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幕末史研究会
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「坂本龍馬八十八話」
小美濃 清明
第39話 近藤長次郎と龍馬ー2
行秀は砲術専門家と交流があり小銃を製造している。その人脈の中で海舟を知っていたと云われる。
長次郎の方が海舟門下生になるのが早かったと云われている。
脱藩した龍馬が江戸へ出た時、すでに長次郎は砂村にいた。鍛冶橋門外にあった千葉定吉道場を訪ねたというが危険である。
鍛冶橋内には土佐藩上屋敷があり、目と鼻の先に脱藩者が訪ねるのは考えられないことである。
むしろ、長次郎も行秀も居る砂村の方が良いと思われる。
この砂村で一事件が起きている。砂村の鍛錬場で小銃を生産している時、五十人ぐらいの若者が働いていた。
この集団の中に過激派浪士をかくまって欲しいと板垣退助が頼み込んだ。行秀はしかたなく承知した。しかし、行秀と退助の間で衝突が起き、行秀が慶応三年藩命で土佐へ帰国する時、京都の土佐藩邸でこの話を暴露した。そして、土佐へ帰国した行秀は板垣退助からの密書を藩庁へ提出した。
板垣退助は藩庁から尋問を受ける事になった。結局、板垣はその罪で切腹を言い渡されることになる。しかし、戊辰戦争が始まり板垣は会津まで転戦していった。
切腹はうやむやになり明治を迎えた。その時、西郷は「戊辰戦争で命を捨てた者は多いが、命を拾った者はおはんだけじゃ」と笑ったという。
砂村下屋敷は江戸中心部から離れており、周囲は水田であった。隠れ家としては最適であったのではないだろうか。
龍馬も砂村を訪ねていないだろうかと考えている。