小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
第258回 幕末史研究会
日時 2017年11月25日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 5階
吉祥寺駅中央口から徒歩5分
講師 町田 明広氏・神田外語大准教授
テーマ 西郷隆盛とその時代・幕末編
講義内容 西郷の元治・慶応期の政治動向に焦点をあて、
島津久光との関係性を重視しながら、最新研究に基づいて述べます。
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは8月25まで下記事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
第30話品川海岸からの撤退命令
嘉永七年(一八五四)二月二十八日、幕府から土佐藩に品川海岸からの撤退命令が出た。
ア メ リ カ
(亜米利加(アメリカ)船、禰平穏の趣候間、海岸通屋敷、屋敷相固候面面、最早、其儀(いよいよへいおんおもむきにそうろうあいだかいがんどおりやしき やしきあいかためそうろうめんめん もはや そのぎ)に及ばず候)
という「御達」が届いたので、土佐藩の総員引き揚げが始まった。
七ツ半頃(午後五時頃)大砲五門を台車に載せて、足軽に小銃を持たせ、物頭以上の藩士は騎馬で隊列を組んで品川下屋敷を出発した。
鍛冶御門内(現、有楽町国際フォーラム)にあった土佐藩上屋敷に到着したのは六ツ時(午後六時)だった。
途中、道の西側は見物人が多く集まり、土佐藩士の姿や大砲の大きさや数を見ながら評価しているようだった。
土佐藩の評判は上々であり、満足のいくものが多かった。
その頃、江戸で流行した狂歌がある。
品川の固めの出しのよくきくは
下地もうまくなれし土佐武士(とさぶし)
品川の土佐藩の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備も上手な熟練の土佐のサムライであったからだ……という意味である。そして、品川の堅目(かため)のだしのよく効くのは、料理の下どしらえも、上手にできる土佐の鰹節だからだ……という意味を掛けた狂歌である。
土佐藩の総員とは何人だったのだろうか。
山内家家史編纂所の.「間隙雑記」には次のように記されている。
一
士大将(さむらいたいしょう)
寺田左右馬 原半左衛門
物頭(ものがしら)
野本源蔵 鹿瀬伝八郎
羽田縫右衛門 落合久米太郎
森 藤太夫 片岡 多門
宮井 守衛 植村権之進
平御土(ひらおさむらい)
山田太助 横田源作 大庭毅平 谷村才八 中山右衛門七 寺田小膳 野中太内 藤岡勇吉 山田大平 山本代平 衣裳小平 植村源次郎 高村直蔵 勝賀瀬半助 市川千吾 阿部喜藤次 安養寺善平 和気柳平 谷兎毛 香河甲馬 大谷俊平 村井運八郎 野野村為八 馬淵桃太郎
伊笹敬次 近藤達吾 渡遵又四郎 細井半十郎 奥宮井惣二 井家右馬次 大略右之通
壱番弐番御人数当御屋敷江相詰候御士ハ 細井半之進 市川俊三郎
軽格ハ姓名存知不申候 御小人迄四百人も可有之と奉存候
指揮官は寺田左右馬と原半左衛門の二人
物頭(隊長格)は野本源蔵以下八人
平御士(上土)は山田太助以下三十一人である。
その他、品川下屋敷へ詰めていたのは、細井半之進と市川俊三郎の二人である。
そして、他の軽格(下士)の姓名は知らないと書かれている。坂本龍馬は軽格なので氏名が記録されなかったのである。
そして、御小人まで四百人もいただろうと書かれていた。
龍馬の名前が嘉永六年十二月一日、佐久間象山塾の「及門録」に記されているが、三人が一組となって記述されている。
大庭毅平と谷村才八の二人と龍馬である。平御士の中に大庭と谷村の名はある。それは二人が上土だからである。同時期に象山塾入門の二人が品川警備陣に加えられていれば坂本龍馬も、
当然、品川に来ていると思われる。
しかし、名が記述されていない。それは軽格のため「姓名存知不申候」として、記述されなかったのである。
総員は約五百名から六百名ぐらいだろうか。