第40話 長崎の岩崎弥太郎

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第40話 長崎の岩崎弥太郎

長崎の岩崎弥太郎 いろは丸が沈没した事件はその後、長崎で談判となる。土佐藩は参政・後藤象二郎を筆頭として岩崎弥太郎らが交渉を開始した。
岩崎の日記「瓊●けい●浦日歴」を見ていくと、その過程がよく分る。瓊浦とは長崎のことである。
慶応三年(一八六七)四月二十三日、いろは丸は紀州藩船明光丸と衝突し沈没した。その情報は四月二十九日、長崎へ伝わった。
四月三十日 岩崎竹島へ向う
このあとの五日間は空白となっている。
五月六日 岩崎唐津へ船が入港。
五月十日 岩崎長崎へ帰る。
五月二十九日 五代才助を訪ねて、紀州藩船を以って沈没いたしたいろは丸品物の代価の償●つぐない●のことについて談ずとある。(原文は漢文なので大意を記す)
六月二日
早朝、紀州償金の帳面を調べ、後藤象二郎の邸に行き坂本龍馬と密話する。
午後二時前に五代才助を訪ねて、品物代価の帳面を渡し、大洲藩の重役大橋采女方へ行き、沈没した船の価の取扱いについて相談した。
六月三日
午後に坂本良●ママ●馬が来て酒を飲む。心の中のことを静かに語る。かねて思っている本心を語ると坂本が手をたたいて、善●よ●いと言った。
六月六日、
午後、才谷梅太郎と大洲藩の船将玉井某を訪ねて、いろは丸の代価について相談をした。
六月九日
後藤象二郎と坂本が午後、水連船に乗る。高橋が随行し、午後二時出港した。
余及び一同が見送ったが、不覚にも決が流れた。
とある。大政奉還へ向って後藤象二郎と坂本龍馬が長崎から京坂へ向ったのである。
龍馬と岩崎弥太郎は長崎で交友を深めているが、岩崎の日記から受ける印象は面白い。
日記の中に二人の交流が分る記述が多くある。六月九日の中にも
「坂本良馬より筑紫鎗ノ短刀所望致候ゆへ、君代りに馬乗袴仕立相贈」とある。
両人とも刀剣の収集という趣味を持っていて、交流が深いようである。
筑紫の国で作られた鎗●やり●を短刀に仕立て直した短刀を岩崎が持っていたのである。これは特別なもので、珍品だった。古刀期の作品でめったにない短刀である。
そこで龍馬はその短刀が欲しくなり、分けてくれと頼んだのである。しかし、岩崎は断り、馬乗袴を誂えて龍馬に贈ったのである。
収集家は自分の集めたものを同じ趣味の人に見せて自慢するのが楽しいのである。そして、それを評価してくれると更に楽しいのである。龍馬は欲しいという程、評価してくれたので、岩崎はご満悦なのである。
二人の間柄はいろは丸談判で急速に接近していったのではないだろうか。
いろは丸の賠償金の価格は、岩崎弥太郎を中心に決定されていくのが真相ではないだろうか。八万三千両の賠償金は後に七万両に減額されている。当初から高い価格を提示していたように思われる。