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幕末史研究会
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幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
「坂本龍馬八十八話」
小美濃 清明
第42話 後藤象二郎と龍馬
慶応三年(一八六七)七月六日の夜、長崎でイギリスの軍艦イカルス号の水夫二名が何者かに斬殺された。
犯人は白袴をはいていたという情報で、龍馬たちの海援隊に嫌疑がかかった。海援隊の隊士は白袴姿である。そして、その夜、土佐藩船横笛が長崎港を出航し、土佐藩軍艦南海丸も三時間後に出航したので、横笛から南海丸に乗っ移って、犯人は逃げたという噂さが広がっていた。
英国公使パークスは「土佐は薩摩、長州につぐ雄藩だから、幕府は恐れて詮議をしないに相違いない」と思い込み、大坂で幕府の重役に迫った。
外国奉行の平山図書頭は数回、パークスと折衝をこころみたが、不調に終わり、ついに土佐藩重役に大坂へ出頭するように命じてきた。
そこで山内容堂は京都にいた大目付・佐佐木三四郎と仕置役・由比猪内を下坂させた。
七月二十九日、大坂の薩摩屋敷でまず西郷隆盛と会い、英国との談判の方法について細かい予備知識を得て、問題が切迫した場合は薩摩藩軍艦三邦丸を備用するという諒解を取りつけた。
その後、佐々木、由比は老中・坂倉周防守に面会し、外国奉行・平山図書頭列席で問答をしたが、何の確証もなく、ただの風聞にすぎないと土佐藩側は〓述した。
幕府はパークスが土佐人が犯人と信じ込んでいると説明する。それならば直接、談判をしたいと土佐側が申し出ると、不測の事態が起こることを心配して幕府はそれを許可しなかった。
佐佐木、由比がこの状況を高知の容堂に報告するため、土佐へ帰国すると幕府に伝えると、幕府は外国奉行・平山図書頭、大監察・戸川伊豆守、小監察・設楽若次郎らを土佐へ派遣するから、そう心得よと返答してきた。
佐佐木、由比が帰国することになると、パークスは幕府を通じて英国軍艦で両名を土佐へ送り届ける言い出した。
〈証拠は無い。それを土佐人と決めつけ、土佐へ軍艦を差し向けるとは無礼である〉
と返答し、大坂から兵庫へ向かった。兵庫には薩摩藩の三邦丸が待っていた。
そこへ、松平春嶽から山内容堂へあてた手紙を届けるために坂本龍馬がやってきた。佐佐木に手紙を届けて、話をしている間に三邦丸は錨を上げ出港してしまった。龍馬は下船することができず、偶然高知へ行くことになる。これも龍馬らしい逸話である。
八月二日、三邦丸は須崎に入港。すぐに佐佐木は郡●こおり●奉●ぶ●行●ぎよう●・原傳平、前野源之助を呼び、英国艦、幕府艦がつづいて入港するので準備をするよう指示した。
「英国軍艦、須崎へ来る」。この突然の事態に、須崎はもとより高知城下も人心が沸騰した。
談判は後藤象二郎が土佐藩を代表して、パークスと行うと決定した。
龍馬はこの年の一月、長崎の清風亭で会見し意気投合している。三邦丸に龍馬が乗っていることも後藤に伝えられている。
しかし、佐幕派は二度も脱藩し許されている龍馬をにくんでいるので、これを秘密にしていた。そして秘かに三邦丸から土佐藩船・夕顔に龍馬を移した。
容堂にも龍馬潜伏の件が報告されると、
「その取りはからいについては、しっかりと聞いた、何にぶん、やかましいことだねえ」と笑ったという。