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幕末史研究会
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幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
「坂本龍馬八十八話」
第84話 L字の道路
京浜急行立会川駅の改札口を出て右に歩きだすとすぐに国道15号線にぶつかる。第一京浜である。そこを渡って右に歩くと品川区立浜川中学校がある。ここが土佐藩品川下屋敷の跡地である。
品川下屋敷は土佐藩が天保十三年(一八四二)に幕府に提出した「指出(さしだし)によると一万六千九百一坪とある。土佐藩の江戸で所有していた屋敷の中で最大のものである。その中心となっていた部分にこの浜川中学校は建っている。正門に沿って国道の歩道を歩いてゆくと、信号機がある。この信号機の交差点を右折して進むと、その道は行き止まりになる。右に曲がる道しかない。前進あるいは左折はできない道、不思議な道である。L字に曲がっている路を進むと、もとの第一京浜へ合流する。地図で確認すると、この道は立会川に直角に近い角度で接するように造られている。
L字という形からみて、この角が土佐藩の角を示していると思われる。
L字のもう一方を歩いてゆくと、来福寺と土佐藩品川下屋敷の境界にこの道があると分かる。
この屋敷は明暦三年(一六五九)一月、江戸本丸、二の丸も焼失した大火(明暦大火、あるいは振袖火事とも言われた)の後、土佐藩が御国元から海路送った木材の集積地として使われた土地に建てられている。
大火の後、江戸の道幅拡張、側溝などを定め、町屋の藁(わら)、萱葺(かやぶき)の屋根を禁止し、江戸の大改造をしている中で、大量の木材が必要となり、土佐の木材が江戸へ送り込まれたのである。土佐は森林資源漉が豊富であり、海路送り込んだ木材を蒜保管するために、広大な土地が必要になった。
一万六千九百一坪、東京ドームの約一・二倍となる面積を幕府から借りて使用した。
その後、土佐藩はこの地を拝領して下屋敷としたのである。
寛政年間(五八九~六〇一)に道中奉行が中心に作成した「東海道分間延絵図」には土佐藩品川下屋敷が描かれている。
東海道の浜川橋(涙橋)から細い道路が品川下屋敷の表門に向かって延びている。道の両側は松が植えられており、町屋は東海道沿いに点在するといった静かな場所である。
屋敷は水田に囲まれて、裏が小高い丘となっており、西隣りに来福寺が石段と共に描かれている。
大きな屋根の家屋が一軒、中ぐらいの屋根が五軒、蔵が九軒、確認できる。ペリー来航時、突貫工事で仮屋敷も建てられたと記録されているので、かなりの人員を収容できる屋敷だったと思われる。
L字の道路近くに大きな屋根の家屋が描かれているので、ここが主殿となる建物と思われる。東に向いたこの建物は水田を目の前にする景色の良い眺めである。
屋敷の塀は土塀ではなく木の柵のように描かれている幕末期には土塀になっていたか分からないが、案外、そのままだったのではないだろうか。