第44話 サトウと高知

 

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(アーネスト・サトウ)

「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第44話 サトウと高知

アーネスト・サトウは初めて高知を訪れた。その時のことをサトウは詳しく記録している。
《九時半過ぎに、船は浦戸に投錨した。はるかかなたに小山がつづいている。海岸沿いに生(は)えている帯のような松並み木の景色は、私にセイロン島のポアン・ド・ガル湾をまざまざと思いおこさせた。ポアン・ド・ガルは、コロンボの築湾ができる以前は、東洋通いの郵便船がよく寄港した場所である。
高知湾は出入口がきわめて狭隘(きようあい)で、岩礁(がんしょう)が多く、湾とは言うものの実際には一つの入江をなしている。船は砂浜に向かってまっすぐ走っていたようだったが、やがて急に左に転じて船首を川の中へ乗り入れ、小さい入江の内側の水深十五フィートのところに碇(いかり)をおろした。》(岩波文庫『一外交官の見た明治維新』より)
サトウは、高知を初めて見てセイロン島のポアン・ド・ガルを思いたしている。印象はかなり明るい南国の島といった感じだったのだろう。その印象は今でも同じである。
浦戸湾(高知湾)は入口が狭く、航海士にとっては操船がむずかしい湾である。サトウも須崎に較べて、あまり良好でない湾の様子を細かく描写している。
慶応三年八月十一日、九反田の開成館で山内容堂に謁見したサトウは、その様子を次のようにつづける。
《容堂は口をひらくや、お名前はかねがね承知していると言った。私はこれに答えて、面謁の光栄を与えられたことに感謝すると述べた。ついで容堂は、もし加害者が土佐人であるならば、これを逮捕の上、処刑しようし、たとえ犯人が他藩の者であっても、探索の手をゆるめはしないと、前に後藤が保証した通りのことを繰りかえした。彼は大君(タイクーン)からの手紙を受取っていたが、それには、犯人は土佐人だという確かな証拠があると聞くから、犯人を処罰するように勧告するという意味のことが書いてあった。犯人が自分の藩の者ならもちろんさっそくその通りにするが、大君(タイクーン)の言う「証拠」とは何を言うのか自分にはさっぱりわからないと言った。》
容堂も犯人は土佐人ではないと信じていて、イギリスや幕府の言うことに対して納得していないのである。
《容堂老人は、実は友人から、イギリス人が同胞の殺害に激昂(げきこう)しているから、この事件については妥協したらよかろうとの忠告の手紙がきているが、自分としてはそんなまねはしたくない、もし当藩の者に罪があるなら、これを処刑しようし、また事実そうせざるを得ないが、もし藩の者に罪がないならば、万難を排して無実を申し立てる所存であると言った。》
容堂の友人とは松平春嶽のことであり、忠告の手紙とは坂本龍馬が兵庫まで届けたものである。その手紙のために、龍馬は須崎まで来ることになってしまったのである。
このあと、容堂と後藤はサトウにイギリスの憲法、国会、選挙制度などについて質問をしている。サトウはイギリスの憲法に似たもものを新しい日本に制定しようと考えていると知るのである。