第三章、武士道の正義

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新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、本体5千円。
お問い合わせ。ご注文は、”えむ出版企画”<mbook@cl.cilas.net>、へ。

 第三章、武士道の正義

            花見 正樹

 武士道において「義」は最も厳しい規律であり、これが武士の本分でもあり人の道です。
武士道では人を欺くことを恥じ、不正や裏取引などの恥ずべき行為を忌み嫌います。
武士道とは、武士の重んずる節義を守り、人の道を正しく歩くことです。
その節義とは、人の体に骨ある如く、しっかりと人を支える柱です。
いくら才能あり学問に優れていても節義がなければ堂々と胸を張って世に立つことは許されません。
したがって、この節義があれば、不骨で不調法であっても武士としての誇りをもって生きて行けます。

新渡戸稲造は、幕末の志士・真木和泉や儒者・林子平の言葉を借りて武士道の本質に迫ります。
上記の「節義とは体の骨のように大切なものである」は、真木和泉の言葉から引用しています。
林子平は「義とは、道理に従った自分の身の処し方で、いざという時にためらわずに決断する力である。死すべき時は決然と死に、討つべき時は迷わず討つ」とします。
真木和泉は「義」を骨に例えて「骨がなければ首も立たず手も動かせず足も歩けぬ。義があれば才のないことなど他のことはさしたることではない」とします。
孟子の教えの柱には「仁義」があります。
「仁は人の良心、義は人の道なり」、この仁義を守ることによって武士は自分を律することが出来るのです。
さらに、この「義を守る武士」を略して「義士」と称し「赤穂浪人・四十七義士」のように用います。
余談ですが私は今。戊辰戦争を題材にした小説に取り組んでいて、この中で義に生き義に死んだ武士として輝いた男に注目しています。これだけで誰もが「ああ、あの男か?」とイメージ出来るようでしたら、その男こそ正しく「義士」です。


 第二章、武士道の淵源

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新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、本体5千円。
お問い合わせ。ご注文は、”えむ出版企画”<mbook@cl.cilas.net>、へ。

 武士道を考えるー6

開運村村長・花見 正樹

 第二章、武士道の淵源

 どうして日本人の民度が高いのか、日本人の道徳観念というものはいったい全体どこから来ているのか? こえが第二章の要旨です。
新渡戸博士が友人の外国人に問われて即答できず、後でよくよく考えた結果、導き出された解答は、武士の家で行われていた行儀作法からみれば、治安の良さ民度の高さなど全てが、ごく当たり前の日常的なもので、ごく自然に習慣的なもの故に、改まって質問されたりすると解答に詰まってしまいます。これが後天的なものか他から強制されたものであれば、原因も考えられるし誰もが即答できたかも知れません。
新渡戸稲造博士は、そんな日本人の道徳の規範の源泉を真剣に考え、その答えを武士道に見出したのです。武士道という言葉も遠い昔から言葉としては広く知られてはいましたが、これを体系化したものはありません。これを新渡戸稲造博士が体系化して考えたのです。
新渡戸稲造博士は、英文で「武士道」を上辞し、それが日本に逆輸入されて日本人が改めて「武士道」の存在に気付きました。それは、新渡戸博士が「武士道」を上梓してから30年以上も過ぎてからのことでした。
この「武士道」が、日本人の道徳心の根源で、治安維持や人の和につながるのであれば、これを普及させるのも意味あることになります。 仏教、神道、禅・・・これらの教えも武士道の根源に流れています。穏やかな境地、信頼による人間関係、避けれれない運命の享受、困難な状況への冷静沈着な対応、死生観の悟り、これらを知識ではなく体感として身に着けることで死を恐れぬ強い心が生まれます。
武士道の源泉に、孔子の教えも欠かせません。孔子の教えには重要な守らねばならない五つの道があります。
1、君臣の道。2、父子の道。3、夫婦の道。4、兄弟の道、5、朋友。
孔子は、この五つの道を守る人間の徳を「道徳」としたのです。
こう考えると、孔子の教えにある目上の人に対する服従、信頼、尊敬、敬愛、尽力などが、武士道の淵源と通じることが理解できます。


第一章、武士道の倫理系

yjimageNYLY6C2M|鉄扇です。

新渡戸稲造著、桜井桜村訳、幅雅臣装丁、えむ出版発刊、本体5千円。
お問い合わせ。ご注文は、”えむ出版企画”<mbook@cl.cilas.net>、へ。

 

 武士道を考えるー5

                                          開運村村長・花見 正樹

 第一章、武士道の倫理系

 前回は「武士道」復古版の目次を載せましたが、その「第一章」について述べます。
「武士道の倫理系」とは、武士道とは何か? との解釈もできます。
武士道の基本は、大きく分けると次の四項目になります。
1、日本の宗教(主として仏教)のもつ死生観、禁欲節制観、人生の無常観。
2.神道のもつ先祖崇拝の心、死生観、道徳観。
3.儒学のもつ礼節観、節度感、倫理観。
4、天に恥じない武士としての基本原理

 新渡戸稲造は、これらの項目が、この時代(明治年間)にどう生かされているかを追求しています。
その上で、これら武士道の基本原理を個別に整理すると、次のようになります。
義、勇気、仁徳、礼儀、誠、名誉、忠義、教育、克己心、切腹と敵討ち、刀、理想の女性。
その最初が、そもそも武士道とは? という問いに対する解答です。

 日本の武士道は、西洋の騎士道よりも、もっと多くの要素を含んでいます。
武士道は、士農工商の上位にある武士階級の「身分の高い者の守るべき規律」なのです。
では、武士が守るべき規律は明文化されているかというと、藩の掟のように文章にはなっていません。
武士道とは、寺小屋での師弟教育や父兄や先輩などからごく自然に教えられる道徳教育で身につく徳目なのです。
武士道の倫理には、武、士、道、夫々の意味が色濃く入っています。
戦いへの心構え、本来の武士としての規範、正しき人の道・・・それらが凝縮されての武士道です。
「武士道・復刻版」の中には次のような内容の記述もあります。
アイルランドの歴史家でダブリン大学教授のジョージミラー博士でさえ、東洋には古代から現在に至るまで、西洋の騎士道に類似した制度や規律は存在しない、と著書の中で述べているというのです。ただし、この書物の初版は、ペリー提督が日本の鎖国を解くために浦賀沖に現れる前でしたから仕方ありません。
一方、ドイツの社会主義者で「資本論」で知られるカール・マルクスは、封建制の社会的かつ政治的諸制度の生きた見本は江戸時代から明治の日本だけに見ることが出来る、と述べています。
新渡戸稲造はこう結んでいます。
「西洋の倫理研究に携わる歴史家が、もっと日本の武士道の研究にも敬意をもって接して頂きたい」
つづく


武士道を考えるー4

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 武士道を考えるー4

         開運村村長・花見 正樹

 前回は、えむ出版刊の新渡戸稲造「武士道」櫻井?村訳・復刻版(本体5千円)をさらに分かり易く修正することを試みましたが、どうも訳文を訳しても少しも面白くないことが分かりました。ここは、やはり、復刻版を購入して学んで頂くとして、私は、この復刻版を読んで自分が感じたことを載せるのが性に合っているような気がしました。
そこで、新渡戸稲造は「武士道」をどのような観点で書いたのか? そこから考えてみました。
「武士道(復刻版)」の目次を読むと、その主旨がおぼろげに読み取れます。
目次
第一章 武士道の倫理系
第二章 武士道の淵源
第三章 正義
第四章 勇気
第五章 仁愛
第六章 礼儀
第七章 至誠
第八章 名誉
第九章 忠節
第十章 教育
第十一章 克己
第十二章 切腹
第十三章 刀
第十四章 婦人の教育
第十五章 武士道の感化
第十六章 武士道の命脈
第十七章 武士道の将来

 次回からは、多少の脱線はありますが、この目次に沿って話を進めて参ります。


武士道を考えるー3

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    新渡戸稲造「武士道」復刻版(えむ出版刊・本体5千円)
お問い合わせ電話・048-885-5432

 武士道を考えるー3

          開運村村長・花見 正樹

イギリスの政治家・パークは、すでに過去のものになっているヨーロッパにおける騎士道と比較して賛辞を与えたが、いま私(新渡戸)は、その国(イギリス)の言葉をもって、この武士道の考察を行うことに大きな喜びと意義を感じている。
アイルランドの歴史家のジョージ・ミラー博士でさえ、東洋に対する無知と情報の欠如から、東洋には古代も近代も騎士道に類する制度は存在しないと著書で述べている。だが、このような無知は許すことが出来る。その理由は、博士の著作が出たのは、ペリー提督がまだ我が国との交渉で開国する前だったからである。それから十年以上を経て、我が国が封建制末期の苦しみに喘いでいた頃、カール・マルクスが資本論で、封建制の社会的諸制度を研究することによてって得られる新たな利点について発表した。当時、封建制のいい面を活用しているのは日本であるとも述べている。私(新渡戸)も同様に、西洋の歴史・道徳研究者らに、今の日本の武士道の研究にもっと関心をもつように勧めたいと思っている。
西洋と日本の封建制や騎士道と武士道を比較した歴史的な研究は、大いに魅力的だが、それを述べるのは本書の目的ではない。私(新渡戸)の目的は、まず一つ目は我が国の武士道の成り立ちとその係累であり、二つ目はその特徴や教訓、三つめはそれらが一般民衆に及ぼした影響と永続性について述べることにある。


武士道を考える-2      

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  武士道を考えるー2

          開運村村長・花見 正樹

 新渡戸稲造著「武士道」復刻版は、明治5年生まれで昭和初期に活躍した著名な翻訳家であり児童文学者であった櫻井?村が英文で書かれた新渡戸稲造の原著を日本語に訳した名著で知られています。
復刻版「武士道」目次の第一章は「武士道の論理系」となっています。
その出だしだけを丸写ししてみます。

「日本の武士道は、之を表象する櫻花と共に、我国土に特生せるの華なり。斯花たる、今や乾枯せる古代道徳の標本として、僅に其形骸を、歴史の?葉品望?に存するものに非らず。其力、其美、尚且つ浩然、旺盛剛大なるものありて、我民族の心占裡に生々たり。 武士道は、既に形態の捕捉すべき無しと雖も、遺芳尚ほ徳界に遍く、我人は此れが著大の薫化に浴巣す・・・」

 このように格調高い文章で翻訳されていて、それを続むだけで心が洗われる思いがします。?は、私のパソコンで出なかった旧文字です。
ここでは原文を載せるのが主旨ではありません。原文は是非、復刻版そのもので読んでこその感銘だからです。
ここでは、その第一章で述べていることを省略して代弁します。

   ------
日本の武士道は、日本を象徴して知られる桜の花と共に日本の国土に根づいた美しき華です。その華やかなるものは、古い道徳として形骸化されて標本にされるようなものではないのです。今でもなお武士道は、その力強さや美しさの対象として私たち日本民族の心のうちに生きているのです。たとえ、その形態が具体的にこれと目に見えなくても、その道徳の薫りは周囲に漂い、今でも私たちの心を引き付けてくれます。武士道の形態が育まれる世の中になってかなりの時を過ぎましたが、天空遥かな遠い星が、はるか昔の光を地上に注ぐように、封建制度が産んだ武士道の光が、封建制度が滅びた今も、人の道を照らし続けているのです。

つづく

 


武士道を考えるー1

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 武士道を考えるー1

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       開運村村長・花見 正樹

 武士道という言葉が歴史上に現れるのはいつからかは知りません。いま、私が用いている「武士道」という言葉は、幕末も終焉を迎えて武士そのものが消滅した明治33年(1900)に英文で発表された新渡稲造博士の著書「武士道」の日本語版からの引用です。
それ以前の実際の武士道なるものは、全国に三百藩以上あった各地各藩の藩主の訓示に依るか、歴史上に名を連ねる著名な武士・武将達の重んじた家訓、心構えや礼節などを元に想像する他はありません。そうなると肝心の「武士道」は人によって違って千差万別、基準が定まらないことになります。
「武士道」といっても戦国時代と江戸時代では全く違います。隣国との死活を賭けた戦いに明け暮れた戦国時代までの武士は、孫子の兵法を基本とした欺瞞と略奪と殺戮が主で、その代表的兵法が甲斐の戦国大名・武田信玄軍でその軍旗に記された「風林火山」は、孫子が遺した兵法の軍隊の動かし方の基本をそのまま用いています。風林火山とは、「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」で、この中の「侵略(しんりゃく)すること火のごとし」には現地調達、戦利品の略奪が許されていて、当時の戦いが「武士道」にはあるまじき欺瞞・略奪・殺戮・侵略戦争だったことが分かります。
その後、徳川家康の天下統一後は、殺し合いのない武士の時代になり、武芸に優れた豪傑よりも、単純に国(藩)を治める為に都合のいい武士が必要になります。これが、今の世の官僚、公務員、政治家の前身ですが、江戸時代と現代の大きな違いは「武士道」の欠落です。昔なら切腹ものの公私混同の大金の使い込みも、頭を下げ続けるだけでうやむやにされ無罪放免ですから呆れます。これをしない、これを許さないのが武士道という道徳観念で、これが現代ではどこに消えたのか探しても見つかりません。
時代錯誤かも知れませんが、日本人はもう一度、武士道の長所欠点を総括してみる必要があるような気がします。
それと、幕末の人物像なども東西に拘らず冷静に「武士道」的観点から、その人間性をみてみたいのです。
ならば、ここは新渡戸式「武士道」を標準に考えるのが一番手っ取り早い方法であるのは間違いありません。
それでも、自分が小説に書く人物の日記や遺された資料などから、「武士道」の著書の説く内容を100点満点として合わせ考えると「武士道度80点」とか「武士道35点で武士としては失格とか、歴史好き仲間大勢で武士道から見た客観的評価をすれば、武士・武将の武士道的評価がはっきりするかも知れません。
ともあれ、まず最初に武士道とは何であるかを新渡戸式評価法で確認してみたいと思います。
写真の書籍は、えむ出版刊の新渡戸稲造「武士道」の復刻版ですが、その内容を優しくかみ砕いて連載してみます。

 この項の最初に触れた通り、「武士道」は、新渡戸稲造が外国の人に日本人の道徳、死生観など、個別には、仁、義、礼、誠、孝、勇気、名誉、忠義、切腹、刀、女性の在り方、信仰、教育などを知ってもらうために書いたものです。
原文は英語で書かれていますが、西洋の哲学や欧米各国の格言などもかなり使っています。
序文は、新渡戸稲造がこの本を書くことになった経緯の説明です。
米国にいた新渡戸稲造がある日、親しいベルギー人の法学者と雑談をしていたときに、相手の法学者から「日本では宗教や道徳教育はあるのですか?」、「ない」と答えると、「では、どうやって子供に道徳観念を教えるのですか?」と言われたのです。
これに応えられず、数日間、熟考して出した結論が、「日本の道徳観念は封建制度と武士道が根幹を成しているのではないか?」、です。
新渡戸稲造は、そこから考えて武士の道徳習慣を体系化し、本格的に取り組んで本にしたのが英文の「武士道」で、この本は、日本をはじめ各国語に訳され、世界的名著として知られることになりました。
当時、世界一治安のいい国は日本でしたから、日本人の民度の高さは、この「武士道」教育によるとも考えられたのです。
これは、聞いた話しの請け売りですが、日露戦争当時のアメリカ大統領のS・ルーズベルトは、この「武士道」を読んで深い感銘を受け、激しい戦闘で双方が疲弊しつつあった日本とロシアの戦争終結への講和に名乗り出たといいます。
ともあれ、この「武士道」とは現代でも亡霊のように時折甦って来ますから気になるのです。
では、次回をお楽しみに・・・


武士道を体験した幕末の英傑たちー3

武士道を体験した幕末の英傑たちー3

               宗像 善樹

宗像善樹写真 (3)

(中略)

 日本にとって幸福だったのは、別途に太平洋を進んでいる米艦「ポーハタン」には小栗がいて、咸臨丸には、勝と福沢という、稀代の文明批評家が乗っていたことです。
小栗は、幕府を大改造して近代国家に仕立てなおそうとし、又、勝は在野の、あるいは革命派の俊秀たち、たとえば西郷隆盛、横井小楠、坂本龍馬などにアメリカの本質を語ってかれらに巨大な知的刺激をあたえ、一方福沢は、官途には仕えず、三田の山にいたまま、明治政府から無類の賢者として尊敬をうけ、明治国家のいわば設計助言者としてありつづけたのです。いわば、2隻の軍艦に、3人の国家設計者が乗っていたことに、われわれ後世の者は驚かざるをえません。建築でいえば、小栗は改造の設計者、勝は建物解体の設計者、福沢は、新国家に、文明という普遍性の要素を入れる設計者でありました。 上記の3人の設計者のなかに、木村摂津守喜毅をふくめなかったのは、あるいは当を得ていなかもしれません。かれは明治国家成立のときは身をひき、栄達よりも貧窮をえらび、幕府に殉じて、みずから生ける屍になったからです。福沢流にいえば痩我慢の人になったわけで、その精神において、明治国家に、《立国の私(わたくし)》を遺したのです。
木村はさすがに累代の武門の人らしく、咸臨丸で出ていくことは、戦国の武士が出陣することだと心得て、家に相続してきた金目のもの、書画骨董や刀剣など、を売りはらい、それらをすべて金貨(日本の貨幣やドル金貨)に替え、袋いっぱいに詰めこんで、船室に置いたのです。出発にあたってお上から出る経費で十分とはせず、世話になるひとびとに上げるものをふくんで、私財を盡して諸経費に当てようとしました、戦国の武士は出陣のとき、すべて自分の経費でもって馬をととのえたり、家来をやとったり、食費をまかなったりするのです。そのために、知行というものをとっているのですから、当然といえば当然ですが、しかし木村のように、私財をあげてこれに当てるというのは、なまなか
な精神ではできないことです。福沢は、木村摂津守において、真の武士を見たのでしょう。
嵐のとき、その金貨の袋が戸棚を破ってとびだし、床いっぱいにちらばりました。福沢が『自伝』のなかでいうところでは、「何百枚か何千枚」床の上にばらまかれた。従者である福沢はそれをひろって再び袋に入れなおした、といいます。』
司馬遼太郎は言います。
『明治という国家は、江戸を否定してできたのではなく、江戸270年の無形の精神遺産の上に成立した。』と。
この『無形の精神遺産』こそが、われわれ日本人が無意識のうちに備え、体現してきた日本人の美徳、『武士道』と            いうべきものなのでしょう。


武士道を体現した幕末の英傑たち-2

宗像善樹写真 (3)

武士道を体現した幕末の英傑たち-2

宗像 善樹

司馬遼太郎が、その著「明治という国家」の中で述べています。
以下に引用して、紹介します。(「明治という国家」NHK出版)
『おなじ侍でも、大名の家来の侍なんぞは、旗本からみれば下人同然なんです。その木村が、咸臨丸でアメリカにゆくにあたって、当時、江戸では多少は知られていた若い洋学者をつれていきました。福沢諭吉でした。福沢は、大分県、つまり豊前中津藩の奥平家十万石の家来で、大名の家来の身分からいうと、木村は雲の上のお殿様でした。
福沢はつてを求めて木村に願い出、私的な従者としてつれて行ってもらうことにしました。身分としては、荷物持ちの下男です。
「門閥制度は親の仇でござる」
と、福沢はいったことがありますが、かれは門閥家の木村に対しては何ともいえぬ親しみをもっていました。
木村はけっして威張らず、このような身分の福沢、それも自分より5つも年下の福沢を、人のいないところでは、 「先生」とよんで、ごく自然に尊敬していました。福沢の学問と識見をみとめた最初の発見者の一人にこの木村摂津守がいます。福沢は生涯、木村を尊敬しつづけ、明治後、木村が新政府から仕官せよといわれても仕えず、貧しいままで隠遁生活をつづけているのをみて、どうやら陰で経済的な援助もしていたようです。
福沢は、明治も24年ごろになって、『痩我慢の説』という、福沢にしてはめずらしく武士論というべきものを書きました。「立国は私(わたし)である。公(おおやけ)ではない。さらに私ということでいえば、痩我慢こそ、私の中の私である。この私こそが立国の要素になる」と説きました。
福沢は、言います。
「一個の人間も、この世も、あるいは国家でさえ、痩我慢でできあがっている。国でいえば、オランダやベルギーなどの小国が、ドイツ・フランスの間にはさまって苦労しているが、あれだって大国に合併されれば安楽なのだが、痩我慢を張って、栄誉と文化を保っている。」
(中略)


武士道を体現した幕末の英傑たち-1

宗像善樹写真 (2)

宗像善樹(むなかたよしき)
1943年生れ さいたま市浦和区在住。早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了。
三菱重工業を定年退職後、文筆活動に入る。元家庭裁判所調停委員。現簡易裁判所司法委員。
幕末史研究会会員、咸臨丸子孫の会会員、全国歴史研究会会員、NPO法人江戸連会員、
長崎楽会会員、埼玉文芸家集団会員。
著書:爆風(三菱重工ビル爆破事件)アルマット社。
咸臨丸の絆(軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉)海文堂出版。

 

武士道を体現した幕末の英傑たち

宗像 善樹

 新渡戸稲造博士が、明治32年(1899)にアメリカで、英文の「BUSHIDO、THE SOUL OB JAPAN」を出版され、世界的なベストーセラーになりました。出版された目的は、我々日本人が無意識のうちに持っている日本人特有の精神をキリスト教の精神と比較して、世界の人々に解き明かすことにありました。
日本国内では、明治41年(1908)に「武士道」として櫻井?村が和訳本を出版しました。爾来、一世紀以上が過ぎました。
この間、日本はいろいろな国難に直面しましたが、そのたびに、日本民族は、先人より受け継いできた「精神」を礎にして国難を乗り越えてきました。新渡戸稲造がいう「SOUL」には、日本人の「勇気」「忍耐」「仁」「礼儀」「誠意」「名誉」「義務」「惻隠の情」などが含まれています。
東日本大震災や熊本地震においても、日本人は過去の国難に対したのと同じような「精神」をもって立ち向かい続けています。

 ところで、わが国には古くから、時代が生んだ英傑と呼ばれる人物が何人もいます。
幕末期を例にとると、私の頭に浮かんでくる代表的な英傑は、小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)、勝海舟、坂本龍馬、福沢諭吉、木村摂津守喜(きむらせっつのかみよし)毅(たけ)の5人です。
私が考える幕末の英傑とは、その時代の世間の通念、状況を大きく変革させ、強力なリーダーシップをもって日本の将来の発展、存続のために比類のない働きと貢献を為した人物のことです。
私は、第1に、小栗上野介忠順(1827~1868)を挙げます。
小栗忠順は、徳川の重臣ながら徳川幕府の行く末を見極め、「幕府の命運に限りがあろうとも、日本の運命には限りはない」として、日本国が海外列強から侵略されることを阻止すべく、幕府に金がない中で横須賀造船所の建設を完遂させ、横須賀造船所を明治新政府に移管することを「たとえ幕府が亡んでも、土蔵付き売り家を新政府に引き渡すことは徳川の名誉である」と周囲を納得させて潔く生涯を閉じた武士です。徳川の幕臣ながら、死後、ロシアのバルチック艦隊を撃破した薩長土肥を中心とする明治政府に日露戦争の大勝利をもたらせた武士です。
後世、「明治の父」と敬称される所以です。
第2に、幕末、明治期において、当時としてはだれも持ったことのない、幕藩体制よりもう一つレベルの高い「日本国」という国家思想を持ち、幕藩の枠を超えて「独立国日本」という概念を当時の人びとに強くうったえ、海外列強の
侵略、支配、植民地化を防いだ勝海舟(1823~1899)、坂本龍馬(1836~1867)、福沢諭吉(1835~1901)、木村摂津守(1830~1901)が近代日本国の基礎を築きあげた武士であります。小栗忠順、勝海舟、福沢諭吉、そして木村摂津守の四人に共通していることは、幕末の同時期に船で太平洋を越えてアメリカ・サンフランシスコに渡り、アメリカを知り、アメリカの進んだ文化に身を持って触れた経験を持つことです。
万延元年(1860)に徳川幕府は日本とアメリカで締結した日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節団を送ります。小栗忠順は、使節団のナンバー・スリーとしてアメリカの軍艦ポーハタン号に乗って行きました。幕府は別途、随伴艦として軍艦「咸臨丸」をアメリカへ派遣しました。この咸臨丸に乗船したのが、軍艦奉行木村摂津守、艦長勝麟太郎、木村の従者としての福沢諭吉の3人です。
つづく(3回連載)