843)には優秀な成績で昌平坂学問所大試乙科に合格し表彰され、徐々に頭角を現します。
嘉永2年(1849)2月に幕閣に召し出され、西丸小姓番士(切米300俵)から始まって、徽典館学頭(30人扶持)、昌平坂学問所教授と一気にその才能を大きく開花させます。
その才能を認めた老中首座・阿部正弘は、忠震を目付に抜擢します。
それに応えた忠震は、講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所の開設や、軍艦や品川の砲台の築造などに力を尽します。
その功績によって外国奉行に任じられ、安政2年(1885)に来航したロシアのプチャーチンとの交渉に井上清直と共に臨み、日露和親条約を締結します。
さらに、安政5年(1858)には、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスとの条約締結に臨み、日米修好通商条約に署名するなど、積極的に阿部正弘の進める開国策に尽力して成果を上げます。
岩瀬忠震がいかに優秀な外交官であったかは、その交渉相手のタウンゼント・ハリスが遺した手記にも記されています。
「岩瀬、井上は、綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。懸かる優れた全権を得たりしは日本の幸福なりき」
全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」と、後に当時の交渉のことを書き残している。
だが、岩瀬忠震の運命は、阿部正弘の死後に暗転します。
将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持する一橋派に属した忠震は、大老となった紀伊派の井伊直弼によって排斥され、安政6年(1859)のいわゆる安政の大獄で作事奉行に左遷された後、蟄居を命じられて江戸向島の岐雲園に籠もり、その2年後の文久元年(1861)に失意のうちに44歳の人生を病死で閉じます。
その心を支え続けたのが、生涯の友として死ぬまで交流を続けた木村喜毅(よしたけ)で、その交流の書簡には日常のことから国防に関する想いまで幕府への諫言をも交えて事細かに書き残されていて、忠震がいかに木村喜毅の友情に感謝していたかが窺えます。
岩瀬忠震が政治の表舞台に居たのはほんの僅かな期間ですが、日本の開国のために全力で尽したその足跡は偉大です。
例え、不遇の死であったとしても、岩瀬忠震の生きざまは立派、その大義において武士道を貫いています。


足利尊氏にみる武士道

足利尊氏にみる武士道

花見 正樹

つい最近の歴史番組で、歴史作家の方が足利尊氏に触れて「地元の足利市の人は、逆賊と言われた尊氏の不人気に肩身が狭い思いをしていた」と発言されていました。
確かに、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏の悪名は、南朝に殉じて尊氏に敗れて自刃した楠木正成の潔い生き方と比べると仕方ありません。
しかも、勝てば官軍の倣いからみれば、北条一族に替わって朝廷政治に傾いた後醍醐天皇を追放して武家社会復活の室町幕府を築いたのは悪業とみるよりは功績とすべきとの考えもあって然るべきです。
それと、足利尊氏の生まれ故郷は足利ではなく、今の京都府綾部市で、私は尊氏が産湯を使った井戸の底も覗いていますしその井戸の水と同じ伏流水を使った地元酒造会社製造の大吟醸も頂いております。以上のごとく尊氏は京都府生まれ、足利市民が肩身を狭くする理由などどこにもありません。
では、綾部市民は肩身が狭いかというと、足利尊氏を生んだ土地として山﨑善也市長以下「綾部に尊氏あり」と、意気軒昂なのです。
足利尊氏は鎌倉時代末期から室町時代初期まで活躍した武人で、嘉元3年(1305)7月27日(88月18日)に丹波で生まれました。
幼名は又太郎、長じて高氏と名乗り、後醍醐天皇から名を授かれて尊氏となり、室町幕府初代征夷大将軍として在位20年に及びます。
父は足利貞氏、母は上杉清子、兄は高義、弟は直義と源淋(田摩御坊)です。
なお、足利高氏の高は、主家の北条高時の諱(いみな)の高を授けられたものです。
高時は、元弘3年(1333)に後醍醐天皇が伯耆の船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛して楠木正成と対峙したこともありますが、丹波国の篠村八幡宮(現京都府亀岡市)で倒幕を宣言して兵を集め、幕府に反旗を翻して六波羅探題を攻め滅ぼします。それに呼応した関東武士の新田義貞が鎌倉を攻めて北条幕府を壊滅します。
その北条滅亡の勲功第一とされた足利高氏は、後醍醐天皇の諱の尊治(たかはる)の一字を授かり、尊氏に改めますが、奇しくも尊氏は名付け親の二人、北条高時と後醍醐天皇を裏切ることになるのです。
足利尊氏、新田義貞、楠木正成などの活躍で王政復古を成し得た後醍醐天皇は、武士の台頭を防ぐために公家に厚く武家に薄い政治を行おうと建武の新政で独裁政治を敷きます。
しかし、これによって急速に人心を失った後醍醐天皇は、執権・北条高時の遺児・北条時行を奉じて蜂起した諏訪三郎等が鎌倉を落とした「中先代の乱」によって窮地に陥ったが、足利尊氏らの働きで20日天下の北条軍を撃破し乱を鎮圧します。
ところが、この乱を制圧した足利尊氏が、後醍醐天皇の武家に対する冷たい処置に反発していた尊氏は、鎌倉に留まって独自の武家政権の復活を図ります。
それに怒った後醍醐天皇は、尊氏討伐の軍を集めます。
その後醍醐天皇の動きを知った尊氏は、先手を打って少数の将兵を率いて上洛し、後醍醐天皇を比叡山へ追いやりますが、新田義貞や楠木正成らの後醍醐天皇側の軍に敗れ、一時は九州に逃げ落ちます。
しかし、後醍醐天皇から離れた多くの武士は尊氏の側に集りましたので、太宰府天満宮を拠点として軍団の建て直しを図った尊氏の元には次々と名だたる武将が集まり、たちまち大軍となりました。
尊氏率いる大軍は、湊川の戦いで新田義貞、楠木正成らを撃破して京都を制圧、後醍醐天皇は捕われの身になりました。
それでも後醍醐天皇は、手引きする者のおかげで無事に脱出し、吉野に籠もって南朝の創始を宣言します。
ここから南北朝の混迷時代が続きます。
一方、後醍醐天皇に反逆した足利尊氏は、新たに光明天皇を擁立して自らは征夷大将軍に任じて武家政権を開きます。
これが、15代のうち幕府所在地の京都を追われたのが7人、暗殺されたのが2人もいる戦国時代を生き抜いた波乱含みの室町幕府です。
さて、その後のことは省略で結論を急げば、主君・北条高時に牙を剝き、後醍醐天皇にも逆らった大逆罪の尊氏に「何の武士道ぞ!」という思いはあれど、腐敗した北条幕府を倒し、武士を弾圧して朝廷政治を推進した独裁者・後醍醐天皇を排除したのですから、武士からみれば足利尊氏こそ武士の中の武士、これが尊氏の行為を武士の鑑(かがみ)として尊氏の武士道を正当化する由縁です。


楠木正成の武士道


楠木正成(まさしげ)の武士道

花見 正樹

私は若い頃、南北朝に興味を持ち、北条幕府滅亡後に20日だけの鎌倉奪還を成し遂げて壊滅した亀壽丸(北条時行)の乱を短編小説「戦乱の谷間に」に書きましたが、この時代、これと絡んで楠木正成も歴史の舞台で活躍していたのです。
楠木正成は、大坂に近い千早赤阪村の山里に生まれ、幼名は多聞丸、金剛山一帯を本拠地として土豪として育ちます。
当時の鎌倉幕府は、執権の北条高時が遊興三昧で家臣からも民衆からも見放され、幕府の権威は失墜していました。
民衆は重税に苦しみ、家臣は何の恩賞もなく、国内の秩序は乱れるばかりで無法者の乱暴狼藉を取り締まるべき役人も略奪強姦が日常茶飯という有様です。
このような幕府の状態をみて好機到来とみた後醍醐天皇は、元弘元年(1331)に幕府打倒を目指して挙兵します。
しかし、幕閣内部は崩壊寸前でも幕府の軍事力を恐れる各地の豪族は、倒幕勢力に加わるのをためらい、後醍醐天皇の討幕軍に呼応する者が少なく、後醍醐天皇には幕府の捕吏の手が伸びます。
その時、徒党を組んで後醍醐天皇の元に駆けつけたのが、河内地方で悪党と呼ばれて恐れられていた土豪の楠木正成(37)党でした。
楠木一族は、地元特産品などを売って利益を上げる経済的な利権で幕府と利害関係で対立していたこともあり、後醍醐天皇側に立って幕府と戦う決意を固めて参集したのです。後醍醐天皇は楠木軍の到来を大いに歓迎しました。
後醍醐天皇に謁見した正成は、幕府軍と正面から戦っては勝てないが、策略をもって戦えば充分に勝機はある、と提言します。
後醍醐軍に参加した正成は、地元の山中に築いた赤坂城を拠点に、武具や装備の粗末な農民の地侍約5百を集めて挙兵します。
それを知った幕府は、討幕軍の芽を早く摘むべく万を超す討伐軍を赤坂城に差し向けます。
甲冑(かっちゅう)に身を固めた完全武装の幕府軍は、赤坂城に接近して楠木軍の装備のお粗末さや、城とは名ばかりの砦にしか過ぎない小さな山城に呆れ驚き、すぐさま雨嵐の如く矢を射かけるが、柵の裏に姿が見えるのは藁人形だから、身を隠した楠木軍に被害はない。
恩賞狙いの幕府軍の将兵は、重い甲冑姿のまま我れ勝ちに斜面を攻め登ります。
ところが、幕府の将兵が斜面を埋め尽したのを見て、楠木軍が前面に現れ、奇声を上げて二重に組まれていた城壁の丸太の外柵を切り落とし、大石を転がし、熱湯を柄杓で投げ掛けます。こうなると幕府軍に身を護る手段はなく、悲鳴を上げて丸太や大石に潰されながら斜面を転げ落ちる阿鼻叫喚の地獄絵の世界で死体累々、その数は千に近しといいわれます。
初戦に敗れた幕府軍は、山城を包囲して持久戦に持ち込み兵糧攻めにします。
その後20日間の攻防の末、京都で後醍醐天皇が捕らえられたとの間諜の急報と兵糧が尽きたこともあり、山城に火を放って、抜け道から脱出し行方をくらまします。
幕府軍は、燃え落ちた砦内に投げ込まれた自軍兵士の焼死体を、正成らが武士らしく自刃して果てたと見誤って意気揚々と引き上げます。
その翌年の元弘2年(1332)、正成は再び挙兵、幕府の拠点とする河内や和泉の守護を次々と攻略して味方につけ、摂津の天王寺を占拠して京への進出を図ります。
これに対して幕府側は、強力な部隊を差し向けますが、正成側は「戦わずして勝つ」策に出て、一時的に撤退します。
幕府軍はもぬけの殻の天王寺を戦わずに占拠しますが、夜になると何万という松明のかがり火に包囲され、今にも大軍で襲わんばかりの鬨の声が夜空に響きます。幕府軍の将兵は夜襲に備えて一睡も出来ません。
朝を迎えて偵察を出すと、敵の姿も松明も全く見当たらず、狐につままれたような表情で偵察の兵達が戻ります。
次の日も楠木軍は現れず、また夜になると無数のかがり火と時の声に囲まれて幕府軍は眠れません。こんな日が4日続くと、もう寝不足で精神的にも肉体的にも疲労の極に達した幕府軍の将兵は戦う気力も失せて天王寺から撤退しました。
正成は近隣の農民5千人に僅かな金品で協力を求め、火を焚いて声を上げさせたものでした。正成軍はこうして一人の兵をも失わずに幕府の精鋭部隊を追い払い、天王寺周辺にも拠点を築きます。
これに怒った幕府は、翌元弘3年(1333)2月、8万の大軍で楠木正成軍討伐に掛かります。
正成は、かつての赤坂城と同様の手で、千人の兵と共にさらに険難な山奥の千早城に篭り、大軍を迎え討ちます。
幕府軍は千早城の麓まで押し寄せたものの、正成の奇策を警戒し、かつての赤坂城同様に兵糧攻めを選びます。
ところが、山奥で8万の兵を抱えた幕府軍が先に兵糧の支援が続かずに餓えたのです。
なぜ幕府軍の兵糧が尽きたかというと、山の地形を知り尽くす地元住民との獲物山分けで協定した正成軍が補給部隊を山道で襲って食糧を奪っていたからです。奪った食料は地元住民と分け合って、間道から砦内にも運び込んでいましたから、楠木軍は食糧法府、幕府軍は険しい山中で雨や風に晒された上に飢餓状態に陥り、幕府軍からは落伍する兵が続出、そこを正成が指揮する楠木軍が夜襲しますから、餓えて体もままならぬ幕府軍は反撃も出来ずに総崩れになって撤退するしか道はありませんでした。
このたった約千人の楠木軍が、8万の幕府軍を破ったという大事件は、たちまち人の噂に乗って諸国の豪族に伝わります。
2年前の赤坂城に続くこの幕府の敗北で、これまで幕府の軍事力を恐れていた各地の豪族が次々と幕府に反旗を翻して蜂起し始め、ついには幕府内部も崩壊、足利尊氏、新田義貞らが幕府を見捨てて楠木軍に呼応して後醍醐天皇側に就きます。
生まれ故郷(現在の綾部市)の丹波で旗揚げした足利尊氏軍は京都を攻めて六波羅軍を倒し、新田義貞は江の島側から海辺沿いに鎌倉に攻め入って執権・北条高時を始めとする一族を集団自害に追い詰めて北条の鎌倉幕府を滅ぼします。
この時、雑兵に身をやつした諏訪三郎が北条の遺児・亀寿丸を伴って鎌倉から脱出します。
この時の挿話が私の短編小説「戦乱の谷間に」です。お暇な折にご一読ください。
(https://www.kaiundou.biz/nichibungakuin/modules/pukiwiki/620.html)です。
戦いに勝った正成は、隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、天皇の都への凱旋への先駆けを務めます。
なお、正成は、自分が関係した戦いでは、敵も味方も関係なく双方の戦死者を弔っています。敵と言わずに敵は「寄手(よせて)、身内方は「身方(みかた)」として五輪の供養塔を建立し、法要を行なっています。
しかも、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいのですから、その人間の大きさが分かります。
この供養塔は、現在も千早赤阪村の村営墓地にあります。
こうして後醍醐天皇は、楠木正成ら武将の活躍で朝廷政治を復活させることが出来、「建武の新政」が発足します。
正成は、河内・和泉の守護に任命されますが、これは名もない土豪としては異例の出世でした。
ただ、後醍醐天皇は天皇主導の政治を急ぎすぎました。
脆弱な天皇支配の政権に強権が必要と考えた後醍醐天皇は、独裁政治を推し進め、強くなりすぎた武家勢力を弱め、公家の実質的な地位を図り、天皇復活の恩賞も何の功績もない公家に高く、功績のある武士を低く押さえました。
さらに、天皇政治の財政基盤を強固にする必要から、農民を含む庶民に対して鎌倉幕府時代より重い年貢や労役を課します。
これで一気に人心が離れ、武士も後醍醐天皇を見限りました。
まず足利尊氏が反旗を翻し、武家政権復活を叫んで挙兵すると、諸国の豪族や武士がそれに続き、人々もそれを支持します。
京へ攻め上った足利尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇側の有力武将が迎え討ち、激しい合戦になり、戦力で勝った天皇側に敗れた足利尊氏軍は敗走しますが、天皇側の将兵もそれに従って足利軍に参加する者が続出します。
正成は、辛うじて勝ちはしたが、天皇側の武士までが、後醍醐天皇から離れ、尊氏を慕ってその軍門に降ることに脅威と不安を感じます。
後醍醐天皇の新政権から、武士達の心が離れてゆくのを見た正成は、後醍醐天皇に「尊氏との和睦」を直言します。すると、それを聞いた公家達は、勝った朝廷側が敗けた尊氏ごときに和睦を求めるのはおかしいではないか、と正成の案を一蹴します。
延元元年(1336)4月末、九州に逃れて多くの武士や大衆の支持を得た足利尊氏が、移動するたびにその土地の豪族を併合して大軍となって京に向かって進軍を開始します。
総勢10万とも言われる尊氏軍を前に、天皇側の軍勢は、正成軍の700を入れても敵の数十分の一にしか過ぎません。
これでは万が一にも勝ち目はありません。正成は再度訴えます。
「足利の大軍にまともに戦っては勝てません。私は河内で兵を集めて淀の河口を塞ぎ、敵の水軍を止めます。帝は比叡山で僧兵を集め、京に尊氏軍を誘い込み、北から新田軍、南から我が楠木軍が敵を挟み撃ちにすれば勝てます」
しかし、天皇は、都から離れるのは朝廷の権威が落ちる、との公家たちの意見で正成の意見を却下します。
正成の戦いぶりを過信する後醍醐天皇は、兵庫の湊川で新田義貞軍と合流して「尊氏軍を壊滅せよ」と命じます。
しかし、正成の得意とする山岳戦を封じられては正成の奇策も通じません。この時点で正成は死を覚悟します。
失意の中、正成は天皇を諫める遺書を下人に届けさせ、息子には再起を命じて戦場を去らせ、自らは死を決して湊川に向かって出陣します。
5月25日、足利軍3万5千と湊川を挟んで対峙した楠木軍はわずか700、この彼我の差では戦いにもなりません。
だが、足利軍は楠木軍を無視し、海岸側に陣をひいた新田義貞軍を海から軍船で攻め、陸からも総攻撃します。これで新田軍は総崩れとなり、新田軍は楠木軍と合流することなく壊滅し、将・新田義貞も敗走して戦場からすがたを消します。
しかも、新田軍の将兵の多くはその場で足利軍に降って、今度は楠木軍に牙を剝く立場になるおです。
孤立した楠木軍は、激しく足利の大軍に挑みますが、足利軍は一向に戦おうとしません。戦力差は歴然ですから勝敗は半刻内もあれば決着がつくと誰しも思うのですが、尊氏は正成軍に対して戦力を小出しにして戦う真似をするだけで一向に攻撃する気配を見せず、それどころか自らが陣頭に立ち、自軍の武将に命じて、正成を翻意させようと試みます。
尊氏としては、3年前は北条氏打倒を誓って共に戦った親しい仲だけに、死なすのは忍びなかったのです。
、尊氏は、正成が天皇側から離脱さえしてくれれば戦いは中止すると申し入れるが、正成はそれを拒否します。
これによって、両軍の激突は避けられないものとなり、正成軍の鬼気迫る突撃によって両軍入り乱れての白兵戦が3刻(6時間)続き、満身創痍の正成が声を嗄らして生き残った家来を呼び集めると、その声を聞いた尊氏が戦闘の中断を命じます。
正成は、刀や槍を杖によろめき歩く72名の部下と共に、近くの主のいない民家へと粛々と入り、尊氏がそれを追う部下を制して戦闘は終わります。
正成の命で家来が家屋に火を放つと、正座した正成が死出の念仏を唱え、家来全員がそれに唱和しつつ次々に自刃します。
正成は弟の正季(まさすえ)と短刀で刺し違えて抱き合って絶命します。
享年42歳、歴史の表舞台に登場してわずか4年でその数奇な人生を閉じます。
足利尊氏は、正成を称して「誠に賢才武略の勇士」と言い、生涯その死を惜しんだといいます。
この楠木正成が貫いた義の一念こそ、武士道の神髄とも思えます・・合掌。

私の短編小説「戦乱の谷間に」です。お暇な折にご一読ください。
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