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幕末史研究会
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幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
第259回 幕末史研究会
日時 2018年1月27日(土)午後2:00から4:00 会場 武蔵野商工会館4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分 講師 松方 冬子氏 東京大学史料編 纂所准教授 テーマ 「約条・契約から条約へ」
内容 徳川政権を素材に異国人の受け入れと通商がどのような 基本法(「約条」と「契約」)によって統御されていたかを探る 他。
「坂本龍馬八十八話」
小美濃 清明
第37話 土佐藩の斥候・密偵
ペリー艦来航の時、幕府、各藩は情報収集のため、斥候、密偵を放っている。
土佐藩が放った斥候、密偵が何人いたかは不明だが、「侯爵山内家家史編纂掛」の史料を読んでいると、何人かの名前が上ってくる。
森澤禄馬(もりさわろくま)、衣斐小平(えびこへい)、大庭儀平(おおばぎへい)、谷村才八(たにむらさいはち)が斥候として記録に出てくる。
森澤の報告に、
〈毎日斥候として御物頭(おものがしら)あるいは平御士神奈川迄遣わされ候(そうろう)こと〉
とあるので、上士たちが毎日に交替で斥候として情報収集していたと分かる。特別に訓練をうけて教育された専門の斥候、密偵がいたわけではないようである。
ただ情報収集する能力の優れたものが、出張する回数が増えたと思われる。森澤、大庭、谷村の報告が現存するということは、その才能があったということである。
その中で特に注目したいのは大庭と谷村である。佐久間象山塾の門人帳「及門録」に嘉永六年(一八五三)十二月一日、坂本龍馬と共に連記されている人物と思われるからである。
谷村才八に関しては同姓同名である。
大庭が大庭毅平と「及門録」にあり、「山内家家史編纂掛史料」には大庭儀平とある。しかし、この当時、江戸の土佐藩邸に大庭姓は一人であり、「毅」はキあるいはギと発音するので、「毅平」「儀平」ともに「ギヘイ」と発音していたと考えられる。
同一人物と考えてもよいと思われる。
及門録を見てみると、大庭と谷村二人が丸カッコでくくられており、坂本龍馬が一人そのカッコに別カッコで付け加えられている。この書き加えは何を意味しているのだろうか。
大庭家の家格は「御馬廻」で知行二百石の上士である。七代目大庭恒五郎景保の末弟が毅平景政(ぎへいかげまさ)である。
嘉永六年九月十五日、砲術修行のため、江戸表へ出立を命ぜられている。
谷村家の家格は「御馬廻」で世禄八十石の上士である。六代目谷村酒之自輝(よりてる)の弟が才八自寛(さいはちよりひろ)である。
嘉永六年九月十五日、学問修行のため、江戸表へ出立を命ぜられている。
この大庭と谷村は嘉永六年九月十五日、同じ日に藩命で江戸出府することになった。
ペリー艦隊二度目の来航に備えての人事で江戸へ出てきている。坂本龍馬のように私費で剣術修行で出ていて、たまたまペリー来航に遭遇して、臨時御用で警備陣に加えられた郷士と違うのである。
最初から大庭・谷村で組み合わされたチームなのである。
下田へ斥候として派遣させられたのも、藩及び寺田左右馬の指示であろうか。
『ペリー艦隊日本遠征記』にも「二人組の密偵」「二人の日本役人」と二人組の行動が記録されており、これが斥候の普通の形だったのかもしれない。