第33話 大庭儀平・谷村才八の下田報告1

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第33話 大庭儀平・谷村才八の下田報告1

嘉永七年(一八五四)三月三日、日米和親条約を締結して帰国の途についたペリー艦隊は、途中、下田に二十五日間、停泊した。
その時、土佐藩はペリー艦隊の動向を探るために斥候を下田へ派遣していた。  これはその報告内容である。この資料は「侯爵山内家家史編纂掛」の記録であり、高知市民図書館収録のものである。  斥候大庭儀平、谷村才八は嘉永六年十二月一日、坂本龍馬と共に、佐久間象山塾へ入門した仲間である。 ○ 二人(大庭・谷村)の宿泊している宿へ異人が毎日訪れて来ました。上官の者は衣装も立派な羅紗(ラシャ)を着用し、下着には白羽二重の様なものを着て、上に羅紗の筒(つつ)ぼを着用しています。笠と思うような冠のようなものをかぶっており、はなはだ自慢げに見えます。 ○ 異人らは家に来ますと、座敷に上りますがクツを脱がず、座敷でも座るということもなく立っております。その時は両手を片腹へ当て両臂を張っております。道を歩いている時も、立ち止まればやはり両臂をはります。また座へ腰かける事もあるようです。 ○ 二人の宿の前を異人が通ります時は宿の娘を招きたいと入って来て、娘の手を取ります。これは異人の礼と申すそうです。その言葉は「タダイマ」と申し、頭は下げないで帰る際は「アバヨ」と申し帰るそうです。これは江戸にては子供の別れに申す言葉です。御国元では「イマイマ」と申す言葉です。これなどは異人が横浜で聞き覚えたものと思われます。 ○  二人の宿に異人が入って来てドビンへ指をさし「茶茶」と申しましたので、宿の娘が、茶を入れて差し上げたところ、熱くて、「水水」と申したので水でうめましたところ呑みまして、異国の銭二十文ぐらい置いて帰りました。アメリカの銭ではなく唐銭のようです。 ○ 百文銭をしきりに欲しがりますので、天保通宝がありましたので見せますと「天保天保」と云い手を出しました。 ○ 異人は蛇を取りに行きました。その時、役人がつきそい■山へ入りますと、笛を吹きました。すると蛇がたくさん集まりましたのでそれを籠(かご)に入れて帰り、湯がいて皮をがして、油で揚げて食べておりました。  ペリー艦隊の乗組員は幕府の役人による監視下におかれていたので、自由に行動はできなかった。その時の様子が『ペリー艦隊・日本遠征記』に次のよう記録されている。 〈アメリカ人は依然として自由をかなり拘束され、プライバシーは兵士や密偵の疑り深い監視と、差し出がましいおせっかいによって侵害された。提督自身、ある日士官数人を伴って町を歩いているとき、たえず二人の日本役人が先行していることに気づいた。役人は出会う住民をかたっぱしから家に追い戻して戸を閉めさせた。商人が外国人に品物を売ることを禁じられているのは明らかで、どんなささいな品物を買おうとしても、まったく手に入れることができなかった。提督はふたたびこの狭量な処遇に抗議しなければならないと思い、旗艦付副官を監督官のもとに派遣し、いくつか苦情を申し立て、即刻このような扱いをやめるよう要求させた。〉  幕府の役人とペリー艦隊との交渉の結果、自由に行動できるようになった。そして、買い物に使う、貨幣のことが問題となった。そして、  一ドル銀貨は中国銅銭一六○○個と同じ価値として、臨時の為替レートができた。日本の貨幣は厳重な法律により流通を統制されていて、外国人との取り引きには使用できなかったので、下田の商人は合衆国の貨幣を受け取ることになったとペリー艦隊は記録している。  日本で最初にドル貨幣で、ペリー艦隊乗組員が買い物をしたのは下田である。