第36話 大庭儀平・谷村才八の下田報告-4

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幕末史研究会
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第259回 幕末史研究会
日時 2018年1月27日(土)午後2:00から4:00 会場 武蔵野商工会館4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分 講師 松方 冬子氏 東京大学史料編 纂所准教授 テーマ 「約条・契約から条約へ」
内容 徳川政権を素材に異国人の受け入れと通商がどのような    基本法(「約条」と「契約」)によって統御されていたかを探る 他。

「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第36話 大庭儀平・谷村才八の下田報告-4

大庭儀平・谷村才八の報告のつづきである。
○佐久間修理は夜中異国船へ参ったという風聞があります。それ故に佐久間の姿を画いた例の砂金鏡があるそうだという風聞です。これも彼国へ参る下心であり、不届成奴★ふとどきなるやつ★でございます。
この報告は吉田松陰密航未遂事件についてである。
佐久間修理(象山)の弟子が(吉田松陰)が密航を企てたが、弟子が伝聞では消えてしまい、佐久間修理自身が密航を企てたことになっている。
大庭・谷村はこの風聞を下田で知り報告しているのである。
砂金鏡で佐久間修理が自身の姿を画いたというこれも風聞を聞いたのである。吉田松陰が銀板写真を写したという事実もない。「不届成奴」という大庭・谷村の報告は幕末当時の一般的な感情が出ていて面白い。
吉田松陰については『ペリー艦隊・日本遠征記』に詳しく記述されている。
先ず、吉田松陰は小舟でペリー艦隊に乗り移っているが、実はその二日前に陸上でペリー艦隊乗組員と接触していた。
〈ある日、このような上陸のさなか、一行が郊外を抜けて田舎を歩いていたところ、二人の日本人があとをつけてくるのに気づいた。
はじめは二人組の密偵が監視しているのだろうと思い、ほとんど注意を払わなかった。ところが、この二人はひそかに近寄ってくるようだし、こちらと話す機会をうかがっているように見えるので、アメリカ士官たちは彼らがやってくるのを待った。近寄ってきた二人を見て、この日本人が地位と身分ある人物であることが分かった。いずれも高い身分を示す二本の刀を帯び、幅広で短い立派な錦襴★きんらん★を袴をはいていた。〉
吉田松陰と金子重之助の二人がペリー艦隊の士官へ近づいたのである。そして、
〈時計の鎖をほめるような振りをしながら、畳んだ紙を士官の上着の胸に滑り込ませた。二人は意味ありげに唇に指を押し当て、秘密にしてくれと懇願してから、足早に立ち去った。〉
手紙を士官の上着に入れて松蔭と重之助は去っていった。手紙は四月二十五日と日付があった。船へ乗り込む二日前である。
ペリー艦隊の通訳ウィリアムズが漢文の手紙を英語に翻訳した。長文の手紙だが、最後に次のように書いている。
〈われらの言葉は粗野で意中を吐露するに足りませんが、われらの心は真に誠実であります。執事、願わくは其の情を察し、其の意を憐れみ、疑うことを為すなかれ、拒むことを為すなかれ。万二(瓜内万二、松蔭偽名)公太(市木公太、重之助偽名)〉
松蔭と金子重之助は四月二十七日の夜、ペリー艦隊に乗り込んだが、アメリカへ連れて行くことを拒否されている。翌日、松蔭と重之助は自首して捕らえられることになる。
その後、日本側の首席通訳、森山栄之助がポーハタン号に来て、
〈「昨夜、発狂した二人の日本人がアメリカ艦に近づいていった」と話し、旗艦にやってきたかどうか、もしそうなら、その男たちがなにか不都合なことをしなかったかどうか教えてほしいと言った。
副官は、まことに大勢の人々が給水や業務でたえず海岸からやってくるので、来艦した二人を正確に覚えているわけではないが、と答えてから、なんの悪行も犯されなかったし、そんな素振りを見えなかったと断言した。
そして、通訳に、いま話に出た日本人は、無事に海岸にたどり着いたかとたずね「着いた」との答えに大いに安堵した。〉
と記録が残っている。