第39話 近藤長次郎と龍馬ー1

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第39話 近藤長次郎と龍馬ー1

長次郎は坂本龍馬と同じ上町の生まれである。
水通町の横丁にあった大里屋という餅菓子屋の長男である。龍馬とは郷士と町人という身分の違いがあった。

龍馬は豪商才谷屋が興した郷士である。龍馬は商人・職人を見下す目線を持っていない。士農工商という階級を超えて活動した人物である。
しかし、長次郎から見れば、郷士の次男坊であり、羨望の視線で常に龍馬を見ていたと思われる。侍になりたいという願望が長次郎の中で次第に膨れ上っていったと思われる。由比猪内の下僕となって江戸へ出た。

安積良斉の門下生として学問を身につけるところまでいったが、両親の死で、土佐へ戻っている。
そして、再び江戸を目指した時、「岩崎弥太郎はその志に感心して自分の差している刀を餞別(せんべつ)として長次郎に贈ったと「藤陰略話」にある。
この長次郎の才能に注目していたのが土佐藩抱工(かかえこう)の左行秀である。同じ水通町に住んでいた。

この左行秀は江戸で刀鍛冶の修行した後、土佐へ移っている。名工で、吉田東洋が暗殺された時、この左行秀が作った二尺七寸という刀で斬り合っている。龍馬の兄権平が左行秀に注文して作らせた刀も現存している。刀の中心(ナカゴ)には「坂本直方(権平)」の名も刻されている。

抱工は上士であり、行秀は最後に新留守居組までになっている。

抱工は藩から扶持(ふち)をもらい、作った刀は販売するので現金収入もある。行秀は豊かな生活をしていた。

酒を飲めない行秀は甘党である。それで長次郎との接点があった。初め行秀は子供がなかったので吾子のように可愛がっていたようである。
行秀は藩命で江戸砂村下屋敷へ移るようになる。万延元年頃という。これは土佐藩が砂村に鍛錬場を造り小銃の生産に着手したからである。

輸入銃をモデルに日本製洋式銃を造るという仕事のために行秀は江戸へ出た。行秀は藩工になる時、刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として抱えられていたのである。

長次郎二度目の出府の際は砂村藩邸に住んでいた。行秀は長次郎の侍になりたいという夢を実現させるために、惜しみなく経済援助をつづけたという。行秀は長次郎の父親的存在であり、長次郎が海舟門下生として江戸を離れるまで続いていたという。